第四章

 

 ラルフをスピアーズこうしゃく家にむかえ入れて、早くも二年が経過した。

 迎え入れた当初、読み書きすらも満足にできなかったラルフに、私はかつてないほどに狼狽うろたえた。「この状態のラルフを、約三年間で周囲と同程度にまで仕上げなければならないのか」と思うと、気が遠くなった。

 というのも、ていではあるものの、ラルフと私は同学年。つまり、ラルフは私と同時に王立学園に入学することになっているからだ。ややこしいことこの上ないが、これはゲームの進行を同じクラス内で完結させたいという、『ガクレラ』の制作者の事情によるものだと思っている。

 このままではいけない。私が前世を思い出したせいでこの子の人生を大きくくるわせてしまったという負い目から、できる限りラルフにやさしく接しようと考えていた私は、心を入れえた。

 ラルフが公爵家のあと取りとしてゆうしゅうであればあるほど、私にとっても有利に事が進むというよこしまな考えも、全くなかった訳ではない。けれどもそれ以上に、自分に非がないにもかかわらず犯罪者の子になってしまった上に、母親との関係まで解消する羽目になったラルフを、これ以上傷つけたくはなかった。

 このような状態で学園に通うことになれば、ラルフはおそらくとんでもないれっとう感にさいなまれることになるだろう。それはなんとしてでもけたい。そう考えた私は、両親が心配するほどにラルフを厳しく指導した。


「私のことをうっとうしいと、きらいだと思ってくれても構わないわ。けれども、なぜうるさく言われているのかだけは理解なさい。それでもなお私の言葉は聞くにあたいしないものだと思

うのであれば、それはあなたの自由よ」


 私は常々、ラルフにそう言ってきた。そんな私の言葉を、ラルフはくやしさをにじませながらもだまって聞き入れ、今では同学年の者達と同じ内容の授業を受けるまでに成長した。きょう的な習得力であるが、これはこうりゃく対象者のチート能力によるものだけではない。ラルフがどれほど努力をしてきたか、同じしきに住む私はよく知っている。

 ラルフの成長自体はなおうれしい。すごいことだと、心からそう思う。けれども、ここまでの関わりのえいきょうで、私はおそらくラルフからい感情を持たれてはいないだろう。

『ガクレラ』の設定通り、嫌われてしまった可能性すらある。

 もちろん、ラルフを「にせ貴族」とののしることなどしなかった。貴族としての教育を受け、貴族としての義務を果たす以上、彼は立派な貴族なのだから。せいの生活に身を置いた経験もある彼は、じょうでしかその生活を知らない〝お貴族様〞より、よっぽど優秀な領主になる可能性だってあると、私は思っている。

 それでも、だ。

 義理とはいえ弟ができたことにかれていた私は、わいい弟ににくまれているかもしれないという事実に、わずかなさびしさを感じてしまう。すっかり公爵家の跡取りとして成長したラルフが、感情の読めないがおで「姉様」と呼ぶたびに、自分のせんたくこうかいしそうになったりする。

 そんな時、私は自分に言い聞かせる。「私は悪役なのだ」と。攻略対象者に感情移入しすぎてはならない。善良な彼らが、ゲームの強制力によって私にきばく可能性があることを忘れてはならない、と。

 ラルフに嫌われてしまうことも、ある程度承知の上で彼に接してきたのだ。もしもこの先、ラルフが私をおとしいれようとするならば、私は彼を許さない。

 厳しく指導したとはいえ、じんな感情をぶつけていた訳ではない。もしも私の厳しさを「虐めだ」と思って断罪するのであれば、そもそも彼は公爵になるようなうつわではない。その時は私がどうこうせずとも、彼の代でスピアーズ家は終わりを迎えるだろう。

 忘れてはいけない。私は〈悪役〉なのだ。


「やあ、見違えたな」


 ジェラルド殿でんはそう言って、ラルフに右手をばした。


「前回は大変失礼いたしました。殿下のかんだいなお心に感謝いたします」


 殿下の手をにぎり返しながらそう言うラルフは、いつもと同じようにました顔をしているけれども、その耳は僅かに色づいていた。

 おそらく、「将来義弟になるのだから」というジェラルド殿下の言葉に押し切られて、引き取った直後のラルフと殿下を引き合わせた時のことを思い出しているのだろう。その際ラルフは、「え……本物? すご……」と言ったきりこうちょくしてしまった。

 自分とは住む世界が違うと思っていた人間を目の前にして、直前まで言い聞かせられていたあいさつがすっぽりとけ落ちてしまう気持ちはよくわかる。けれども、あまりにも失礼な物言いと態度に、私は心の中で白目を剝いたものだ。


