砂漠の涙
青雨
第一章 1
身体健勝、十全健康を誇る砂の国ヴュステの国王ヒァールムベリ・ハンス・エリミアの急逝をうけて急遽即位することになった息子は若干十九歳、その戴冠式に即して迎えることになった花嫁を選ぶに際し、どの娘がいい、あれはだめこれがいいと長たちが頭を悩ませてみれば、半ば無理矢理空の国アルトゥムから縁談を持ち込まれたのだから、これは驚きという他なかっただろう。
それだけではなかった。
若き王には、将来を誓い合った恋人がいたというのである。
若い恋人たちは縁談の前に引き裂かれ、無残にも別れさせられたという。
そんなこともつゆ知らず、十七歳のアルトゥム第二王女カウルティーアは空の国から半年の旅を終えて今日、五番目の月、
「姫様、見えてきましたわ、あれが王城です」
彼方にけぶって見える小さな点のような影を、カウルティーアは輿のなかから透かして見た。お付きの侍女ヴェルジネが、側から指さしている。
「ああ、まったくもって未だに納得できませんわ。アルトゥムの第二王女といったら引く手数多というのに、どうしてこのような未開の地の猿のような王の妃などにならなくてはならないというのでしょう」
「ヴェルジネ」
側にいた、これはシュタムというもう一人の侍女が諫めるように呟く。
「なんでも、恋人までいたというではありませんか」
「ヴェルジネ」
シュタムが咎めるように強く言うと、ヴェルジネははっとして口を噤んだ。声が高くて、姫に聞こえてしまったのかと思ったのだろう。肝心のカウルティーアはというと、物思いに耽っていて生憎誰の声も聞こえてはいないようだ。
カウルティーアは絹の脇息にもたれかかって深くため息をついた。
顔も見たことのない男の妻になるのだという憂い事に、不安がないわけではなかった。
宮廷で生まれ、宮廷で育ち、宮廷で死んでいくことの虚しさを、カウルティーアは知っている。
鳥籠のなかの生活から、違う鳥籠の生活になるだけだ。そう思っていた。
砂の国。
ひとはヴュステをそう呼んだ。
どんなところだろう。ヴェルジネは不毛の土地、渇いた、水のない、トカゲを食しサボテンを搾ってその汁を飲む惨めな生活をするのだと今から嘆いているが、一体どのような土地なのだろう。未開の地であることには間違いないのだ。
しかし、カウルティーアのその考えはヴュステ城下に近づくにつれ薄まっていくのが彼女自身でもわかった。
「ま……あ」
「姫様……」
これには、文句ばかりを垂れていたヴェルジネも絶句した。
城壁の、さらにその周りをぐるりと囲む水の流れが、そのまま都市のなかに流れ込んでいる。それは、そのまま生活の一部となっているようだ。
砂漠のど真ん中にあるとは思えないほどの緑豊かな街の造りが、目に痛いほどである。
「これがヴュステの首都……」
カウルティーアは夢中になって呟いた。
自分の故郷アルトゥムは世界一美しい国と賞されるほど美しい場所であるが、それに勝るとも劣らない美しさだ。
「姫様、見えてきましたわ。あれが宮殿です」
カウルティーアは輿の薄絹のベールの向こうから宮殿を透かして見てみた。
全体が青い、見たことのない設えの曲線の多い造りである。
あそこにわたくしの未来の夫がいるのだ。
カウルティーアはぎゅっと手を握った。どんな方だろう。仲良くできるだろうか。
「まったく気に入りませんわ」
ヴェルジネはまだ横でぶつぶつ言っている。くす、と笑って知らないふりをしていると、シュタムがため息をついている。シュタムは石のように冷たい女で、幹、という名の通りに固い意志を持っている。この二人はカウルティーアの側近だが、まったく正反対の二人でもある。
間もなく輿が宮殿に到着して、花嫁の半年の長旅を労う言葉を長老が述べようと進み出た時のことである。
どこからか、馬の駆けてくる音がした。
「? ……」
「はて……」
誰しもが首を傾げた時、いきなり黒いたてがみを持った馬に乗った男が広場に乱入してきた。
「その娘か。俺の花嫁というのは」
「で、殿下」
「これは酔狂な」
男はカウルティーアをちらりと見ると、
「こちらへ来い」
と言うや、
「あっ……」
と侍女たちが言う前にカウルティーアの腰に手を回し、彼女を馬に乗せてしまうと、笑いながら走り去ってしまった。
「ひひひ、姫様が」
「あ、あの男は一体……」
「殿下もご無体をなさる……」
「ゲオルグ殿、行ってお止めなされ」
「私が行ったところでおやめになるお方ではありませんよ」
それより、とゲオルグと呼ばれた男は言った。
「お二人がお帰りになった時の準備をしておいた方がよろしいのでは」
「な、なにを落ち着いているのです」
「早く姫様を」
「じきに帰ってきますよ」
慌てる侍女たちを諫め、ゲオルグと呼ばれた男は一人宮殿のなかに入っていった。
一方のカウルティーアは、乱暴に馬に乗せられ、全速力で走る馬の上で、目が回り、身体が震えどうすればよいかわからない状態といった具合であった。
この男は一体誰だ? 自分はどうなった? このままどこへ行くのだ?
なにが起こっているのかわからない恐怖と、めまいがする怖ろしさで声も出ない。
しかし待てよ。確かこの男は、俺の花嫁と言っていた。
――ではこのお方が、わたくしの?
カウルティーアは目をそっと開けて、自分を抱える男を見上げてみた。
黒い瞳に、黒い髪。まっすぐに前を見つめる、まだ少年の輝きをもったそのまなざし。
「……」
しばらく馬を走らせていたと思ったら、丘の上までやってきて男は馬を止めた。
そして馬から下りると、カウルティーアを下ろして言った。
「乱暴な真似をした。俺はセグヴァリデス。セグヴァリデス・リェス・エリミアだ。長いのでヴァリデスでいい」
まっすぐに見つめられて、カウルティーアは戸惑いがちにこたえた。
「……わたくしは、カウルティーアでございます。ティーアとお呼びください」
「ティーアか。婚礼の儀の前に会いたいと思っていた」
彼は言った。
「籠の鳥のような生活をしていたのだろう」
「――」
「これからは、そのような暮らしはせずともよいぞ」
「……」
「そなたはここでは自由だ。馬にも乗れ。外にも出ろ。遠乗りにも行こう」
「――」
「ここからは、城がよく見える。美しいだろう」
示されて、ティーアは目を馳せた。
青い、絶妙な曲線を描いた城がよく映えている。
「はい。美しゅうございます」
「あの青はな、水に対する砂漠の民の永遠の憧れを描いているのだ」
「水に対する永遠の憧れ……」
「空の国の人間からすると、絵空事のような話であろう」
「……水の豊かな国でございますから……」
「そう伝え聞いている」
城から目を離して、ヴァリデスはティーアを見た。
「文化の違う国では、戸惑いもあろう。苦労もあると思う。しかし俺といる限り、辛い思いはさせぬ。セグヴァリデス、ここに剣をもって誓う」
「殿……」
「それを儀式の日の前に言っておきたかった」
照れたように言うと、ヴァリデスは手綱を持った。
「さあそろそろ行こうか。長たちがかんかんになって待っているぞ。ゲオルグが今か今かと待っているに違いない」
ひらりと馬に乗ると、
「おいで」
とティーアの手を引いた。ティーアはヴァリデスを見上げて、ちょっと迷って、素直に馬に乗った。
なんとなく、この国で自分はやっていける。そんな気がしていた。
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