闇に散りし花(またまたお題に沿って書いてみた件)

 これは日の本でおよそ三十年続いた戦乱の世がようやく平定され、人々の頭からいくさという言葉が忘れ去られようとしていた頃のことである。


 都の外れに百老亭という料亭があった。

 元々はさる武将の屋敷であったというその場所は、料理はもちろん、建物と、とりわけその庭のしつらえの素晴らしさでも世に広く知られていた。

 今夜も最近都で力を付けてきた商人たちの宴が催されていたようで、蒔絵の膳やら椀やら染付の徳利やらが座敷を飛び出して縁側まで散乱し、その享楽ぶりを物語っている。


 先程までの喧騒と嬌声が去り、ようやく静けさが戻った夜更け、その庭の裏木戸が音もなく開くと、一塊の影がよろよろと倒れ込んできた。


「……かなゑ殿、しっかり」


 紺の着物に黒の袴を身につけた青年が、庭で一際目立つ青モミジの大木の根元に少女を寝かせてから、声を顰めて呼びかける。


「う……ん、り、理龍りりゅう……さま……? 」


 かなゑと呼ばれた少女がうっすらと目を開けたのを確認して、理龍はほっと安堵の息を吐いた。


 だが次の瞬間、理龍は弾かれたように飛び起きたかなゑの両肩を掴んで動きを制し、低く厳しい声で囁いた。


「しっ! ……まだ追っ手が近くにいるやもしれぬ。気取られてはならん」

「……でも、でも、わたくしは道場に戻らねば! 皆の無事を確かめねばなりません! お止め下さいますな、理龍さま! 」


 不意にパン!と乾いた音がした。理龍が取り乱すかなゑの頬を平手打ちにしたのだ。


「あなたが今道場に戻ったとて、何ができる。みすみす命を危険に晒して皆が喜ぶとお思いか? 思い上がるのも大概になされよ」


 有無を言わさぬ厳しい表情を目にして自分の無力さを痛感したかなゑは、ふっと顔を背けると力なく俯いて声を絞り出した。


「なぜ……なぜこんなことに……わたくし達が何をしたと言うのでしょう……わたくしはただ理龍さまと剣の道を極めたかっただけなのに……なぜそっとしておいてくれないの……」


 臙脂色の紬の着物の肩が細かく震え、後ろで一つにまとめた艶やかな黒髪の後れ毛が顔にかかる。思わず理龍はその肩にそっと手を置いた。


「かなゑ殿……私とて同じ気持ちだ……あなたとの祝言をあれほど待ち望んでいたのに……兄者があのようなことになってしまったせいで……」


 理龍とかなゑは許嫁いいなずけ同士であった。

 もともと理龍の実家の黒鷹流とかなゑの実家の石ヅ江流は同じ祖を持つ剣術の名家であった。だが今を遡ること凡そ百年前、世の中が乱れ始めた頃に両家の間にはぎくしゃくした空気が流れ始め、東方と西方、それぞれ仕える主を違えたことにより溝は決定的になった。そしていくさに明け暮れた時代が終わりを迎えて、両家の頭首により悪しき流れを断ち切るためにこの縁組が決められたのだった。


 だが親が決めた縁組とは言え、二人は子供の頃からお互いを深く想い、手に手を携えて剣術の道を極めることを夢見ていた。


 そのまま何事もなければ、今頃は既に祝言を済ませ、二人は晴れて夫婦めおととなっていただろう。


 二人の運命が急転直下したのは半年前のことだ。理龍の双子の兄で次期黒鷹流頭首となるはずだった氷龍ひょうりゅうが、あらぬ罪を着せられ、獄に繋がれてしまったのだ。しかもその事件の真犯人は石ヅ江流の手の者らしいというまことしやかな噂が流れ、すぐ先に見えていた両家の雪解けは一気に遠ざかってしまった。

 また理龍は氷龍に代わって黒鷹流の次期頭首に指名されたこともあり、理龍の父の命によりかなゑとの縁談は一方的に破談となった。だが二人の想いの火は困難が重なれば重なるほど燃え上がり、お互いの親の目を盗んでは逢瀬を重ねていたのだった。


 それにしても、出来過ぎではないかと理龍は考えを巡らせる。二刻ほど前、黒鷹流の道場がいきなり襲撃された。道場に残っていた手練れの者は刺客と死闘を繰り広げたが、多勢に無勢でなす術がなかった。理龍の耳に、刺客が逃げる間際に仲間内で交わしていた言葉が切れ切れに聞こえた。石ヅ江流……と。直感でかなゑの危険を察した理龍が石ヅ江流の道場に駆け付けると、果たして先ほどと同じ装束の刺客達が剣士達を叩きのめしているところだった。理龍はすんでのところでかなゑを救い出し、店主と昵懇の間柄である百老亭まで逃げて来たのだった。


 あまりにも手際が良すぎる……誰かが裏で糸を引いている……たぶん……


 逃げて来たとはいえ、理龍にもかなゑにも、行くあてなどない。二人の未来には明るい兆しはないことも、もっと言えば終わりの時が近づいていることも理解していた。だが一縷でも生き延びる術があるのなら、闘うしかない。それが剣術家としてのつとめであり、誇りだ。


