ある冬の日の御神渡り
べちてん
第1話
遠くの方から何やら鈴の音が近づいてくる。一定のリズムで、しゃん、しゃんと鳴り響く。濃い霧の中、どちらが東かも分からない私の感覚を刺激するのはその鈴の音のみ。
手を振って払ってみてもどこからともなく戻ってくるその霧は、妙な暖かさと、得も言われぬ恐ろしさを同時に孕んでいる。
私は怖くなった。
怖くなって走ってみてもその霧は一向に晴れることはない。むしろさらに濃く、人の世ではない領域に少しずつ足を踏み入れているような感覚がした。
そんな私を鈴の音は追いかけてくる。いや、迫ってきていると言った方が正しいだろう。私がいくら速度を上げて走ったところで、その鈴との距離は離れることはなく、狭まるばかりだ。
しばらくして、深い霧によって真っ白に包まれていた私の視界が徐々に暗くなっていった。地面がそこにあるかも分からない。いくら叫んだところで反響すらもないただ広い一面漆黒の世界。
私はますます怖くなった。
先ほどまで僅かにあった暖かさはいつの間にか発散して、今は温度すらない無の世界。
そんな無の世界にも鈴の音は響く。そして真っ黒い世界で、その鈴の音の源が明るく光っている。先ほどまで感じていた暖かさがその源へと集結してしまったかのように、オレンジ色の暖かい光を放っている。
その光は私の方へと着々と迫ってきて――
「……」
その瞬間、私の意識は現実世界へと引き戻された。先ほどまでいた暗黒世界とは打って変わり、私の視界に入るのはいつもの化粧屋根裏天井である。まだ日の出も迎えていない窓の外では、僅かに雪が降っているようで、窓には結露が付着している。じきにこの奇妙な夢も忘れるだろう。結局何の夢だったんだと様々思うが、時計を見れば時刻はまだ6時も回ってはいない。私は再び布団を深くかぶっては目を閉じた。
それからしばらく。再び私の耳に入ってきたのはあの鈴の音であった。
バサリと音を立てて布団を払い窓の外を見る。まだ聞こえる。ベタだが頬をつねってみる。夢ではない。
何が起きているのか。零下の空気もこの不可解な現象の前では意識の外である。
何か山車でも出ているのかもしれない。そう思い外をじっくり眺めてみたとて手がかりとなりそうなものは見当たらない。まだ山際だって真っ黒だ。そんな時間から祭りが行われるなどとは聞いていない。
「寒さで気でも狂ったか」
そう思ってみてどうにか気を落ち着かせる。そして、何かに突き動かされたかのように普段することのない散歩をしようと思い立ったわけであった。
家を出たとき、まだ外は真っ暗であった。
お気に入りのパジャマを脱ぎ捨て、分厚くて重たい冬着へと着替えている間でさえ、あの鈴の音は止む気配を見せず、一向に私の耳へと届き続けていた。夢の中と異なるのは私の元へと近づいては来ないことだけだ。ただ一点から鳴り響く鈴の音があたりに鳴り響く。
「鈴の音の方へ行ってみよう」
やはり気が狂っているみたいだ。明らかなワナを自ら踏みに行こうとしている私を、私自身しっかりと認識してもなおその愚かな行為を止めようとはしない。
先ほどまでは私を追っていた鈴の音を、黎明の僅かな明かりを頼りに今度は私が追いかける。
どうやらその音は諏訪湖の方から聞こえてきているらしい。
諏訪湖のあたりは霧が濃い。そしてその霧は夢と同じく暖かさと恐ろしさを秘めていて、普段の私であればその時点で家へと引き返しているはずだ。しかし歩は止まらない。何かに背中を押されるかのように。運命が私を導いているかのように、一歩一歩、確実に音の在処へと体が運ばれる。
あの角を曲がれば諏訪湖が見える。音は先ほどよりも格段に大きくなっていて、私の耳はその細かな振動音さえ逃さない。木々のざわめきも、小鳥のさえずりも、永遠と後を追う足音でさえもその鈴の前では無力である。すべてが鈴の外殻へと収容され、ただひとつの金属音となっては世に放たれる。
ようやっと角を曲がり、堂々と目に入った諏訪湖には神の道ができていた。ああ、そうか。あの何もかもを超越する不思議な音色や私を突き動かす謎の力はすべて神の導きだったのだ。私はそのとき確信したのを覚えている。
