ショートショート集「モドキ」――擬――

妄想機械零零號

小説には嘘が書かれている

おお、ガラクタじみた素材をコラージュすること、それ以上に神秘的で美しい方法がありえたであろうか!

人類は神の模造品として創られた。

人間界にはガラクタとニセモノしかない!

創造性への諦めを自明とした上での底抜けの明るさ。道化。それが人類に可能な最も美しい表情ではなかったか!


ヤギは嫌々ながら俺の原稿を食った。彼は俺の原稿に意義を感じ、保護したがっている。俺はヤギを憎む。天性の呑気さは無頼のダンディズムに通ずる。つまり彼はキザなのだ。俺が普段パクっている言わばルーツの作品をヤギに食わせた。奴は平気で食った。太陽の下に新しきことなしとヤギは呟いた。


詩集は疑わしい。その内容は「行分けされた散文」かもしれない。詩集と呼ばれる書物の持つ、贅沢に過ぎる余白! 反対に小説の純然たる散文に詩が紛れ込んでいることがある。『晩年』は美しい(しかし不徹底な)詩で溢れていた。俺が詩と出っくわす。堕落の最中で偶然カチ合う。火花が一瞬だけ散る。


少女人形の名はALICE 1000である。

ここには一山分のアリスがある。最高齢は十六歳。

彼女に用意された演目は赤ずきんだった。

赤ずきんの醜い狼。忠実なアリスは観衆を喰らった。

役目を終えた人形は工房で宙吊りになる。バラけた部品が空中に浮く。彼女は静かに次の仕事を待っていた。


その頃の私は「神の不在証明(アリバイ)」という詩を愛誦していた。それは「緩慢な自殺の百科全書」だ。自殺未遂の後遺症を患う主人公は健康で美しい人形に(「」)介護される。美に嫉妬した主人公は何度も人形を毀す。なぜだかその度に「自殺」の手応えと「生きたまま死ぬ」恍惚を覚えるのだ。


ぼく、俺、わたし、私(漢字で)、といった一人称が己を鏡のように映す。やけに一人称に凝る人も多い。

ここに赤子がいる。強い子で四面鏡張りの部屋に入れても狼狽えない。しかし日本語における一人称の多様性を知った時、逃げ場の無い自意識の地獄に絡め取られて発狂してしまった。


君(すまないが君は男の子なのだ)が「ミューズは女神だから詩の天才は男だ」と言ったと思ってくれ。それで君の可愛いお友達(すまないけれど女の子だ)が「あら、では音楽の天才は女なの? アポロンは男神だもの」と言ったとする。すると二人は熱烈な恋に落ちる。小説にはそう書いているのだよ。


俺は詩人の犬である。飼い主が亡くなった時、俺は彼が発した三つの言葉を思い出した。「私の墓に名前は要らぬ」「『書き損じを破る人』という題で銅像を建てろ」「きっと年少の読者からの手紙が来る」というのである。俺は老年のロマンティシズムを愛する。俺は「墓前の犬」という主題を全うしよう。


君は「もしかしてまだ頭の病気治ってねえんか?」と言いながら仰向けに寝そべった。君はミレイのオフェリアを連想する(仰向けだから)。そのうち蓮實重彦が漱石の「仰臥する身体」を論じたことを思い出すだろう。外では今頃雨が景色を鉛色に塗りつぶすしているであろう。ところで君の背後に「無」がある。それは決して古びた畳ではない。畳は固いが「無」はやわらかい。君は「無」に身を埋めてどこまでも沈んでいく。そうするとまあ、「無」はソファーみたいなもんだ。


橋の上で少女は笛を吹いていた。排気ガスの霧で視界が悪い。川は廃液だ。飢えと引き換えに暇だった俺に彼女は笛をひとしきり聴かせた後「これは骨笛だ」と言った。誰の骨だろう。再び吹かれ始めた笛の音はピアノに似ていた。羨ましくなった。俺は少女の手を初めて意識的に見た。左指の数本が無い。


