⑨ ルーチェの力、逢坂の乱入、成就した復讐――排撃者エリミネータ
蜃気楼のように朧げに揺らぎ始める姿、顔に深々と赤い亀裂が走った。エリミネータ化が近づいている。
「君が技を使えるのは一瞬だけ、動きを止める必要がある。そうだろう」
ウェールスは無言で首肯した。
「課長は河原寺さんを。相手は私たちには目もくれず彼を狙うはずです」
背後でクローバーが身じろいだ。
「その体でやる気なの」
慌てる課長に微笑みかける。
「一番楽な役回りですから」前を見据え、「お願いします」
「分かった」
「ウェールス、私が前に出て動きを封じる。きっちり一瞬だけだが」
「うん。君のすぐ後ろに着いて、その一瞬を突くよ」
穏やかな声で答えた。小山さんが一歩足を前に踏み出した。
「行くぞ」
声を張り、駆け出す。小山さんが直進してくる。今の私には一発の衝動弾を放つ瀝青さえ残っていない。だが、今の彼女の遷移位相ならば。左手に銀の杭を呼び出した。彼女が勢いそのまま右拳を繰り出す。身を翻して躱すと手首を掴み、その腕に力一杯に杭を振り下ろした。貫いて、足元に深々と刺さる。柄の先から伸びた銀糸が彼女の腕に巻き付いた。すぐ後ろのウェールスからばっと清浄な瀝青が放たれ、右腕が光の粒を纏う。
それを見た小山さんが仰け反り、声にならない声を漏らした。コアは知っている。目の前にいる女が、力が、自分たちの王を屠ったことを。その時、
「我聞」
私たちから見て左手、建物の通用口から、駆け込んできた人影が声を張り上げた。反射的にウェールスが立ち止まる。全員が声の主を見た。クローバーが悲鳴を上げる。
「未来」
聞くが早いか、小山さんが糸を引き千切った。
「しまった」
言い切るより早く、彼女の振り払った拳が直撃する。殴り飛ばされ、柱に体を強か打ちつけた。
「義兄さん」
「炯」
二人の悲鳴が響く中、小山さんが地面を蹴って逢坂氏に迫る。ウェールスは状況を見失い、私の傍にやって来て、
「炯、しっかりして」
感知能力に乏しい逢坂氏は、私たち以上に彼女が見えない。反応できたのは、クローバーだけだった。だが、小山さんの狙いはそちらだ。逢坂氏に駆け寄る背後に突如現れ、捕え、彼の目の前で、脇腹に左の五指を突き刺した。
「あっ」
河原寺我聞からクローバーの声が聞かれた。
「我聞」逢坂氏が愕然とする。
大家氏の声で小山さんが高らかに笑う。より深く手を突き入れ、彼女の体の中を蹂躙しながら、
「見ろ、見ろ」
機能が破壊されて、本来の姿が露わになる。逢坂氏が茫然とした様子で、
「クローバー」
「未来、大丈夫ですか」
苦しそうに微笑みかける。最悪の事態が起きてしまった。課長が舌打ちして彼らの元に駆け出す。が、
「何」
立ち止まり叫ぶ。大家氏の背中が裂けて、黒々とした影の怪物が現れた。課長の声で我に返ったウェールスがそれを見る。
「エリミネータだ」
目を見開き呟く。私は首を左右に振って柱を支えに立ち、小山さんの姿を見た。
「あれが」
思わず絶句した。影の怪物――圧倒的な瀝青が、弾性効果を押し返し、生んだ歪みをそう認識しているのだ。弾性効果による消失の向こうに、この化け物の瀝青量は至っている。小山さんは今、目的を達成した。宿主を完全に掌握して至るエリミネータだ。
怪物はクローバーを捕まえたまま巨大化していく。急激に放出される血の瀝青によって、空間が真っ赤に染まる。頭が痛み、眼球が小刻みに震える。脈が早く、聞こえるほど大きい。人の倒れる音がした。
「課長」
栄氏の殺害現場で四人の自警団員が倒れたのと同じ理屈だ。この場の瀝青は、全般的に優れた能力を誇る課長でさえ、耐えられない規模になっている。だが、エリミネータの目の前にいる逢坂氏は、能力を超えた気力で立っていた。
エリミネータの頭が三階の高さになった。
「やめろ、やめてくれ」
