明確な理由

伏見同然

明確な理由

その日、私は新聞に載る事件を起こした。


月に数回ある神経痛で、首の硬さとこめかみの重さに一晩中抗ったが、結局そのまま朝を迎えた日だ。

洋服に着替えるのがやっとで朝食も作れず、通勤途中で数年ぶりに駅前のファーストフード店に入った。

ハンバーガーとハッシュドポテトとコーラが置かれたトレーを持って、どうせならと良い席を探した。

奥のソファ席がちょうどよく空き、そちらに向かおうとしたとき、コーラがトレーから滑り落ちた。

カップはテーブルの上で勢いよく跳ね、その口を下に向けて、自身の中身を全て床に叩きつけた。


朝早い店内には数人の客しかいなかったが、視線を強く感じた。

そのときの私は<自称自営業の男(40)>そのものだっただろう。


トレーを近くの席に置き、慌てて戻ったレジには5人ほど客が並んでいて、2人だけの店員は忙しそうにしていた。

「すみません。コーラを床に全部こぼしてしまいまして」

私は手を合わせて詫びる姿勢でレジの向こうに言った。レジを担当していた若い女性が、一瞬戸惑った様子の後、

「あ、こちらでやっておくので、そのままにしておいてください」と言って、次の客の注文を聞き始めていた。


私は先程トレーを置いた席に戻り、ハンバーガーには手を付けず、濡れた床を見つめていた。

しばらくすると先程の女性店員がやってきて、私にコーラを差し出して言った。

「気にしないでください。あるあるですから」

にこやかな表情のまま彼女はモップを持ってきて、手慣れた様子で床を拭き、あっという間に元通りにした。

「すみません。ありがとうございます」私は軽く立ち上がり、お礼を言った。

彼女に「いえ、ごゆっくりどうぞ」と言われたが、周囲の視線の居心地が悪く、急いで口に詰め込んだが、コーラだけは少しゆっくり飲んだ。


「すみませんでした。お手数おかけしました」

私が去り際にレジに向かって声を掛けると、彼女はにこやかに言った。

「大丈夫ですよ。ありがとうございました。またお越しください」



これは、取り調べでも話さなかった、事件の日の朝の出来事だ。

警察もマスコミも、私の過去から事件を理解しようとした。

そのどれもが、それらしく私自身もそうなのかもと思うものばかりだった。

しかし、そこにこの朝の出来事は登場しない。


私にも、なぜあんなことをしてしまったのかの理由は見つからない。

ただひとつあるとすれば、あの朝あの瞬間だけ心が動いた気がするだけだ。

あの朝がなければ、私は<自称自営業の男(40)>にはならなかったのかもしれない。


私はまた、あの店へ行く日を夢見ている。

もう一度コーラをこぼしたい。

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明確な理由 伏見同然 @fushimidozen

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