第4話 二・二六事件

=1936年2月26日=


 私は帝都の東京に構える満州派の拠点で歴史の転換点に臨んでいる。ここで道を外れると今までの努力は水泡に帰した。したがって、周囲から狂ったのかと言われる程に働いたが、元より天才か奇才(狂人)の両極端で知られており、特に怪しまれることなく通常運転が延長したに過ぎない。


「首相官邸と国会議事堂、各大臣の邸宅に本部まで兵士の配置は完了しています」


「永田さんと阿南さんら有力者の協力を得られたことで大義名分を得た。天皇陛下に銃と刃を突きつける蛮行の大逆は許すわけには」


「まさか国会議事堂の前に戦車がいるとは思わないでしょうな。マヌケな面をした首謀者を見たいもの」


バン!


「失礼します! つい先刻に首相官邸が襲撃されました!」


「幣原首相の安否は?」


「無事です。正面は戦車隊が封じて後方は重装歩兵が固めています。警察の活躍もあって殆どを捕縛したと。その他の私邸なども襲撃されたと聞いていますが、その詳細は把握しきれておらず、陸軍参謀本部は睨み合いが続いているなんて」


「ひとまず幣原首相が無事なら良い。あの方には外交の切り札と生きてもらう」


 この日に陸軍皇道派の青年将校が国家改造思想に塗れた末に昭和維新を掲げてクーデターを決行した。日本陸軍は大きく分けて皇道派と統制派に分けられる。前者は天皇陛下を頂点に据えた天皇親政を目指した。従来の老齢者による政治と舵取りを認めないで武力行使も厭わない危険性を孕んでいる。後者は陸軍大臣を通ずる合法的な手段を以て国防を強化した。これが安定してルールに則る姿勢は比較的でマシと言える。特に永田鉄山など主要な人物は貴重な人材と取り込みを欠かさない。


 石原莞爾はドコに所属するのかという質問に対して「満州派」と答えた。石原莞爾の関東軍と志を共にする者共は便宜的に満州派を自称する。皇道派と統制派に所属しない第三勢力も非公式を極めた。それ故に二・二六事件の首謀者から狙われることは原則としてない。


「一人も欠けてはならない。青年将校の連中が待ち伏せていることは百も承知だが正々堂々と正面玄関から登庁するんだ」


「満州派が鎮圧を主導する。天皇陛下も認めてくださいましょう」


「天皇陛下を軽々しく扱うな」


「し、失礼いたしました。それでは装甲車を用意します」


 この大事件を私以上の上層部が把握していないわけがなかろう。鎮圧の出動も妨害に次ぐ妨害によって容易でない。陸軍の本部が完全に包囲されては兵士を動かせなかった。首相官邸や各大臣私邸、本部などに新型の戦車隊や重装備の歩兵隊を送っている。安心と信頼の独断専行に伴う防衛的な出動だった。クーデターを起こした青年将校の捕縛は専ら警察官に任せている。首相と大臣、軍人が殺害されることを防ぐことが精一杯だ。


「私が陣頭指揮を執る。満州派が逆賊を討つ」


「石原閣下に続けぃ!」


「おぉー!」


 石原莞爾はクーデター鎮圧の最先鋒と行動を開始する。他の部隊が指揮系統の混乱から動けない中で満州派こと関東軍は柔軟性を発揮した。まずは自身も登庁する陸軍参謀本部を解放したい。それから本格的に首相官邸から大臣私邸、国会議事堂を解囲するつもりだ。


 今日にかけて東京は非常に珍しい降雪があって積雪を確認できる。青年将校らは軍靴で雪を踏みしめて足跡を付けて回った。一方のクーデター鎮圧軍は独断専行を象徴する履帯と装輪の跡を伸ばしている。


「ここで機械化歩兵をお披露目するとはね」


~陸軍参謀本部~


 我々は鎮圧軍の兵士を乗せた装軌車を率いて陸軍参謀本部へ急いだ。雪でスリップしては堪らない。各車の運転手は「急がば回れ」で慎重に運転したが、緊急出動と市民に対する配慮に欠け、中には大声で邪魔を排除することが見られた。


(ほう。この石原莞爾の到着を待っていたと言うのか)