「いや、気にするな。あの時はあまりにとつぜん呼び出してしまったと、私も反省している」


 そう言って美しく笑うジェラルド殿下も、この二年ですっかりと大人びて、感情をあらわにすることもほとんどなくなった。

 とはいえ、彼らはまだ十三歳。前世で二十八歳まで生きた私からすると、まだまだ子どもだ。目の前であくしゅわす二人を保護者のような気持ちでながめていると、突然ジェラルド殿下がくるりと私に向き直る。


「ラルフもこれほど立派に成長したのだ。我々のしんぼくタイムも、元のひんもどると考えていいんだな?」


 そう言ってみを深める殿下だが、目の奥は笑っていない。王太子としての教育に加えて、ラルフのことでいっぱいだった私が、「交流会の頻度を減らしてほしい」とお願いし

たことを、ジェラルド殿下はおこっているようだ。

 しかし現状、殿下とは月に二回は会っている。以前よりは減らしたといえども、少なくない回数だと思う。


「ええ、まあ構いません。ですが、殿下がおいそがしいのではないですか?」


 ジェラルド殿下だって、年を重ねるごとに王太子としての職務も増えているはず。私との交流のために、これ以上時間をくことなどできるのだろうか?

 そんな私の心配などお構いなしに、殿下はすずしい顔で口を開く。


「全く問題ない。国のへいおんのためにも、我々の関係を良好に保っておくことは重要だ」


 殿下のその言葉に、まあそう言うのならば……と思った私が口を開くよりも先に、ラルフがずいっと前に進み出る。


「ジェラルド殿下におめいただき、大変光栄でございます。ですが、私もまだまだ至らないところばかりですので……」


 あまりの出来事に目を見開く私を背中でかくすような格好で、ラルフがいきなり発言するものだから、ジェラルド殿下が顔をしかめるのも当然だ。


「……我々の会話に割って入るのは、あまりにも無礼ではないか?」

「それは、大変失礼いたしました。しかし、私がまだ勉強不足であることがおわかりいただけたことでしょう」


 とつじょとして険悪なふんかもし出す二人を前に、私はぜんとするしかない。

 しかしさすがに、ラルフがあまりにも失礼だ。相手が王太子であることを、忘れているのではないだろうか。


「ちょっとラルフ!」


 さきほどの言動をとがめようと、ラルフのかたに手を伸ばす。しかしその手は、なぜだか殿下にはばまれた。そしてそのまま、ジェラルド殿下が私の手をうやうやしく自身の両手で包み込むものだから、私は思わず目を見開く。


「エリス。今日から私のことは〝殿下〞ではなく、〝ジェラルド〞と呼ぶように」

「はっ?」


 とっぴょうもない提案に、公爵れいじょうらしからぬ声がれてしまった。

 しかし殿下はそんなことを気にするりもなく、言葉を続ける。


「前から気にはなっていた。こんやく者として、にんぎょうすぎる」


「呼んでみろ」とせまる殿下のはくに押され、「ジェラルド……様?」と答えると、彼は満足げにうなずいた。


「うむ、まあいいだろう」


 ジェラルド殿下はそう言うと、どういう訳かちょうはつ的な視線をラルフに向けるのだった。

 結局、ジェラルド様の強い希望もあって、婚約者交流会のかいさいは週に一度のペースになった。

 頻度が多すぎることはわかっている。私だって、彼の負担になるだろうと思って父に相談した。しかしその結果、国王からじきじきに「ジェラルドに付き合ってやってほしい」と言われる羽目になったのだ。おそろしい。

 ちなみに、交流会の会場も、国王達が住まう王居内を指定されることまで増えてきた。多くの貴族が出入りする王宮と違い、完全にプライベートな場である王居は、ゲーム内でも登場したことはなく、初めて足をみ入れた際にはちょっぴり感動した。

 そういう訳もあって、今日も私はジェラルド様と向かい合ってお茶を飲んでいる。用意されている紅茶は、以前私が「好きだ」と言ったことのあるもので、そのたった一言を覚えてくれていることに、幸福感のようなものと共に気恥ずかしさを感じる。


「ところで、ミアはどうしていますか?」


 そんな思いをすように聞いた私の問い掛けに対して、ジェラルド様は満足げな表情で答える。


「ああ、よくがんっている」


 ミアは、我がスピアーズ領内の院で育った少女だ。

 現状、孤児院で保護できるのは十五歳までの子どもと決まっており、十四歳のミアも来年には孤児院を去ることになっている。しかし、後ろだてのない孤児が職を得るのは非常に難しく、彼らには選択の余地がほとんどない。

