朱炎のダイナミクス

葭生

七月二一日

幽霊は実在するのか、というつまらない議題がある。将来医師になることを志望して日々勉学に勤しんでいる、まさに科学の信奉者とも言える俺にすれば、やはり幽霊は実在していないと言いたい訳だ。しかし、世間には「いたら面白いのにね」のような風潮があるのもまた事実。つまり、多くの人は、ある程度現代の科学というものを信用しながら、一方で科学で説かれているような、物理法則だの何だののままに世界が回っているのを、あまり面白くないと感じているということだ。


個人的には、世界に一定の法則がなければ治す病気も治せないので、幽霊などがいては困るのだが、そんなことを他人が気遣ってくれるわけでもなく、俺自身も特に求めてはいない。こうは言うが、俺だって幽霊がいたらと考えたことはあったからだ。


もし仮に幽霊がいて、しかもその幽霊は巷の都市伝説のように元々生きた人間だったとしたら、一つだけ願い事がある。祖母に会いたい。会って、祖母の話が聞きたい。一〇年前に話してくれた、あの物語の続きを。


と、ここまで考えてふと我に返った。このように全く勉強に関係ない思考を、頭の中でこねくり回しているのは、集中できていない証拠だ。俺は、もう帰ろうと学校の自習室の椅子から立ち上がり、机上の参考書とノートを片付け、音を立てて迷惑をかけないように、静かに教室を出た。とは言っても、自習室には俺とあと一人か二人程しかいない。夏休み中で、既に夜の七時半を回っているのだから当然だ。


教室を出たあとは、ペンキを塗ったように真っ黒の景色を生真面目に透過する窓を、ぼんやり眺めながら、クーラーの効いた室内とは打って変わった蒸し暑い廊下を、とぼとぼと下足室まで歩いていく。靴を履き替えて下足室も出てしまうと、とうとう人の活動している場所から離れてしまった、そんな虚しさがちらっと心に残った。車が走る音がいつもより低く感じて気疎い。


さて、今日は何を食べようか等々、気分転換にのんきなことを考えながら校門を通り抜けると、不意に女性の声に呼び止められた。


「ねえ君、今何時?」


随分馴れ馴れしい口調でそう質問してきた。俺は、特段相手の話し方を気にする質ではないから、何も思わず七時三六分だと答えると、


「…君細かい性格してるね」


と笑いながら、言ってきた。俺と同じ高校生のようだが、初対面の人に対して、あまりに失礼な奴だと思う。夜の暗がりでごまかされていたが、よく見ると白衣を着ている。その白衣に気がつくと、この女の正体に一つ心当たりができた。想像より落ち着いた声だったが、間違いないだろう。この学校一有名な学校にいる年中白衣を着た謎の生徒。この学校が私服なのをいいことに、好き勝手にするものだ。校則には、勉強に支障のない程度の服装と記載されているが、白衣が支障をきたすとは言い難いから、例外として、禁止事項に別個加える必要があるだろう。名前は、確か逢阪斎槻おうさか ゆつきだったはず。この学年では超有名人で、知らない者はいない。しかし逢阪の人間関係はベールに包まれている。まあ、ほとんどの生徒が、この変人に対して「触らぬ神に祟りなし」を適用しているだけだと思う。


「何が目的でこんな時間から学校に入るんだ?」


あくまで、ちょっとした興味と、さっきの腹いせに訊いてみた。俺が一介の理系学生だから、疑問は解消せずにはいられなかっただけのことだが、逢阪にとってはその質問が不思議だったらしい。


「気になるの?」


と驚いたように目を丸くして言った。


「別に、それほどじゃない」


すでに俺は後悔していた。学年の酔狂人と、こんな問答をするのは面倒この上ない。


「私は、炭取りが廻る瞬間を見に来た。それだけ」

「……何にせよあと三〇分もないぞ」


学校が閉まるのは八時丁度だ。もう無駄な会話を切り上げて、立ち去ろうとした。


「問題ない。見られなかったら、また来るだけ」


肩をぐっと掴まれた。


「…客人用玄関の場所を教えてくれない?」


即刻断ろうとしたが、さっき逢阪が言った「炭取りが廻る瞬間」という言葉が引っかかった。奇人の妄言だと思っているが、しかし無視するにはあまりにも意味不明である。


「…………炭取りが廻るって何のことだ?」

「玄関の場所を教えてくれれば、言ってあげる」


後悔を更に重ねてしまった。俺の、不可解があれば追求してしまう(この表現は、あまりに美化しすぎていると自分でも思うが)難儀な性格を呪ったが、しかし今更引くこともできなかった。俺は仕方なく振り返って校舎の方を指差す。