サラマンドラ売りが流行る。「冬が来たら暖が取れる」というのが謳い文句である。サラマンドラの生態をよく知らぬ人々が買い求めるのである。鱗が美しくツノがある個体が売れる。もちろんメッキで光らせたのもある。さて冬が来るとどうなるか。サラマンドラは竈の中で冬眠する。暖なんぞ取れやしない。


おいアリス! テメェもここへ堕ちたな! 働かなきゃならねえ。ここは真っ赤な罌粟畑――あそこにみえる溶けた太陽――、ここでテメェはお花摘みだ。働くのは好きだろう。残虐な英国の恥部たる悪政女王様のご機嫌取り。クソ紳士うさぎの真似事。さあ遊びの皮を一枚剥いで生の仕事を見せつけてやれ。


両の眼に眼帯をしながら「俺は盲目だ」と触れ回る友がいる。その真意につき、我々の仮説は三つにわかれた。一、真理に到達し得ぬ自らの無知を示す。二、人生に絶望し光が見えぬ様を示す。三、彼は本当に目が見えない。

しかし真実は我々から最も縁遠い“盲点”に存在する。いわく、「恋は盲目」


彼は女性心理を知らぬ。自作のヒロインに対し「女はこうは考えぬ」と指摘された。彼は男性心理も知らぬ。同性を描いても「男はこうは考えぬ」と言われる。俺は男も女も知らぬと言うには勇気が要る。周知の事を知らぬと言う勇気。反対に、誰も知らぬ事を自分は知ると宣言する勇気。彼は悪い凡夫だった。


俺は読まない本を買う。必要に備えて買うのではない。は自由に使える金を浪費する一種の自傷行為だ(綿野恵太さんもそういう時期があったらしい)。もうは希望。その本が自らを救ってくれるかもしれぬという希望。自己啓発本が生き方のヒントを教えてくれたり、小説や詩が気分を長期的に楽にしてれたりするかもしれない。希望。しかし俺には好きな本を読む暇が無いのだ。だから希望は有り得ない。


彼は炎を見た。半透明な炎が景色に被さっている。彼には二つの世界に居た。一方は永久に燃え続ける草原でもう一方は人々と共有される「現実」だ。彼が炎を指でなぞると脳の奥が不思議と痛んだ。炎は透明度を減じてゆく。炎が現実を塗り潰し何も見えなくなる直前、彼は自作の詩句を指でなぞった。


君は脳内のイメージを小説で、自由詩で、短歌で、エッセイで、評論で、時には学術論文で表現できる。各ジャンルにはそれぞれ固有の様式と流行と「善し悪し」の基準がある。しかし実の所君はこの中から一つも選べやしない。どれも君のジャンルではない。それでも君はテクストを書く。主題あるかぎり。


全部嘘だ。ここには嘘しか書かれていない。不思議だ。「これは小説だから嘘だ」あるいは「これは小説だから人生における真理を反映している」という〈虚/実〉の関係は実に不思議だ。小説を将棋盤に例える。虚実は定まった動きをする駒。このゲームのルールを組み替えてくれ。小説を幻惑してくれ。


俺はメルロ=ポンティの身体論ついて考えている。君は明日の計画を綴っている。君は明日高校を卒業する。その夜、身投げをするのだ。午後何時になんとかという高所でやる。君のペンは走る。止まれば何かが死ぬ。否。無かったことにされる。体は心の媒体だ。ペンも心の媒体。インクを流し込む。


幼少期から嘘ばかりついてきた。殊に好んだのが「他人の罪を自分が犯したと言う」嘘である。重大な告白をする時の快感。深刻な空気が俺を絶頂に導く。真犯人が俺を恩人扱いにして食事等の世話を焼いてくれる。被害者が俺を本気でぶん殴る。どうやら俺は嘘の技巧派らしい。同時に告白の技巧派でもある。


いわく、ロマンチストたれ! 就職決まらず、月並みな言い方だが生活が宙吊りになっていた鎌倉在住期の私に何者かがそう囁いた。それは浪漫と漢字で書くことから始まる。私は「星よ!」「菫よ!」と呼びかけた。そして余命僅かな病身の乙女に自作詩を毎日朗読した。私は芸術家ではなく芸術だ。たった一人に消費されるための。

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