第20話 満州は日本の生命線
1939年9月
ヨーロッパは再び戦火に包まれた。
ナチス・ドイツは拡大政策の極大化と言わんばかり、ポーランドへ電撃的な侵攻を開始し、これに呼応してソ連も挟み撃ちと侵攻する。ポーランドは瞬く間に占領されていった。ポーランドの大きくは9月中に独ソによって分割占領される。欧米諸国はさも当然として両国を非難した。特に英仏はポーランドと結んでいた相互保障に則り形式上はドイツに宣戦を布告する。ここに英仏と独国は交戦状態に突入した。しかし、英仏は非難こそすれど行動に移すことを慎んでしまい、まやかし戦争と呼ばれる膠着状態に入る。
ソ連に関しては一方的な侵略行為を理由に国際連盟から除外された。すでに国際連盟は機能していない。まったくの無意味であった。英仏はナチス・ドイツをソ連にぶつけようと画策し、敢えて、ソ連には比較的に甘い制裁措置を発動するに止まる。これがバルト三国侵攻やフィンランド侵攻に繋がった。
それでは極東の大国はどうする。
「日本は欧州情勢に関知せず」
大日本帝国の米内内閣は局外中立を宣言した。
ヨーロッパのことなので勝手にやってもらいたい。もちろんながら対岸の火事と傍観するわけにもいかなかった。外交官は不眠不休で各国と調整に駆け回る。日本はともかく中華民国がドイツと関係が深かった時期があった。日中はドイツと同一視されることが多い。
吉田茂外相は遺憾の意を連発することで中立の立場を明確にした。
陸軍と海軍は将校に自制を促している。若手将校はドイツ軍の電撃的な侵攻に魅了されたのか仏印進駐や香港占領、タイ王国進駐など懲りずに何度も提案してきた。海軍大臣と陸軍大臣はマスコミや一部の国民など外から突かれる。若手将校や強行派の生き残りなど内から突き上げられた。内外の圧力に曝されたが平然と粛々と職務を遂行する。
「米内さんが不介入と言ったなら従うだけです。それが大臣というもの」
石原閣下は変人や狂人と常日頃から揶揄られた。そのおかげで耐性が身についている。表舞台に立てば黄金仮面で表情を変化させなかった。それも海軍との打ち合わせの舞台裏なら話は変わる。私は不敵な笑みを浮かべながら海軍の連絡将校に告げた。
「陸軍はいつでも動けます。仮にイギリスが主権を脅かした際は香港を電撃的に攻める。仮にフランスが敗北した際はインドシナを電撃的に攻める。どちらも外交交渉により平和的に進むに越したことはありませんが」
「火事場泥棒と掠め取る。石原閣下の考えることはあくどい」
「人聞きが悪いことを仰る。香港は本来中華民国の一部です。我々が代理して中華民国に返還するだけ。インドシナも植民地支配から解放して東亜連邦に加えるだけ」
「欧米諸国の経済制裁が待っている。どうも乗り気にはなれません」
「そのへっぴり腰がいけません。海軍は世界最強ではないのか。石油が無ければ動けないと弱音を吐いていては勝てる戦にすら勝てなかった」
「石油がなければ戦車も動かないでしょう?」
海軍の連絡将校がムッとした瞬間を見逃さない。極秘の熟語が刻まれた書類と地図をセットに提示した。海軍と協調する路線を採択したから「何時でも・何処でも・何でも」仲良しとは限らない。陸軍を代表する者の立場があって曲げられない時があった。
「これは?」
「満州大油田です。今まで秘匿してきましたが、遂に生産を開始したので、先んじて公開しようと」
「もっと早く言ってくだされば…」
「満州は関東軍と奉天軍、中華民国の管理下にあります。海軍さんの秘匿も見事です。我々も徹底的に秘匿させていただきました。現地に満州油田株式会社を設立して…」
「海軍と陸軍を賄い切れますか?」
海軍にとって燃料問題は死活問題に尽きる。海軍は欧米諸国の経済制裁に石油の禁輸措置が盛り込まれては堪らかった。一度でも大艦隊を動かせば国内の備蓄は底を突くだろう。石油を輸入に頼ることなく自国で賄えると知れば姿勢は一変した。まさに身を乗り出して話を伺おうとする。
地図の目印が刺すは名も無き大地だ。ここに途方も無い量の石油が埋蔵されている。日本政府は秘匿のカモフラージュに「石油は確認できなかった。南方に集中せよ」の伝達を発した。実際は中華民国と共同して満州油田株式会社を設立する。満州大油田の開発事業は難工事を極めた。石油の埋蔵を確認してから約8年が経過した最近になって原油の生産を開始する。