「……本館の裏手、グラウンド側にある。ただ、今の時間に校舎内に入るなら生徒用の一番手前の扉を使え。それ以外はほとんど閉まっている」


この学校は四棟で構成されており、それぞれ校門から見て左手から、一年生教室のある新館、二年と三年生教室がある本館、本館と直結した体育館、実験室と屋上にプールがある理科棟だ。


「一緒に付いて来て」

「そんな面倒なことはしたくない」


俺がそう答えると、逢阪は急に黙って、白衣のポケットから一枚の紙を取り出し、ぴらぴらとはためかせた。それは紛れもなく千円札だった。


「付いて来るなら、あげる」

「………」


普通、こんな餌付けに近いことを赤の他人にされて、飛びつく人は少ない。高校生にだってなけなしの自尊心があるわけで、その上金の取引というのは信頼性が命であるからだ。しかし、俺の家庭は端的に言えば貧乏である。父は俺が三歳の頃に癌で亡くなって、今は母一人の収入で暮らしている。幸い、母の懸命な働きで俺がアルバイトをする必要はないが、それでも自由に使える金は多くない。そして、俺は今、新しい参考書が欲しかった。それを知ってか知らずか、逢阪は暗がりでも光を反射する艷やかな黒髪を払って、確信じみた余裕の表情をしている。俺は、やむを得ずこう言った。


「口約束でも契約になるのを知っているよな」

「もちろん」

「………わかった。ただし、付いて行くだけだ」

「当事者双方の意思表示が合致したね」


逢阪は微笑んで俺に千円札を渡した。それを俺はポケットの財布に入れると、「こっちだ」と逢坂を呼んで玄関へ歩き出した。


「第一、ここの学生なのになんで玄関の場所も知らないんだ」

「全然来ないから。大学には行きたいから、卒業できる最低限は出席しようとしているし、テストも受けているけど」

「どおりであまり見ないわけか」

「君、知ってるよ。いつも学年一位の加里屋(かりや)くんでしょ。有名人だもん」

「その一位も、お前に二度、数学と物理で取られたけどな」

「それは笑い話だね、気にしてるんだ」


大げさに笑いながら言う。何も面白くない。ただ、俺のことを知っているのは意外だった。こういう人間は他人に興味を示さず、名前も碌に覚えないものだと思っていたから。それに口調も、生気のない大学教授のように堅苦しかったり、仰々しかったりを想像していた。


「今日雨は降る?」

「いや、降らないはず。というかスマホで調べればいいんじゃないか?」

「私が、なんで時刻を訊いたと思う?」

「……じゃあポケットに千円札一枚だけ突っ込んでここまで来たのか」

「私は、あまり携帯電話を持ち歩かないの。あれは情報が多すぎる上に、野暮。せっかく街中に出ても、あれが現実だったりを持ち出してくるじゃつまらない」

「携帯電話は携帯してこそのものだろうが…」


前言撤回。予想通りの変わり者だった。




学校内なのであっけなく目的地の前に着いた。俺は、遂に本命の質問を切り出す。


「で、炭取りが廻るとは何のことだ?」


しかし、逢阪はその質問を聞き終える前に、玄関においてある茶色いホールクロックに駆け寄った。


「それが目的なのか」


逢阪は静かに頷く。そして、暫し沈黙したあと、時計を見たまま口を開いた。


「加里屋、柳田國男は知ってる?」

「流石にな」

「柳田國男が書いた『遠野物語』の一節に、こんな話がある。ある人が曾祖母の葬儀を行った夜、寝ていると何者かの足音が聞こえてきた。その足音の正体は、亡くなった曾祖母の霊のものだった。家中慌てふためく中、その霊は歩き続ける。すると、霊が纏っている着物の裾が、置かれた丸い炭取りに当たって、炭取りがくるくると、回ったの。つまり、幽霊はただの幻覚ではなく、物理法則という名の現実に則っているように見えたというわけ。曾祖母は確かに死んだのに。これは明らかな矛盾なの」


ここまで言って、逢阪は一呼吸置いた。


「三島由紀夫もわかる?」

「……あまり人を馬鹿にしないほうがいい」

「だって加里屋は典型的な理系学生だから興味ないかなって」


確かに、国語科に心惹かれることはあまりなく、まして文学史なぞ最低限しか知らないが、別に一般教養を具(そな)えてない訳では無い。逢阪について、失礼なやつという印象だけが俺の中で一貫している。


