あなたさえ、
昼川 伊澄
あなたさえ、
「まりんのかみかざりはこんなのじゃない!あおくないの!」
絵筆を握る左手が、意識と切り離されたように痙攣し始める。何人かの女子に囲まれてうつむく私を見て、ジャージ姿の担任が教壇から溌溂とした声でこちらに声をかけた。まりんちゃんの取り巻き筆頭の、熊みたいな大柄の女子が、興奮しきった様子で喋る。隣にいるまりんちゃんは、魔女みたいに口角を上げている。私は口をはくはくと動かしたものの、声になることは無かった。担任は話を理解すると、健康的に日焼けした額を小指で掻きながら困ったように笑った。
「確かに、ピンク色だもんね。上から重ねたら、きっと綺麗な髪飾りができるんじゃないかな?」
担任と目が合う。担任は、何も気づかなかった。
まもなく、芋虫のように太い指で、熊女は私の絵の具セットを漁りだす。整然と収納されたチューブをばらばらに乱して、真っ赤なチューブを勢いよく引っ掴んだ。ぶちゅっ、と、パレットの真白い部分に親指の爪ほどの赤いドーム型が絞られる。「わたしがやってあげる!」まりんちゃんの、金属を打ち付けた様な声が教室に響き渡る。外の木々が、私と繋がってざわざわと唸った。
「こっちのほうが、いいよ」
その場の誰かがそう言った。髪飾りは淀んだ赤へと滲み、瑠璃色に練ったパレットは、アメーバのように足を伸ばした赤に侵食されていく。溜まった唾をやっとの思いで飲み込んだ頃には、私は長方形の教室の真ん中にただ一人、息を荒げて座っているのだった。
湿気で言うことを聞かない髪を手櫛で結い上げて、長そでの制服に腕を通す。ナナフシくらい異様に細い腕を隠し、不本意に羨ましがられる細くて不自然に長く伸びる足は、膝までスカートで囲む。階段の下から、小学校に通い始めたばかりの弟がぐずるのが聞こえてきた。急ごう。階段を降りると、黄色い帽子をかぶせた頭を大切に撫でながら、母が振り向いた。
「なっちゃん、
「いいよ。お母さんもお仕事疲れてるでしょう?」
母は朗らかに微笑んで、お願いね、ともう一度黄色い帽子をやわらかい指で撫でた。母によく似た暗めの茶髪に、赤いランドセルの弟は、私を見て花がひらくように笑った。両腕を広げる拓海をスクールバックと一緒に抱き上げ、玄関扉を開けた。
「いってらっしゃい。拓海、なっちゃん。」
「ママ、またね?」
「いってきます。」
拓海を抱っこしたまま、通学路を歩く。まだ時間が早いため、辺りは早起きの老夫婦と散歩する柴犬くらいしかまだ居ない。五分ほど歩くと、拓海はやっと自分で歩きたがるようになる。六歳とはいえ私の腕に拓海は決して軽くない。汗が滲むのを我慢して毎朝ここを歩く。小さい歩幅に合わせて歩くこの時間は、私をいいお姉ちゃんにしてくれる気がする。
ふと、繋いでいた手をするりと抜けた拓海が、ぴょこぴょこと赤いランドセルを弾ませながら走り出した。
「はるひくーん!」
拓海が、舌っ足らずで甲高い声で呼ぶと、路地から現れた同い年の少年がこちらに気づき、一生懸命にぶんぶん手を振る。拓海を追いかけて私も小走りになる。汗を拭って、胸をおさえて、息を整えた。同じ黄色い帽子に深緑のランドセルの
「たくみさぁ、きょうさぁ、こうていの、あの~」
何か二人しか分からない会話が始まる。二人が互いに必死に頷いたり、言葉をあべこべに並べたりしていると、ほかの小学生たちも通学路に増えてきた。程なくして、春陽くんのお父さんがゆったり歩いて追いつく。太陽が、家を出た時より煌々と昇っている。春陽くんのお父さんは醤油の染みがついたスウェットにTシャツというラフな姿で、髪は色落ちした金のメッシュが目立つ。少々強面な風貌から出てくる間の抜けた軽い声にはいつまでたっても慣れない。
「毎朝大変だね~!甘えん坊だな、拓海は。なっちゃん忙しいんじゃないの」