そんな道の目の前に、例の音の源があった。あの闇の中で僅かに見えた暖かい光がそこにはあったのだ。そしてその光の中心ではなにやら誰かがぽつりとうずくまっているのが見えた。
行かなければならない。私の直感がそう告げて、私の足は勝手に動き出す。先ほどまで迷惑なほどに鳴り響いていた鈴の音は、もうその気配を消し去っている。
少しずつ変わる景色。歩を進める度に辺りの景色は真っ黒に塗りつぶされていって、まああの無の空間が戻ってくる。錯覚か、はたまた現実か。どちらにしろ常態ではないのは明らかであった。
恐る恐る近づいたその光源にうずくまっていたのは白い衣に身を包んだ一人の少女であった。しかし、その少女にはふさふさとした耳と尻尾が生えており、この世のものとは思えない荘厳さを醸し出していた。
「……ねずみ?」
気がついたときにはもう、そのふさふさを目にした私の口からその言葉が漏れ出てしまっていた。急いで口を塞ぐが発してしまったものはもう遅く、少女は驚いたかのようにこちらに顔を向けた。
「いや、リスな? 明らかにリスじゃろこのしっぽ! ほれ見ろ!」
そういうと、いきなり立ち上がっては自身の尻尾を手に持ち、こちらにひらひらと見せびらかしてきた。確かにふさふさだ。
「まったく、第一声がそれかえ。もっと何か他に言うことあるじゃろ」
若干口を尖らせながら、私の胸ほどの背丈の少女は拗ねたような声を出した。
まあいいわい。と前置きし、一歩ほど後ろに下がった後に、少女は堂々と腰に手を当ててこちらに向き直した。
こほん。
「我は古よりこの諏訪湖の湖下に封印されし厄災の番人をしておる、リリスである。人呼んで、厄災のリリスじゃ!」
何一つ短縮されていないというか、むしろ意味が変わって悪役になってしまうような……、そんなよく分からない通り名らしきものを自信満々気に話す少女、つまりはどういうことなのだろうか。
「えっと、つまりは厄災の番人、神様みたいな感じですか?」
「敬語はいいわい。そなたの名は?」
「雪下夏野」
「寒いのか暑いのかわからん名じゃのぉ……。まあいいわい。さて夏野、我は神ではないぞ」
じゃあなんなんだ。という言葉を喉元で止めたが、リリスとやらはほほ~んとか言いながらじろじろと私の顔を見つめてくる。
「まあ我が何者かはひとまず置いておいて」
「いや、割と重要議題な気がするんだけど……」
「いずれ分かるものじゃ。神に準ずるものとでも思っておくのが良いじゃろうな」
いつの間にか暗い闇の世界から晴れ、静かな日の出の時を迎えた湖畔に立つその少女は、ふっと向いている方向を変えて、湖の中央に目を向けた。それに付き従うように私も目をやる。
いつの間にか止んでしまった雪はあたりの霞もろとも地面へと押し込み、湖周辺はハッキリと冴え渡っている。湖の対岸からこの場所にかけてをくねくね横断する氷の山脈は、目を向けた湖の中央部付近でより高くそびえ、その幻想的な姿を堂々とこの自然の世界に見せびらかしている。まるで高く波打つ白波がそのまま凍ってしまったかのようだ。
「さて夏野。そなたは今どこにいると思うか?」
リリスは私の方を一切見ずにそう問いかける。
「諏訪湖の湖畔」
私もリリスを一切見ずにそう単純な答えを返す。彼女の求めている答えがそうではないことはもう思考の中では十分に理解している。少し意地悪をしてみたくなったのだ。
「そうじゃな。でもそうじゃない」
もちろんだ。そんな何のひねりもない回答で正解するわけがない。面倒なことに巻き込まれたような気がする。と、ため息のひとつやふたつも出て来そうになるが、じっとこらえては彼女の発言に耳を澄ませる。
「ここは諏訪湖の湖畔であっても、普段いるそれではないのじゃよ。今この世界に存在する生命体は我とそなたの2人じゃ」
「つまり?」
「え? あ、つまりじゃな……、そ、そう! 今いるこの世界はそなたらが普段生活している世界の裏の世界じゃ。この世界には我が招待し者以外は何人たりとも立ち入ることもできぬ。
そなたと我はこの世界に、世の厄災の元凶を鎮めに来たのじゃ」
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