「これは石原莞爾閣下ではありませんか。これは何の真似でしょう。昭和維新を認めないと言わんばかり」


「昭和維新なんぞ馬鹿馬鹿しい。何が維新だ。陛下の軍隊を私するな」


「あなたは敵なのか」


「敵も味方もあるものか。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」


 陸軍参謀本部も首謀者の標的に定められた。本日未明の内に重機関銃と軽機関銃、小銃を装備した歩兵を配置しておき、クーデター軍がいざいざと向かった先に簡易的なトーチカが出迎え、これに臆することなく睨み合いから激論を繰り広げていたようである。普通は正面切っての銃撃戦になってもおかしくない。お互いに変に自制して武器を置いて話し合った。日本人らしい光景を目の当たりにして腹に力を入れなければ噴き出して大笑いしかねない。


 彼らはどこから来たのか不明な関東軍と対峙していると実質的な司令官の石原莞爾が現れた。これを絶好機と見て対話による解決を模索する。石原莞爾を敵なのか味方なのか判断できていなかった。石原莞爾は常日頃から満州派を自称している。空に浮かぶ雲をつかむようだ。天才に奇人と変人の印象から一層捉え切れない。銃口を向けても引き金は引けなかった。


 石原莞爾が関東軍という巨大な精鋭部隊を率いている以上は手出し無用である。敵か味方か判断しかねる場合は上手いこと引き入れるべきだ。実際にクーデター決起前に使者を送って関東軍に協力は求めずとも静観を要請している。彼らの正直を代弁すると中華民国に閉じこもって欲しいわけだ。


「どうせ勝ち目は無いのだから大人しく捕まればよい。諸君は法廷に挽回の機会を得られる」


「これでもですか」


「これだけの装甲車を目の当たりにしても拳銃を抜けるとは見事な精神力である。しかし、その自動拳銃は非力過ぎたな」


 石原莞爾は車上にある。


 石原莞爾を筆頭に重装甲車と軽装甲車がずらりと並んだ。それにもかかわらず九四式自動拳銃を引き抜ける胆力は見事に尽きる。重装甲車は13,2mm機関砲をいつでも掃射でき、軽装甲車は7.7mm車載機銃に歩兵の軽機関銃を黒光りさせ、約100名の歩兵が小銃と軽機関銃を構えた。真正面から撃ち合ったら忽ち薙ぎ倒されるに違いない。


「貴官の九四式自動拳銃は8mm南部弾を単発で撃ち出す。私のチ式機関短銃は9mmルガー弾を連射できる」


「何を仰いま…」


 ダダダダダッ!


 こんな小気味良い音を聞いて喜ぶ兵士と畏怖を抱く兵士に二分された。自分も使いたいなとキャッキャッと喜ぶのは鎮圧軍である。こんな兵器があるのかと恐れるのはクーデター軍だった。機関短銃の存在は欧州大戦時から把握しているが、自軍内では研究程度に止まって普及せず、昔ながらの三八式歩兵銃が現役を務めている。


「ダメだ。この距離でも当たらんよ」


「相変わらず跳ね上がりの制御が下手でありますなぁ」


「ともかくだ。我々を入れぬと言うのならば相応の代償を支払ってもらう」


「…」


「大人しく降伏したまえ」


 陸軍参謀本部の占拠を目指した一部隊の指揮官は力なく武器を下ろす。ここで意思を貫徹できる強さも無かった。若さ故の暴走と分析できても御粗末が呈される。なぜなら、彼らは「とりあえずクーデターを起こせばどうにかなる」と考えた上に成功後は「天皇陛下がどうにかしてくれる」と行く先を軽視するどころでなかった。


(私のクーデターを真似たとは言わせん。お前たちの愚行とは違うんだぞ)


「一人残らずひっ捕らえろ。大逆の賊だ」


「それでは堂々と正門から登庁させていただくとしよう。諸君らはご苦労だった。よく守り通してくれた。心から感謝する」


 石原莞爾に徹すると雖も部下の心酔を集めることは必須の技術と心得る。いかに優秀な長が優秀な部下を抱えても心酔を得られなければ軋轢ばかりの不和に伴う不利益のみを生じた。世間一般からは天才に寄った狂人と見られようと気にしない。私の可愛い部下たちからは石原閣下と呼ばれる。


「どうにかなった…かな」


続く

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