呼気に溶けているタバコの匂いに息を止めながら私は笑う。「拓海は甘えん坊だから、母が放っておかないんですよね。」朝食を食べていないせいでぐるぐる痛む頭に気づかないふりをして、拓海たちの並んだランドセルを眺める。女子児童に混ざる、真新しい赤のランドセル。拓海が自分で選んだものだ。
「多分、抱いて撫でてくれたら誰でもいいんだとは、思います。」
今日は風がない。春陽くんのお父さんはあからさまに咳払いをした。高学年の男女何人かがひそひそと拓海のことを口にする。好意的な女子たち、嘲笑する男子たち、多様性の魔法の響きで何も言えない保護者たち。正しくないのは、あのランドセルだけだ。拓海を春陽くんのお父さんに任せ、私は反対方向にある高校へと急いだ。
高校は義務教育機関に比べて始業時間が遅いのがありがたい。電車通学でない私にはなおさら、朝に余裕を与えてくれる。教室に着く前にトイレに入って、一つ結びをお団子に纏め直した。幾分か、汗ばんだ首元がさっぱりとする。高校の古い校舎は、外気より一℃くらい体感気温を下げてくれる。汗は段々と引いていった。
廊下側の後列に常駐するニオイのきつい運動部の塊の前を通過して、窓際にある自分の席に向かう。めりめりとカバンのチャックを開き、課題やら教科書やらを机に収納していると、透き通ったビーズを詰め込んだ様な声がからんと降ってきた。
「おはよ!なっちゃん、コンクールの題材考えた?」
「
「え~いいじゃん、それより絵画コンクール!せっか、なっちゃんに描いてみて欲しいのあるんだ!」
細くて小さな手を私の机にちょこんと置いたり打ち付けたりする雪花と、昨晩に溜まった話したい話題を時間いっぱい喋りあった。
一日分のチャイムを聞き流して放課後、雪花と私は美術室へ直行する。今日もやはり部員はほとんど揃っていないらしい。引退の近い三年生が画材を返しに来たり、授業中に制作が終わらなかった生徒が出入りしたりするくらいだ。今日なんか、私たちと二年生の部長しかいない。私たちがどんなに話声を出しても集中力に影響が出ないらしい部長は、カーディガンを腕まくりして黙々と石膏像のデッサンを進める。私たちも初めこそ気を使ったものの、今はもう普段と何ら変わらないトーンでスケッチブックを手にお喋りをしている。
「これ。ポロックって人、抽象画?」
最新機種のスマホ画面を向けながら、雪花が朝の続きを話し出した。部長の鉛筆がこすれる音が、少し聞き耳を立てた。雪花が無駄のない流動で足を組む。泳ぐつま先を勝手に目が追った。
「なっちゃん、風景画とか綺麗だから、こういう曖昧な感じの絵は描かないのかな~って。うまく言えないけどこれ、よくない?」
小さい画像をズームして、スマホごと渡された。なるべく指紋をつけないように液晶に触れて受け取る。日焼け止めが乾いた白濁の跡が、雪花の透明な指が辿った履歴を残していて、私は少し身震いした。雪花に横から顔を覗き込まれる。雪花の息遣いが近づいてきたのに顔を逸らして、平静を装った。
「これ結構有名な人のやつじゃないの。ジャクソン・ポロックでしょ?」
いつの間にか手を止めていた部長が大きく頷くのが見えた。部長のキャンバスには、まだ少しの歪みも許されない石膏像の輪郭が浮かび上がっている。雪花が言わんとしていることはおおよそ理解した。何と返そうか迷っていると、満を持して部長が口を開いた。いやもしかしたら、口を出したい気持ちが我慢できなかったのかもしれない。
「織田さん、抽象ってことは、見たものそのままじゃないんだ。確かに風景画が上手だけど、なっちゃんは、正確な描写が強みだと思うし、ちょっとズレてるかも」