ふらふらと歩み寄り、嘆願する逢坂氏。それを嗤うように怪物が天を仰ぎ、口を大きく開けた顔の上に、クローバーを持っていく。彼女はもう声を発することができなくなっており、焦点の定まらない目で遠くを見つめ、そっと微笑んでいる。
「見ろ、見ろ」
大家氏の声が、巨人の全身から発せられ、空気が激しく振動する。
「おまえが汚い股を開いた男が、全てを失うのを」クローバーを握りしめる。「見ろ」
叫びと共に彼女を口に放り込む。大きく口を動かし咀嚼する。鉄を、樹脂を、全てを噛み砕き擦り潰す音が鳴り響く。
「やめろ」
それらを掻き消す声量で逢坂氏が絶叫し、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。影の怪物が嘆きのような呻き声を上げる。小山さんの人格が消え、大家氏の声を失ったのだ。瀝青の塊であるフーマニットを吸収し、力を一段と高めたそれが、一層、夥しい瀝青を一気に放つ。自分を表現する、機械仕掛けの人形の姿を手に入れ、不気味な体躯を現した。巨大な人形は、全身で露出した装置が蠢いており、規則的な挙動には吐き気を催す異様さを感じる。
「これはもう手遅れかな」
私が苦笑いで呟くと、ウェールスが悲痛な顔で、
「今の僕じゃ、情報剤があれば」
「ここから暴れ回って落葉のコアを撒くと聞いたが」
「うん。エリミネータが消える頃には廃人の街になってる」
「地下に押し留められれば」
「距離が近過ぎる。落葉のコアの感染力から逃れられない」
「距離か」
独り言つ。怪物が徐にこちらを向いた。
「君が狙いか」
「親の仇みたいなものだからね、僕」
強がりの笑みで答える。再び、彼女が清浄な瀝青を身に纏う。もはや力の差は歴然だった。だが、
「待った」彼女を手で制する。「様子がおかしい」
エリミネータが頭を抱えて身を捩り始めた。一歩、二歩、前に出て、苦しそうに辺りを叩き壊す。
「まさか」私が呟き、
「クローバー」ウェールスが引き取る。
巨体が前屈みになった。咄嗟にウェールスを抱き寄せ、精一杯、横に跳ぶ。目の前を暴風が駆け抜けた。着地のことなど考える余裕は無かった。転がってすぐさま起き上がる。轟音が鳴り響き、土煙が上がる。エリミネータが向こうの壁に全速力で頭を叩きつけた。大量の瓦礫と巨大な穴を残して、彼女は去った。
「うっ」
瀝青の発生源が去るや否や課長が意識を取り戻す。
「どうなったの」
「課長、逢坂さんを頼みます」
「へっ」
「ウェールス、行くぞ」それだけ言って駆け出す。
「えっ。待ってよ」
慌てて後を追いかける彼女と共に、大きな穴から通路に出た。
瀝青の濃度を感知しながら、エリミネータの後を追う。多くの遮蔽物、行き止まりなどの狭い空間を抱える通路内では、移動経路を完全に把握することは難しい。が、大まかな方向は分かる。
「何か考えがあるんでしょ」横を走りながら訊いてくる。
「エリミネータを西の荒地に誘導したい」
落葉のコアの散布は避けられない。ならば、せめて市街地は避けたい。
「こっちに西の荒地があるの」
「ああ。どうやら今のところエリミネータ自体が西の荒地に向かっているようだ」
「クローバーが」
「理由が同じかは分からないが、おそらくそうだろう。コアには西の荒地に行く理由が一つもないからね」
一度立ち止まり、周囲を見渡す。
「だが、いつまでクローバーの意思が保つかは分からない。そうなれば君が頼りだ。エリミネータは君を標的にしている」
「僕が囮になってエリミネータを西の荒地に連れて行く」
「その為にも、まずは彼女に追いつきたい」
ふと、私の脳裏に一つの可能性がよぎった。刹那、ウェールスを突き飛ばす。――それはクローバーの意思が断続的にエリミネータを支配している可能性、今まさに、その意思が後退している可能性だ。
高速で飛来してきた鉄筋が、私の体に突き刺さる。ウェールスの悲鳴を遠くで聞きながら、私は意識を失った。
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