 そこで、めぐまれない立場にある子ども達であっても、意欲のある者にはチャンスが得られるようにと、少し前から王太子発案の新たな取り組みが試験的に開始された。孤児院にざいせきする者の中で、見込みのある者を貴族の屋敷で働かせるというものだ。

 条件が合えばそのままやとってもらうこともできるし、そうでなくとも、貴族の屋敷で働いていたという経歴は職を探す際に有利に働くから、というのがジェラルド様の考えだ。

 まずは発案者である王太子の家、つまりは王宮での受け入れが、つい先日始まったばかりで、その記念すべき一人目として選ばれたのがミアだった。


「エリスがすいせんしただけのことはある。もちろん、王宮の使用人として足りない部分はあるが、前向きにはげむ彼女のことを、他の使用人達も好ましく感じているようだ」


 ジェラルド様からそう言われ、私は胸をろす。


「それはよかったです。王宮の方々のごめいわくになっていないこともそうですし、ミア自身が前向きに働けているなら、これほど嬉しいことはありません」


 この取り組みを聞いた時、一番に心配したのは「孤児がしゅくしてしまわないか」ということだった。今までとはかんきょうも、常識とされることがらも全く違うであろう場に放り込まれて、それがその子にとってマイナスに働かないかということを、私は最もしていた。

 貴族目線での幸せを押し付けることで、彼らの人生を狂わせることだけは絶対に避けたい。これは、ミアを推薦した際にも、ジェラルド様に伝えたことだった。


「エリス、だいじょうだ。私からも、彼女に変化があれば伝えるようにと言ってある。私とて、不幸な者を作るためにこの制度を発案した訳ではない」


 おそらく私の心配をかして、ジェラルド様はそう言った。


「エリスが彼女のことを大切に思っていることは知っている。要望があれば聞こう」


 問い掛けるような視線を向けるジェラルド様のひとみは、どこまでも澄んでいる。


「ありがとうございます。では、もし可能でしたら、彼女と話をさせていただけませんでしょうか?」

「もちろんだ。今すぐにでも呼び出せるが?」

「いえ、仕事のじゃはしたくありません。それに、できることならだんの彼女の様子も見ておきたいのです」

「そういうことなら、メイド長に話をしておこう」


 ジェラルド様はそう言うと、部屋にひかえている使用人をそばに呼んだ。


「すまないが、ミアの今日の予定をメイド長に聞いてきてくれないか」

「はい、承知いたしました」

「ありがとう、助かるよ」


 ジェラルド様と使用人のやりとりをぼんやり眺めながら、改めて彼のすごさをにんしきする。

 生まれた時から王族である彼は、人から敬われるのが当然の環境で生きている。それにもかかわらず、彼の城内の使用人への態度には、相手への敬意が感じられる。もちろん城内の人間のみならず、城外に出ても彼のそんな態度は変わらない。私は、彼のそういうところを心から尊敬している。


「殿下、ありがとうございます」


 私がそう言うと、ジェラルド様が少しムッとしたのがわかった。


「〝殿下〞ではない。〝ジェラルド〞だ」


 ねたようなその顔が可愛くて、私はくすりと笑ってしまった。

 交流会の後、城外での公務があるというジェラルド様を見送った私は、一人でメイド長に伝えられていた場所へと向かった。一階のホールから階段を見上げると、そこには階段のすりけんめいみがくミアがいる。


「ミア」


 周囲に人がいないことをかくにんしてそう呼び掛けると、ミアは目を丸くして、「エリス様!」とはずんだ声で私の名を口にした。彼女が私に会えたことを喜んでくれているように感じるのは、自惚うぬぼれではないはずだ。

 ミアがあわてて階段を下りてこようとするのを制止し、ゆったりとした歩調で二階に上る。そんな私を待つミアの背筋が、美しくピンと伸びていることに気づいて、私はほこらしい気持ちになった。初めて会った時からは大きく成長した彼女の姿に、これまでのミアの頑張りがけて見えるような気がする。


「ミア。ジェラルド殿下があなたのことを『頑張っている』とおっしゃっていたの。あなたを推薦した身として、とても誇らしいわ」


 階段を上り切った私は、ミアに頭を上げるように言った上でそう声を掛ける。


「そんな、もったいないお言葉です。みなさんとても親切にしてくださって、たくさんのことを学ばせていただいています」


 ミアのキラキラとかがやく瞳を見て、私は思わず笑みを漏らす。心配していたことがゆうに終わったようで何よりだ。


「それはよかったわ。この先もしも困ったことがあって、助けが必要になった時には言ってちょうだいね」

「ですが、公爵家のれいじょうであるエリス様に、私のような者がそんな……」


 私の言葉を聞いてたんに表情をくもらせるミアに、私は強い口調で続ける。


「ねえ、ミア聞いて? 確かに、平民であるあなたが公爵のむすめである私に気軽に話し掛けることはよくないわ。でもね、『私のような、、、』なんて言わないで。私はあなたのことを、大切に思っているのよ?」