一つ下の妹とは真逆の大人しい部長が少し強い語気で言う。ポロックを、私たちのような奴らに触らせたくないというプライドがひしひしと伝わった。雪花は組んでいた足を戻して膝をぴったり合わせ、きょとんと首を傾げる。他人の言動にいちいち目敏い私に比べて、雪花は人の心の機微に疎い。二人で黙っていると、部長がぱっと立ち上がって、戸棚に整列する美術資料を何冊か選ぶと、机に並べて順番にジャクソン・ポロックと書かれたページを開いた。ただイラストや漫画が好きなだけな部員の中で、部長ただ一人で本格的に美術を見ているのが格好良く見えたから、それに見事にあてられた私たちは入部を決めた。
「雪花も勉強したら、部長みたいに…」
チャイムが遮る。部長は紫紺のカーディガンに黒鉛で汚れた黄色い腕を隠した。遠くの窓から雪崩れ込んだ生暖かい風が、年々短くなる雪花のスカートを浮かせた。気管がぐっと締まるのが分かって、唾を飲み込む。
「好きならいいよ。美術の事を考える時が、私は苦しくて好き。」
美術に対する愛情と自尊心が、部長の作品の形を支えていた。返答を待たずに部長は石膏像に陰影を付けに戻って、雪花はそんな部長をうっとりと見つめた。今日初めての風が頬を伝う。まだ描き続ける部長に挨拶をして、私たちは学校を後にした。
ローファーをこつこつ鳴らしながら、雪花は両手でスクールバックを抱きしめて踊るように歩く。時間が合わないから小学校には寄らず、まっすぐに帰り道を行く。私の数歩先を進む雪花が交差点で振り向いた。なかなか車が切れないここで立ち話をするのが毎日の習慣だった。
「部長ってミステリアスだけど芯があって、すっごいステキじゃない!?雪花のことも、何か綽名とかで呼んで欲しい~」
駄々をこねながら私を見るその目は、拓海さながらの幼さだ。雪花は部長に憧れている。
「私をなっちゃんって雪花が呼ぶから移っただけだと思うけど?」
「じゃあ私もつけて!」
「なにを今更……」
「なっちゃんは、ずっとなっちゃんだもんね」
私になっちゃんと綽名が付いた頃、皆が私をそう呼ぶものだから、普通に呼ばれても周りが気付かないことが多々あった。そのうち母も呼び出したので、高校一年の今も、私は変わらずなっちゃんで、雪花はずっと雪花のままだ。
「ねえ今度、弟くんに会わせてよ。かわいいんでしょ?」
私たちを見た他校の通学バスが止まる。
「子ども好き?」
雪花はひらひらと横断歩道を駆けて、私の元から向こう岸に渡る。車が通った後の残り風にプリーツスカートが膨らんだのを見ていた。スクールバックを左肩に掛けながら、渡り切った雪花が振り向く。行き交うエンジン音より、パステルイエローの周波数をした声は、遠く離れた私の耳にたっぷり届いた。
「好きだよ」
また明日!雪花が角を曲がるのを見届けて、帰路に着いた。すれ違った大人がぎょっとした顔で私を見たのに気がついて、歩幅を大きくした。
家には鍵が掛かったままで、赤いランドセルがドアの前に投げ捨てられている。教科書の詰まった重たいランドセルを拾い上げて、鍵を開ける。
程なくして、公園に行っていたらしい拓海が帰ってきたので、手洗いうがいをさせる間におやつの準備をした。お母さんが帰ってくるまで拓海の相手をするが、宿題もまだ目新しい拓海は、嫌がることなくちょこんと座って鉛筆を握る。私はそれを眺めながら、皿に盛ったポップコーンに手を伸ばして終わるのを待つ。
「またこれなの?」
甘じょっぱい指を舐めながら笑ってみる。いつの間にかひらがな練習は終わっていた。
「好きって言ったらそればっかりよ。お母さん最近のおかし知らない」
「きょうね、はるひくんがくれたの」
ズボンのポケットをおもむろに漁る拓海はちょっと嬉しそうで自慢げだ。小さな手には、ティッシュの塊がふわりと開く。丁寧にその包みを開いた拓海は、愛おしそうにそれを私の前に突き出した。