「海軍さんが艦隊をどのように動かすか次第と言いようがない。石油を独占する気は毛頭ありません。かと言って、無駄遣いされては困った」
「何を仰りたいのです?」
「たとえば、空母を前面に出して戦艦は引っ込めておくようなことがある。海軍に旧態依然とした艦隊決戦思想を持つ者はおらんでしょう。私は陸軍の人間ですが海軍さんのことはよ~く存じ上げています」
「痛いところを衝いてくる。海軍の内部事情までお見通しか」
「陸軍も皇道派の処理に難儀しております。内部事情はお互い様です」
日本の燃料問題は満州大油田のフル稼働と安定供給により解決を目指した。海軍は軍艦と航空機に莫大な量を消費する。燃料の状況次第では作戦を練る以前に一隻たりとも一機たりとも動かなかった。これで大艦隊を太平洋に送り出せると意気込む前に牽制を受ける。
陸軍も燃料を消費する以上は海軍に無駄遣いされては怒りを超えて困り果てた。何をもって無駄と判断するかは曖昧だろう。日本や外洋の拠点に留置するだけで戦わないことは無駄と見えた。切り札の投入を見極めるだったり、戦力を温存するだったり、等々の空虚な関ヶ原のような決戦思想に裏打ちされた消極的は最も忌み嫌われる。
海軍は日本海海戦の大勝利に長らく酔いしれてきたが、艦隊派を予備役へ追放した大鉈振るいが功を奏し、海軍の主勢は大艦巨砲主義に代わって航空主兵論が占めた。旧態依然とした戦艦に見限りをつけて航空母艦と基地航空隊を重視する方針が定まる。戦艦自体も使いようで大化けするポテンシャルを秘めた。艦隊派も極少数ながら残っている。
「陸軍はこれだけの秘密を打ち明けました」
「わかりました。海軍の秘策も明かしましょう。私が明かしては漏洩になりますので…」
「山本五十六連合艦隊司令長官と会談の場を設けていただきたい。長谷川海軍大臣は多忙であられる」
「日程など調整いたします」
「どうぞ、よろしく、お願いしたい」
海軍の連絡将校は気の毒だが、とてもお話にならなかった。連絡将校に非は一切ない。高度で濃密な内容の話し合いを所望すればだ。必然的にそこら辺の将校は該当から外される。石原莞爾と日本の行く末を語り合うに適する海軍軍人は少数だが、そこそこの人数がいる中で、山本五十六連合艦隊司令長官を直々に指名する暴挙だった。
「私は海軍に噛み付くことに定評がある」
~同じ頃~
とある陸軍大将は己の右腕と認める参謀から捲し立てられる。
「石原の言うことに従う必要はありません! 山下閣下のためなら千の兵、いや、万の兵が動きます! 仏印を強襲せよなんて無茶苦茶な!」
「これが皇道派の山下奉文なりの責任の取り方である。無理に理解しろとは言わない。君を巻き込むわけにはいかないから、今ここで、降りてもらっても構わないが」
「地獄の底までお付き合いさせていただきます。山下閣下が仏印強襲を実行する時はこの私が責任を被ります」
山下奉文大将は日本陸軍の皇道派の唯一に等しい生き残りと職務を全うする最中だ。彼は根っからの皇道派ではないが統制派や満州派にも該当しない。どちらかと言えば皇道派に振り分けられた。二・二六事件の際は若手将校の暴走に激怒して自制を強く求め、天皇陛下の信頼を失墜させる行為に自決を考えた程の責任感を有し、軍人としての資質も十分どころか非常に優秀で失うことは大損失である。彼も軍人の職務を全うすることで贖罪とすることを決めた。
「武力を伴わない対話による平和進駐を最善とする。ただの演習作戦で済ませたい」
彼が大将に昇進して間もなくの大仕事は火事場泥棒の仏印進駐作戦という汚れ仕事である。参謀が怒髪冠を衝くの様相を呈して当然の指示に本人は素直に受容した。どんな命令だろうと満点以上の成果を上げる。それが天皇陛下に対する責任の取り方と心得た。
日本軍の仏印進駐はしばしばドイツ軍のヴェーザー演習作戦と比較される。
続く
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