「三島由紀夫は、この話の描写について「ここに小説があった」と絶賛した。彼が称賛した理由以上に、私は幻覚と思しき存在が現実を脅かし、物理法則を根底から覆す。炭取りが廻る瞬間こそ、科学というものが幻想なのか、その証明になると考える」


正直に言えば、逢阪の話をよくは理解できなかった。けれど、その静かで淡々とした説明の内に、俺の持ち合わせていない、鍛えられた鉄のような情熱や信念といったものを感じて、俺は思わず敬意を払うように、徐々に姿勢を正していった。


「この時計と、その幽霊の話が関係するのか?」

「この学校には例に漏れず怪談がある。その一つがこの時計にまつわる話で、時計が七時五二分を指すと鐘が二回鳴る。それが何を意味するかまではわからないけれど、他の時間では一切鐘は鳴らない。そして、その音を聞き終えた人間は、正気を失うらしい」


俺は少し落胆した。結局、どうやら学校の怪談ごときに付き合わされていたらしい。もう俺に用はないだろうし、帰ることにした。


「もう俺は帰る。お疲れ様」

「だめ。付いて来ると言った」

「俺はここまで案内するだけだ」

「約束、破るんだ」


そういう言い方に俺は弱い。ただ、契約内容の認識が食い違っているのなら、契約は無効のはずだ。しかしこう言おうああ言おうと考えても、言い訳のようにしか響かない。その上、俺は弁論にある程度自信があるのだが、なぜか逢阪に言いくるめられる未来しか見えなかったから、不承不承ながら承諾した。今日はやはり調子が悪い。だからこんな目に遭う。それでも、どうせ調子が悪いのなら、早く帰ったって勉強はできないだろう。


「………わかった最後まで付き合うよ」

「それでいい」


こっちを見ないままそう言ってきた。こいつは人の癪に障ることをするのが得意なようだ。時計の針は七時四六分を指している。


時計を改めて見つめてみるが、やはりどう見ても普通のホールクロックだ。種も仕掛けもあるように感じられない。これをまじまじと見ることなど今までなかったから、シンプルながら意匠の凝らされた文字盤と造形が、純粋に心の琴線に触れた。そもそも俺は、これが鐘を打つことすら知らなかったのだ。


「どこでその話を聞いたんだ?少なくとも俺は、この学校の怪談を一つも聞いたことがない」

「祖父がこの学校の元教師だから。もう三〇年も前の話だけど」

「三〇年前ね…」


十七年しか生きていない俺にとって、あまりに昔のことである。


「昔はどうか知らんが、今はもうないんじゃないか。先ずもって、その時間なら誰か聞いているはずだ」

「鐘の音はあまり大きくない。この時刻にここを通る人なんて殆どいないから、誰も聞いていなくてもおかしくはない」


それは苦しい言い分のように思えるが、何をするのも逢阪の自由だとも思って、それ以上は黙っていた。


俺が口を閉じると、この場は静まり返った。そして、振り子の音だけが響き続ける。そのリズムは、まるで拍動と呼応するように少しずつ速くなっている心地がした。俺も大多数の人間と変わらないということかもしれない。


逢阪のほうを見遣ると、逢阪は時計を右手で、白衣の袖を左手でしっかり掴みながらただ時計を眺めている。その姿は、どこか立ち竦んでいるようにも思えた。


「逢阪はこの怪談を信じているのか?」

「信じてない」

「じゃあなんで調べているんだ?」

「信じていないことと、調べる必要がないことはべつだから。加里屋は信じていないでしょ?」

「まあな。少なくとも正気を失う辺りは、噂に尾ひれがついたものだろ」

「私もそう思う。でも調査しないことには、それは盲信と一緒だとも思うの」


逢阪は引き締まった表情でそう言った。


時計はようやく七時五一分を示した。どんどんその刻(とき)が迫ってくる。緊張する俺を嘲笑うように時計の針はゆっくり進んでゆく。


残り十秒、五秒、三秒、二秒、一秒。……五二分になった。


何も起きない。


鐘は、鳴らなかった。


果てしなく感じる静寂を破るように、ピッという電子音が俺のポケットから鳴った。逢阪がばっとこちらを振り返るが、それは俺のスマホの通知音だ。少し申し訳なくスマホを取り出して見せると、逢阪の目線はまた時計に戻った。