「みて、がいこくのヤツなんだって!」
着色料をそのまま固めたような原色のグミがふたつみっつくるまれている。拓海は赤いのをつまんで口に含み、残りを私の前に置いた。見るからに体に悪いそれも、拓海の眼には宝石に見えているだろう。そういう楽しみを理解できた頃の記憶が、きっとお母さんにもう無くなっているのを、拓海も分かっているのかも知れない。貰っていいのか尋ねると、うにうにと噛みながら拓海は頷いた。青い丸をつまんで口に入れる。輪ゴムのような味が暫く続いて、飲み込むころには私たちの舌をそれぞれ鮮やかに染めていた。お互いそれを指さして、おいしくないね、なんて言い合った。
「ママには内緒ね。守れる?」
「ないしょ!できるよ!」
幼い無邪気なこの子は、この時間だけは私のことを母として見ている。拓海は、ママなら誰でもいいと言うのだろうか。
少ししてお母さんが帰ってから、ようやく私の時間が出来る。くたった制服から脱皮して、部屋着になった中学ジャージに着替えたら、やっと一日が終わった気がしてぶわっと力が抜けた。ベッドに腰かけ習慣的にスケッチブックを開いたのと丁度、スマホが震えた。雪花お気に入りのジャンヌのバラードは、気まぐれに鳴るから心の準備ができない。それでも、いつだって嫌な気はしない。長く太い息を吐いて、通話ボタンを押した。コンマ数秒後、朝と何も変わらない透明な声が耳元で囁く。体温がほんの少し上を向くのが分かった。声は湯気の中で少しハウリングしていて、私は雪花の足に絡む水音に耳をそばだてる。
「なっちゃんもっと話してよ~?不安になっちゃう」
「いいの。雪花が話すのを聞くから」
「あはは!なっちゃんのそういうとこ好きだよ!」
しばらく何かの話をした。その声音の一つだって聞き零すまいと、私は必死になって頷いた。
「小学校のころからさぁ」と、雪花は定期的に私たちが仲良くなる前の話をする。それは、教室の後ろに張られた絵の話だった。私が雪花を認識する前から、雪花は私を見ていたというのが少し恥ずかしい。でも同時に、この上ない多幸感に包み込まれる。それからスケッチブックを一枚ずつめくりながら話を聞いていると、雪花が思い出したように切り出した。
「そういえばさ、今日帰りに真凛に会ったの。めっちゃ可愛かったよ。メイクとか凄かったなあ」
そのとき、スケッチブック上のスクラップや落書きじみた色々のなかで、厭に精巧に描き込まれた髪飾りがぼうっと浮かんだ。恐ろしくなって消しゴムを掴む。あの教室、上から塗りつぶされた似顔絵が断片的に出てくるが、同時にお母さんが拓海を溺愛する猫撫で声が下から聞こえて、正気に引き戻された。雪花がお湯の中でちゃぷんと足を組みなおす。
「あと、雪花ね、コンクール出さないことにした。なんか、時間取れないな~って思って」
春先らしい台風予報がニュースで出て、風が静かに吹き始めている。なにより可愛い不香の花は、確実に私の手からすり抜ける。
「そろそろのぼせそうだから切るね。なっちゃん早く寝なよ?」
蚊の鳴くような声で頷いた。通話が終了した画面が表示され、分厚い不安に襲われる。私はスケッチブックを放り投げて、携帯を抱きしめてベッドに横たわる。いつもより、電話が切られるのが今夜は早かった。こういう、隠された一つ一つに気づいていく自分に、まだ見えなくていいんだから、と叫ぶように言い聞かす。
「なっちゃんは、出して。」
雪花は用事があると帰ってしまって、広い美術室に私と部長の二人だけ配置されている。カーディガンを腕まくりする部長が、珍しくこちらをまっすぐ見た。停滞する空気に困惑して顔の筋肉を引き攣らせる。私は雪花が出さないならコンクールを辞退しようと考えていたから、その旨を伝えたのだ。