 たとえミア本人であったとしても、私の大切なミアかろんじるような言葉は使ってほしくない。私を敬うのに、自身を

する必要はないのだから。


「大切な人の力になりたいと思うのは当然でしょう? 特に今回は新しい政策の可否を決定するためにも、あなたの意見が必要なの。何かあれば、きちんと報告してちょうだい」


 私がそう言うと、ミアの瞳が僅かにうるんだ。

 しかしミアが何かを言う前に、数人の足音が近づいてくる音が聞こえた。じょじょに大きくなるその音を耳にして、目の前でミアがあせったような表情を浮かべている。

 今回は私がわざとその時間をねらってきた訳だけれど、普段は使用人がそうをしている姿を王宮内で目にすることなどない。高貴な人間がひんぱんに出入りする王宮では、人目に付かないように考えて掃除の予定が組まれていると聞いたことがある。だからミアは、すぐにこの場をはなれなければならないと考えたのだろう。

 ミアがたじろぐように半歩下がったその先に、足場はなかった。そのしゅんかん、小さく「あっ」と声を上げた彼女の身体からだが、ぐらりと後ろにかたむくのがわかった。

 ミアが、落ちちゃう。


「ミア!」


 そうさけんで必死に手を伸ばしたものの、私の手は彼女にれることはできなかった。私は、階段を落ち行く彼女を、ただ見ていることしかできなかった。

 幸いにも、階段から落下したミアのは、右手首のねんだけにとどまった。とはいえ、真っ赤にれ上がった彼女の手首と、苦痛にゆがんだ彼女の表情を思い出して、私は後悔と申し訳なさで押し潰されそうになる。


「ミア、本当にごめんなさい」

「そんなっ! 違います、エリス様のせいではありません! 私が勝手に、階段から落下したのです!」


 頭を下げて謝罪する私に、ミアは慌てたようにそう言った。

 ミアの言葉が彼女の本心であることはわかるし、私が彼女だったとしても、おそらく同じように言っただろう。けれども、私に想像力が足りなかったのも事実なのだ。

 私が声を掛けたことで彼女は手を止めることとなり、時間内に仕事を終えることができなかった。もしもミアが時間内に仕事を終えていれば、彼女はあの場で焦ることもなく、階段から落下することもなかったはずだ。

 王宮内での彼女の立場と、私に声を掛けられてにはできない彼女の立場。それらをこうりょしていなかった私に、全く非がないとは言えない。


「いいえ、私にはいりょが足りなかったのよ。痛い思いをさせて、本当にごめんなさい」


 私がそう言ってミアの手首をそっと持ち上げると、ミアは今にも泣きだしそうな顔をした。そんな彼女の顔を見て、私まで鼻の奥にツンとしたものを感じる。しかしここで、私がなみだを見せる訳にはいかない。

 そう思って、けんに力を込めた時だった。医務室のとびらがノックされたかと思うと、こちらの返事を待つこともなく、勢いよく扉が開け放たれる。

 何事かと思いり向いた先には、数名の男性を引き連れた男性が立っていた。父と同年代の神経質そうなその男性は、私達をいちべつすると重々しく口を開く。


「……何を、なさっているのでしょう?」

「キャンベルこうしゃく……」


 慌てて立ち上がろうとする私を、彼は手で制し、眉間のしわをさらに深めた。


「何を、なさっていたのでしょう」


 その言葉の冷たさに、ななめ後ろに座るミアが息をんだのがわかった。


「おっしゃる意味がよくわかりません。知り合いである彼女と、話をしていただけです」


 しかしキャンベル侯爵は、私の言葉を鼻で笑った。


「話をしていた? 私には、あなたが使用人をおどしているように見えましたがね」


 彼の言葉に、そして冷ややかなまなしに、心臓がわしづかみにされたかのようなここがする。


「誤解です。彼女はスピアーズ公爵領の領民で、旧知の仲なのです。侯爵閣下がご心配なさるようなあいだがらではありません」


 私はなるべく冷静に、彼に事実を伝える。

 しかしそんな私の言葉など聞こえなかったかのように、キャンベル侯爵はわざとらしくためいきいた。


「私は最初から、こういった事態が起こることを危惧していました。ですから、特待生制度にも孤児の受け入れにも、反対していたのですよ」


 彼のその言葉を聞いて、それらの政策に反対するばつの筆頭がキャンベル侯爵であったことを思い出す。彼自身は領民からも支持を得ている人物だったので不思議に思っていたのだが、〝こういった事態〞とは一体どういうことなのか。