「かなゑ殿」

 悲しみに打ちひしがれてしまいそうな心を奮い立たせ、理龍はつとめて明るい声でかなゑの名を呼んだ。かなゑが訝しげに振り返る。

「なんでしょうか、理龍さま」


「覚えておいでか? 我らが初めて逢うた時のことを」

 こんな時に何を? とかなゑは一瞬首を傾げたが、甘く切ない記憶の扉がゆっくりと開いていくのを止めることはできなかった。


「忘れるはずなどございませぬ。許嫁だと紹介されたわたくしに、理龍さま、ずいぶんと酷いことをなさいましたね? 」

 かなゑに拗ねたような表情で睨まれて、理龍はきまり悪そうに頭を掻いた。

「あれは仕方なかったのだ。あの時……私は十で、かなゑ殿はまだ五つであったな。突然父から許嫁だなどとあなたを紹介されても、それがどういう意味なのか私にはさっぱり理解できなかった。あの頃の私はとにかく手当たり次第に剣の勝負を挑んでは自分の力に酔いしれている困った子供だった。だからあんなことを……」

 かなゑがくすくすと笑いながら続ける。

「見合い相手に、しかもおなごに真剣勝負を申し込んで池に落とすなど、前代未聞でございますよ。まあ、理龍さまの果し合いの申し出に乗ったわたくしにも責任はございますけれどね」

「もういいかげん許してはくれぬか。あの後、父に一晩庭の柿の木に吊るされて、大変な目に遭った」


 困った表情で頭を下げる理龍を、かなゑは愛おしそうに見つめた。


「とうの昔に許しております。わたくしはあの日初めて、自分より強い方にお会いしたのです。道場にいる他の男の子とはまるで違う、研ぎ澄まされた、そう……まさに龍の爪のごとき刀筋。なんと美しい立ち姿だろうと子供心に思いました。あの日からずっと、理龍さまはわたくしの師であり友であり、そして……誰よりも大切なお方でございます」

「私もだ。かなゑ殿に初めて逢うた時、雷に打たれたような気がした。あの時なぜ自分より五つも年下の幼いおなごに真剣勝負を挑むなどという馬鹿なことをしたのか、自分でもわからぬのだ。だが……我ら二人には剣を交える時が何より絆が深まる時で、お互いの心が溶け合う時間であった。……幸せであった、ずっと」


「理龍さま……」


 夜風が吹いて、青モミジの葉がそよそよと音を立てる。その中に微かな嗚咽が混ざった。かなゑが声を殺して泣いているのだ。思わず理龍はかなゑの細い肩を抱きしめた。


「なぜ人は無垢な子供のままではいられぬのだろうな……」

「理龍さま……わたくしを、愛しいと思うて下さったことはございましたか? 親が決めた許嫁であっても、一瞬でも夫婦めおとになりたいと思うて下さいましたか……? 」

「何を言う! 親が決めた許嫁と思うたことなど一度もない! 我が妻となるおなごは唯一人、かなゑ殿だけだ……当たり前ではないか……」

 理龍は言葉を切り、かなゑを抱きしめる腕に力を込めると、震える声で続けた。


「たとえ現世で結ばれることが叶わずとも、何度生まれ変わっても、私は必ずかなゑ殿を見つける……」

「嬉しい……理龍さま……」


 ……その言葉を今の二人はごく自然に受け止めていた。二人の剣術家としての本能が、何が起きているかを察知していたのだ。


「かなゑ殿、敵がもうすぐそこにいる。あなたを死なせたくない。生き延びることが最優先ならば、まだ間に合う。私が時間を稼いでいる間にここから立ち去ってくれ。だがもし……」

 言いかけた理龍の唇をそっと細い指が塞ぐと、何の躊躇いもない澄み切った瞳でかなゑは答えた。

「生きるも死ぬも、かなゑは理龍様と共にありまする」


 そしてかなゑは背中に括り付けていた剣を手に取ると、ゆっくりと鞘を払った。


「理龍さまが下さったこの朝霧、二つ名を百鬼桜花、ようやく使う時が参りました。この刀に我が魂の全てを乗せて、あなたと共に闘い抜きます。たとえ命尽きるとも、一片の悔いもございませぬ」

「……そうか……私もかなゑ殿と共に闘って散るのであれば、これ以上の幸せはない」


 理龍の唇がそっとかなゑの唇に触れたかと思うと、振り向きざまに理龍は叫んだ。


「出て来い! そこにいるのは分かっている! 」


 その鋭い叫びを待っていたかのように、幾つかの黒い影がゆっくりと二人の周りを取り囲んだ。


「黒鷹流師範代、理龍殿と、石ヅ江流家元が長女、かなゑ殿とお見受けした」

「何の用だ? 」

「……お命、頂戴いたす」


「……黒地にくれないの鎌の染紋……やはり、の手の者か」

「それを知ってどうする? いずれにせよお主らはここで死ぬのだ」


「……ふっ……は、ははは、あーっはっはっは!」

 理龍の顔に不適な笑みが浮かび、目の奥に狂気がみなぎった。その大胆不敵な高笑いに忍び達が一瞬怯む。


「な、何がおかしい!? 」


 ゆらり、と立ち昇る陽炎のような殺気を纏った理龍がゆっくりと刀に手をかけ、舌舐めずりしながら片膝をおこした。かなゑも既に背筋を伸ばし、石ヅ江流の奥義を継ぐものとしての構えを取っている。


 生きるぞ、と理龍はかなゑに口の動きだけで素早く伝えた。


「生憎、貴様らのような鼠にむざむざ殺されるほど安い命ではないのでな。せいぜい地獄で後悔しろ。……さあ、死にたい奴からかかって来るが良い! 」


 築山に石燈籠、苔むすつくばい……幾多の生と死を見届けてきた庭の静寂が、その獣のような咆哮によって破られた。



→つづく




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