「なっちゃん、模写やデッサンは完璧だけど、そのままじゃ多分伝わらないって分かってるんでしょ。」
部長のキャンバスの石膏像は、陰影を入れるのに比例して歪んでいく。それと同じだけの増え方で、私はこの人のことを疎ましく思った。わざとミステリアスに振舞わないと、一人で呼吸するのが苦しいという、浅ましさをそのまま形に興したデッサン。雪花が慕うこの人は、いったい私の何を知ってそんなことを言うのだろう。不味い空気を見せつけるように肺いっぱいに取り込む。
「怖がらなくていいから、描いてみない?」
部長が考えていたセリフのようにそう言ったその時、廊下で知らない生徒の笑い声が通過した。過敏に反応した部長の手から濃い鉛筆が落ちて、私の前まで転がってくる。鉛筆には、几帳面に角ばった文字で記名してある。
「笑われてますよ。」
拾ったそれを受けとった部長は、もうこっちを見ていなかった。
「そんなの気にしても、関係ないから。」
「…そんなこと言って、あなたもデッサンばっかり描いてるじゃないですか。」
部長は、分かりやすく固まって動けなくなった。石膏像はどんどん歪む。この人は、目
の前の形をその通りに描くことが絶望的に出来ない。
私は知っている。この人は、時々顔を出す他の同級生の部員たちに分かりやすいようにデッサンをしている。もうこれ以上、同級生たちから孤立したくないという意識が、部長の陰影を歪めている。
私は勢いに任せてずかずかと広い美術室を進み、誰かが残したキャンバスを乱暴にイー
ゼルに立てたいつも使っていたホルベインの水彩絵の具ではなく、重ねても下が透けてこないアクリル絵の具を棚から出した。色の染みついたパレットにぐっちゃり絵の具を絞り出す。
「だって、私は、美術じゃないと駄目なの」
もうどうでも良かった。雪花の透明な声が聞きたい。そのほかには何もいらない。私の形を異常だと厚く塗り消したあの女の子たちが蘇る。見えているものがいつだって全てだ。正確に、そのものをその通りに感
じることが一番だ。そう張り付けにした教室の中で私はずっと震えている。
「
「でも、なっちゃんも、青がいいと思って青くしたんでしょう?」
部長はセーラーカラーとカーディガンの中で肩を震わせて泣いていて、私の頭は真っ蒼に侵食されていた。
オールオーヴァー画法の真似事も、アクションペインティングの模倣も、過去の私の恐怖や、汚い恋情の塊でしかなかった。ポロックの抽象的なあの絵が伝える哀切なんか理解しないままでいい。青かったころの私は、本物の『なっちゃん』は、帰って来ない。
気が付くと部長はもう居なかった。下校時間を告げるアナウンスに追い出され、私は風が暴れる道を一人で歩きだした。
いつもの交差点には雪花が居た。同じ高校の男と一緒だった。
雪花に作品制作の時間が無いのは、美術や私に使う時間が無くなっただけだった。
「バレてないとでも思ってたの?拓海に変なもの食べさせないでよ。なっちゃんのくせに。」
夜勤前らしく、荷物を持って髪を飾ったお母さんは、玄関でそう吐き捨ててハイヒールにむくんだ足を突っ込む。
「……笹森さんって、次いつ来るの?」
揺れるつむじに話しかける。お母さんは、無理くりにハイヒールを履いて、不自然なほどまっすぐに立ち上がった。
「いいの。ママには、拓海が居るの。拓海さえ居れば、また……」
そんな呪いを呟きながら、お母さんは職場に向かって行った。やわらかい茶髪が霞むほどに毒々しい、経血のような赤い口紅。お母さんは毎日それを差して、私と拓海を家に置いていく。いつか、帰って来なくなるんじゃないかと思いながら、私はいつも送り出す。この人と同じ意地汚い血が流れている。でも私と拓海のお母さんは、お母さんしか居ない。