 頭の中がもんくされる私に対して、キャンベル侯爵が話を続ける。


み分けは必要なのです。それは何も、我々が利益をどくせんしようという訳ではありません。貴族よりも立場の弱い平民が、不当な目にうことを防ぐためにも、です。……今回のようにね」

「……どういう意味でしょうか?」

「ご自身がよくご存じなのでは? あなたが、彼女を階段の上から突き落としたように見えましたが?」


 キャンベル侯爵のその言葉に、血の気が引くのを感じた。

 おそらく先程聞こえた足音は、キャンベル侯爵達のものだったのだろう。階段から落ち行くミアに向かって手を伸ばす私を見た彼は、どうやら私が故意にミアを突き落としたとかんちがいしているようだ。医務室内で私がミアの手を握っていたのも、私が彼女を脅しているように見えたと言っていた。

 ……やっかいなことになってしまった。

 公爵の娘である私と、侯爵家当主の彼。私が王太子の婚約者であることを踏まえても、子どもである私よりも彼の方が社会的なしんらい度は高いだろうと思われる。

 今この場においても、キャンベル侯爵の後ろに立つ人々は、彼の主張を支持していることが見て取れる。悪役であることのへいがいか、この世界でも私の第一印象はあまり良くないらしいので、いくら私が無実をうったえようとも、彼らをなっとくさせることはできないだろう。

 そして何よりも、最も厄介なことは、キャンベル侯爵が私を陥れようとしている訳ではないということだ。彼は、私がミアを傷つけたと本気で思っており、ただただ平民であるミアを守ろうとしている。これは彼にとって、彼自身の正義に従った行動なのだ。

 しかしここで、えきれないとでもいうように、ミアが口を開いた。


「違うんです! エリス様は、私を助けようとしてくださったのです!」


 発言を許可されていないにもかかわらず、しょみんが貴族に話し掛けるのはごはっだし、貴族間の会話に口をはさむことなどもってのほか。ミアも当然それくらいのことは理解しているし、だからこそ今まで黙っていたのだろう。

 しかしキャンベル侯爵は、ミアの無作法を咎めることはせず、代わりに優しげな笑顔を浮かべた。


「心配しなくても良い。真実を述べてほしい」

「違います。本当に、私の不注意で足をすべらせてしまったのです」

「事実がどうであれ、君はそう言うしかないだろう」


 キャンベル侯爵はそう言って、いたわるような表情をミアに向けた。彼の耳には、ミアの言葉すら届かない。

 ミアもそのことを感じ取ったのだろう。くちびるふるわせて黙り込んでしまった彼女は、真っ青な顔をしている。そして、そんな彼女をなぐさめるようにミアの肩に手を置くキャンベル侯爵は、間違いなく〈善人〉だった。彼はひたすらに、弱い立場の平民を横暴な公爵令嬢から守る立派な人間に見えた。

 キャンベル侯爵が言うことも、理解はできる。もしも私がミアを階段から突き落としたとして、ミアはそのことを正直に話せないだろう。現実的に考えて、貴族に理不尽に傷つけられた時に、平民は泣きりするしかないのだ。

 そう考えると、キャンベル侯爵の弱者におうとする姿勢は、むしろしょうさんされるべきものだとすら言えるだろう。今回はそう、たまたま誤解があっただけで。

 キャンベル侯爵達の手によって、身に覚えのない〝事実〞が形作られるのを聞きながら、私はぼんやりとそんなことを考える。ここでもまた、当事者の関係性を元に、第三者によって〝事実〞が決定されてしまうのか。そう思うと、いろいろなことが急激にどうでもよくなってしまう。だって私は、ここでも〈悪〉なのだから。

 こうなってしまったら、私ができることなど何もない。キャンベル侯爵が私を陥れようとしているならてっていてきたいこうするけれど、そうではないのだ。私にも落ち度はあったし、何よりも、キャンベル侯爵のこう自体は〈善〉なのだから。

 そう自分に言い聞かせ、対話をあきらめかけた時だった。


「発言を、お許しいただけませんかっ!」


 突如として医務室に現れたその人物の悲鳴のような声が、部屋中にひびき渡った。

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