第18話 ノモンハン事変の転換点5『石原莞爾 陸軍大臣』

1939年8月


 国際情勢の複雑怪奇さを象徴する出来事が起こった。


「独ソ不可侵条約締結される。平沼内閣は総辞職して米内内閣が成立した」


 ナチス・ドイツとソビエト連邦は不俱戴天の仇と言われていた。それにもかかわらず、ヒトラーとスターリンが笑顔で握手している写真が撮られる。モロトフとリッベントロップの名前が同じ紙の上に存在した。


 いわゆる、独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)が締結される。


 ドイツとソ連の不可侵条約締結は衝撃を以て受け止められた。日本の平沼騏一郎内閣総理大臣は「欧州情勢複雑怪奇なり」と言い残して内閣総辞職を選択する。そして、米内光政海軍大臣を公認に指名した即日に米内臨時内閣が発足した。米内内閣の顔ぶれは即席に過ぎない。大半が続投するという予想は見事に裏切られた。一部留任こそあれど大半が初入閣や復帰である。何よりも衝撃的なのは石原莞爾の陸軍大臣就任だった。これを衝撃的と言いながら予想の範囲内に収まることに難儀する。


 主要なメンバーを以下に紹介しよう。


 内閣総理大臣に米内光政は言うまでもなかった。本人は自ら進んで予備役に入り政界への進出を果たしている。軍務に戻ることは有り得ないと公言した。米内内閣の表面上は軍政を削ぎ落している。


 海軍大臣は米内に変わって長谷川清大将が予備役から復帰した。彼は海軍きっての秀才ながら艦隊派に睨まれて予備役に編入される。堀悌吉共々と電撃的な復帰を果たして米内から要請を受ける格好で海軍大臣に収まった。


 外務大臣は例外的に吉田茂が留任となる。吉田は欧州情勢に限らない国際情勢に詳しかった。独ソ不可侵条約を冷静に分析して日独接近の論調には真正面から異を唱える。陸軍が満州派に海軍が条約派に変わると軍人と外交官は協調を志した。外交の仕事が格段にやり易くなったが、実際の外交は先輩たる幣原喜重郎男爵が暗躍している。


 陸軍大臣は誰もが敬愛する石原莞爾閣下が就任した。彼は大臣の職務を優先して本土に帰還すると直ぐに挨拶回りや引継ぎ、自身の思想の浸透に動き回る。関東軍の指揮は辻主席参謀に委任した。幸いにも、戦線は凝り固まった膠着状態である。これが動くことはない。本事変の幕引きとして日ソ停戦交渉が纏まると見た。


 陸軍大臣就任初日の締めは恩人との密会である。


「阿南さんのおかげで無事に陸軍大臣となれました。本当は阿南さんがなるべき…」


「それは順序が違う。君が降りたら座るつもりだが」


「東亜連邦を確立するまで降りる予定はございません」


「頑固なもので大いに結構だ。それよりも、この酒は何かな」


「アブサンです。主にフランスで流行した名酒と言われています。かなり効くので独自に取り寄せました」


 石原莞爾を陸軍大臣にする政治工作において、阿南惟幾大将の働きは計り知れず、誰よりも石原莞爾を評価した。石原莞爾も阿南大将を兄と慕っている。彼が唯一と素直に言う事を聞く上司なのだ。阿南を蹴落とせば石原莞爾も倒れる。そんな安直な考えが浮上したが、阿南は天皇陛下の信頼が厚い故に手出しできず、石原は磐石を築き上げた。


「どうやって仕入れている」


「未だに援蒋の道がありますので、これを逆に利用させていただき」


「なるほど」


「あと数年で仏印も東亜連邦に含まれますが。どうぞ」


 今までの支援の御礼とフランスで流行した名酒を土産に持参する。日本でも異国の酒と一般的なアブサンだが、そこら辺のアブサンと括られては困るものだ。フランス謹製の最上級品を仕入れている。兄弟のみの密会で初めて封を開けた。両者は側近も払っている。お互いに仲良くグラスに注いで、グラスの上に角砂糖を乗せて、マッチで着火して溶かして、最後に天然水で割るのだ。これがアブサンのクラッシックスタイルという。