俺はふっと一息吐いて、身体の緊張を解いて言う。


「何もなかったな」

「そうね」

「もう満足か?」

「ええ」


逢阪は呆然としながらも首肯し、ゆっくりとこちらを向いたので、俺達はここを後にした。ただ俺は、逢阪が少しほっとしたような表情をしたのを間違いなく目にした。


そこから、特段会話もないまま俺は逢阪を駅まで送る。長いような短いような不思議な時間だったが、奇妙にも気まずい雰囲気ではない。ただ、この時期になると、昼の蒸し暑さが、夜まで纏わりついてくるから嫌だ。駅に着いて、電車賃はどうするんだと訊けば、さっきの千円札のようにポケットからICカードを取り出して、その手を振った。携帯は持たずともカードは持ち歩くらしい。了解と呆れを込めてこちらからも手を振り返す。結局、逢阪のことは最後までわからず仕舞いで、俺は遠回りの道をとぼとぼと歩いて家の方へ向かった。


駅の方を振り返ると、辺鄙な場所だという感想が浮かんでくる。特別田舎ではないが、ここと都市を繋ぐのはこの一本の路線だけなのだから、都会の絶え間ない営みに取り残されている雰囲気はぬぐえない。


遠回りしても俺の家はほど近い。出遅れた悲しいセミたちの、嘆きのような声だけ鳴り渡る閑散とした住宅街をひたすらに抜けてゆくと、山と居住地の境となる車一台幅の道路に出る。その道路を左に進めば、瓦屋根の古くて窮屈そうな家がある。それが俺の住む場所だ。


俺は今の生活に満足していないが、それは親や境遇に不満があるということとは違う。俺の母は善人だ。亡き父は医者で、発展途上国へ赴いてそこで医療支援を行っていた。父は癌で亡くなったが、本来治る可能性がないものではなかった。父自身が癌と知りながらも、活動を続けていたのだ。幼いとき、それは大層憎んだが、今の俺は非難する気にはなれない。俺が成長したのか、時間の経過で記憶が薄れ、熱が冷めただけなのかは不明瞭だ。ただ、誰かが困っている、苦しんでいると知って、じっとしていられない人間がいるかもしれない。そう結論づけることで、父の死を過去のものにした。第一、それを否定できるほど、俺は人に触れたことがないのは確実だった。


俺に父をとやかく言う権利がないことを前提に話せば、母のことはもっと気遣ってほしかったとも思う。俺も父と同じように医者を目指している。けれどそれは誰かを助けるためだとか、社会に貢献するためだとかではない。そもそも社会とは貢献する対象とは違い、社会は人々がいることで生まれる流れのようなものだ。俺がいなくても流れは止まらない。仮に俺がその流れを変えるナポレオンほどの傑物であっても、その変化が本当に正しいのか見定めるのは困難で、そうしてできた新しい流れは、向こう百年変わらないかもしれないし、俺が死ねば一瞬にして元に戻るかもしれない。そんなもののために身を削って働きたいなんて、稀代の馬鹿か慈悲の女神くらいだろう。俺の目的はもっと単純で、母に幸せになってもらいたいのだ。俺を一七年支え続けてくれている母には、何か本人が思う以上の救いがなくては、と感じる。都合よく俺は勉強が人並み以上にできて、科学という領域に興味があった。だから稼ぎがよくて安定している医者になりたいのだ。俺は自分のことを前に科学の信奉者と言ったが、純粋な信仰心を持ち合わせていない。むしろ、がん細胞が発生して増殖する生物のメカニズムを憎んだこともあった(今でもその節がないとはいえない)。つまり俺という人間はかなり世俗的で曖昧で、逢阪とは全く異なる。逢阪を理解することなど不可能なのだ。


鍵を挿してドアを開けると、当たり前だが誰もいない。手を洗って、シャワーを浴びる。一〇分かそこらであがると、服を着替え、そのまま二階にある自室に入った。すると今までの疲れがどっと押し寄せて、ベッドに倒れ込むように寝転んだ。何か考えようとしたが、思考と言葉が接続せずに宙を舞っている。時刻はまだ八時五〇分で、晩ごはんも食べていないのに眠りに落ちてしまいそうだ。而して、どうしようもないから最後の力を振り絞って歯を磨きに一階の洗面所に行って、ぼーっと睡眠前最後の準備を終わらせる。もう一度ベッドに入ると、何を思うまでもなく深い闇に潜っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る