二階を目指して階段を昇る。拓海を抱っこして歩いている時よりも遥かに足が重たくて、何分もかけて這って登り切った。辿り着いて、顔を上げる。正面には、私より広い部屋の窓際に、真っ赤なランドセルが佇んでいる。私はそれを認識した刹那、金切り声を上げながらそれを掴んでいた。さっきと同じ、アクリル絵の具のバッグからマリンブルーを取り出して、新品の赤いランドセルに絞り出す。異質な真紅の革上に現れた海色の青いドームを、べたべたと素手で伸ばしていく。
「おねえちゃん」
部屋の外、拓海がすぐ後ろに立っていた。何一つ曇りのない、かわいい弟の瞳が、可笑しい私の姿を映してしまっている。弟はお母さんに似ている。膨らんだ頬は、お父さんと一緒に暮らしていたときのように光っている。もう、どこにもその本物は無い。
「違うの、拓海……これは!」
青い掌でぐしゃぐしゃに涙を拭う私を見た拓海は、にこっと笑うと、小さい体で私を抱きしめた。
「ママがね、こうしてくれるとかなしくないんだよ」
ああ、知っている。私は、この子より先にそれを知っていて、この子のおかげでそれを失った。拓海を青く汚さないように身体をよじって離れると、目いっぱいに抱く力を強めて拓海は呟いた。
幼いその腕は悟っていた。
「たくみもね、わかってるんだよ。ぼくがあかいと、ちがう」
それから二人で手を汚して、私たちは赤が見えなくなるまで絵の具をランドセルの革に塗りたくった。外では台風が近づいて、庭の木々が轟々と唸っている。雪花は今頃きっと、あの彼氏と一緒にどこかで雨をしのぎながら身体を寄せ合っているのかもしれない。お気に入りのジャンヌのバラードを、同じイヤホンを分け合って聞いているかもしれない。雪花の言う無差別な好きや凄いや綺麗は、私のものとは最初から噛み合ってなどいなかった。私の、もう誰にも似ていない体の形が焦がれた雪花の透明な四肢は、そのビーズのような声は、もう私だけに向いてはくれない。
いつだってそうだった。それぞれの正しいものがあって、それに縋ることが私を形作っていた。でも世の中は、そんな激情の一段上であっさりと廻っている。見えるのは、ただ一つの現実のみしか残らない。
「かざねおねえちゃんは、どうしてなっちゃんなの?」
あどけのない真っ赤な声で拓海が問う。
「
ランドセルの曲線が、窓に反射して青く光る。拓海は、天使のように無邪気に笑った。
「こっちのほうが、いいね」
次の日、お母さんに送り出されて学校に行った。春陽くんは、別の男の子の友達と登校していて、拓海は青いランドセルを背負って歩いた。春陽くんのお父さんはこちらを見て見ぬふりをして、別の男の子に必死に話しかける。私たちは正しく前を向いて、小学校に続く坂を進んだ。
高校に着いてすぐ美術室に向かう。同じ位置で石膏像を描く部長は、今日もカーディガンの腕を捲って鉛筆を握っている。
「おはよう、風音ちゃん」
「おはようございます。果凛さん」
果凛さんが向かい合っているキャンバスの足元に、書類の束が散らばっていた。果凛さんの同級生の名前が一枚ずつに記されている。
「それ、織田さんの退部届もあるから、あげるよ」
果凛さんは、絶えず陰影を付け続ける。私は散らばる書類を踏みつけて、手の中にあった自分の書類を破り捨てた。部長はキャンバスと石膏像をひたむきに見詰めている。私は部長の隣に立った。
「ここは、そうです、グラデーションの段階を―……」
「……うん。ここが上手くいかなくて……」
私たちは描く。そこにある事実を克明に、受け入れ続けて生きる。私と部長、各々にある真実を胸に、具体的な、どうしようもない現実を描き続ける。
あなたさえ、 昼川 伊澄 @Spring___03
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