「モロトフのやつれ具合から察せる」


「各地の紛争ならともかく、対日の大規模な衝突は洒落にならず、想定外の大苦戦に交渉も思い通りに行かない。スターリンから大目玉でも食らったのか」


「ドイツなんて真反対の国と不可侵の交渉もあれば疲弊して当然だな。そこを外交官が逃さない。あまり外交官は信頼していないが、よく頑張ってくれたと褒めたい」


「外交官も使いようです。幣原元外相や吉田現外相は時間稼ぎの交渉に使えます」


「こういった策略は石原陸軍大臣の方が向いている。私は実務に専念する」


「恐れ入ります」


 米内内閣は挙国一致内閣の性質を帯びた。日本の総力を挙げて国難に立ち向かう。日中対ソ蒙の大規模な衝突は便宜的にノモンハン事変と呼称するが、ノモンハン事変は日ソ交渉の進展から年を越す前に停戦を見込み、満蒙国境線は原状回復とすることで纏まるはずだ。ソ連にとっては多大な損害を出して原状回復は割に合わない。ソ連代表のモロトフは当初こそ猛烈に反発して受け入れなかった。ジューコフも交渉次第で再び総攻撃を仕掛ける。


 しかし、モロトフを筆頭にソ連の外交は疲弊した。ノモンハン事変と同時期に各地で小規模な紛争が発生する。これらの対処に追われて完勝と雖も疲れ果てた。さらに、ノモンハン事変の大苦戦に伴う日本側の強硬姿勢まで追加されては堪らない。モロトフは次第にやつれていき、独ソ不可侵条約の際も化粧で補い切れていなかった。


 スターリンはモロトフの泣きつきを取り合わないが、シベリア鉄道が寸断されたことを知り、流石に不毛な戦闘の続行は望まない方向へ姿勢を変えざるを得ない。コミンテルンは日中を敵と定めた。今は東欧への進出が優先である。極東における活動は沈静化させることを決めた。独ソ不可侵条約には密約が存在してポーランドをドイツと二分割する。ドイツが動き次第に火事場泥棒と侵攻を始めた。極東で不毛な戦闘を続けては多方面に支障をきたすため、多少は納得できない内容でも停戦を妥結するしかない。


「これで背後の憂いを断ちましたが、東亜の向いている先に集中し過ぎ、日米決戦やむなしの声が響いている」


「うちの若手将校が即時開戦を訴えた。海軍さんも同じらしい」


「やり過ぎたかもしれません。また荒療治をするわけにもいかずでして」


「陸軍大臣のお手並みを拝見したい」


 石原莞爾は二・二六事件の鎮圧にいち早く動いた。私兵を率いて国会議事堂や首相官邸、その他の公邸などを救出する。天皇陛下は阿南ほど信頼していないが、早期鎮圧の働きぶりは素直に褒め、阿南が直々に推挙すれば陸軍大臣就任を承認した。


 しかし、陸軍大臣の就任早々と対米決戦の用意だけでなく内部統制に追われる。


 陸軍も海軍も若手は崇高な理想を抱いた。上層部に焚き付けることがよく見られる。それが五・一五事件や二・二六事件に繋がった。陸海軍はノモンハン事件の収束時の動乱に備え、高級将校同士で「お互いに大変ですなぁ」と労い合う。石原莞爾も例に漏れなかった。若手から突き上げを受けている。彼の圧倒的なカリスマが災いして「対米即時開戦」の声が響いた。それどころか海軍出身首相を認めず、満州派による政治を目指し、更なる世直しの新昭和維新まで求める。


 アブサンが進んで酔いが回れば数歩も踏み入った話に変わった。


「ドイツが蜂起した時に仏印を攻めるのか?」


「仏印進駐は予定通りに行われます。蒋介石一派は中華民国を転覆させんと野望を滾らせました。英米仏は蒋介石一派を仏印を経由して秘密裏に支援している。その証拠が取れた以上は行動しないことは…」


「誰にやらせる」


「山下将軍にお願いしようかと思います。皇道派の生き残りなので黙って従いましょう」


「あくどいな」


 日ソ交渉中でも欧州情勢は複雑怪奇を超えて大爆発が近い。ナチス・ドイツは一方的な併合と侵攻を以て拡大を続けた。英仏はヴェルサイユ体制の反省から宥和外交を展開する。それ故にドイツは静止を知らぬ暴走列車と化した。独ソ不可侵条約の動きから不穏を極める。ドイツは近いうちに「ポーランドを攻めるのではないか」と分析できた。ポーランドを攻めた場合は同国と相互保障している英仏が表向きは自動的に交戦状態に入るだろう。


 再び世界大戦が勃発すると地理的に真反対の極東は蚊帳の外に置かれた。英仏など欧州諸国の植民地はガラ空きとなる。日本は東亜連保という理想郷を建設するために行動を開始するのだ。一応の大義名分は「欧州諸国が中華民国の転覆を図った。蒋介石一派へ秘密裏に支援を行っている。東亜の秩序と平穏を揺るがした」の三点を纏めている。


「汚れ仕事も承っている。存分にやりなさい」


「ありがとうございます」


 これから本格的な戦いが始まるのだ。


続く

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