② 姿消す技、兌換券、迫る男――地下シェルターへの入口を求めて

「君は回復が早いな」

「まだちょっと頭が痛いよ。今晩、夢に出て来ないと良いけど」私を見上げて、「甘いものは約束だからね」


 滑り込むように入った一室で声を潜めて話す。


――全部拭けって言ってんのよ。


 大家美央氏の絶叫が聞こえた。反射でびくりと体を震わせる。


「見つかったら怒鳴られるだけじゃ済まない。気をつけてくれ」

「その場でじっとしていればとりあえず大丈夫なんだよね」


 ウェールスには姿を消す技を教えておいた。物音が聞こえたらすぐさま姿を消してやり過ごす、按察官の後ろ暗い仕事体験だ。


「その姿勢を十分間維持できるかを咄嗟に判断するのが肝要だ」

「使いこなすのは難しいって君の話、今なら分かる気がするよ」

「技自体はやれてる、大丈夫さ。いざとなったら私が助ける」


 この技は姿を消した者同士も互いを視認できない。使用者同士が接触し、技が解除される可能性がある。これを回避するため、空間一つに一人を配置するのだが、さすがに覚えたばかりの彼女を一人にするわけにはいかない、今回は二人で行動することを選んだ。


「信じたよ」小さく頷き、「怯んでる場合じゃないもんね」

「強いな」


 そっと扉を開けて隙間から廊下を窺う。人の居ないことを確認し、技を使わずに廊下に出る。向かいの部屋の扉に背中を合わせ、気配の有無を探る。無い。扉を少し開けて中を確かめてから侵入する。手招きすると、姿を消したウェールスが部屋を出て扉を静かに閉める。傍目には、私が手招きしたら向こうの扉がひとりでに閉まったように見えるわけだ。彼女がこちらに駆け込んでくる。扉を閉めて一連の移動の手続きは終わりだ。技を一度、解除する。固く結んでいた唇を解いて安堵のため息を吐く。


「今ので良かった」

「走ると音が大きくなりやすい。躓いたり、ぶつかる危険も増える。歩いた方が良い。それと呼吸は静かに規則的にするんだ。止めるとその分、必ず大きく荒くなる」

「分かった。気をつける」微笑んで答える。と、


――仕事が雑なんだよ。デカいの。


 大家美央氏の叫びが響き、体を小さくびくりと震わせる。苦笑いで私を見上げる。私も笑って、


「気をつけてくれよ」と小声で言った。


 そこから幾つかの部屋を調べた。最初こそぎこちなかった部屋の移動も円滑に運ぶようになった。だが、入口らしきものは見当たらない。もっとも、それ自体は予想通りと言えた。この家も栄氏のそれと同様、頽廃期の富者の家を利用したものだ。これらは特徴として極めて酷似した内部構造を持つ。玄関から最も遠い位置に主人の部屋があり、中庭を経て外に脱出できるようになっている。侵入者から住人を逃すことが重視されているのだ。地下シェルター街への入口は、この構造に則して設置された。主人の部屋か、中庭にある確率が高い。


 一つ一つ調べているのは、決め打ちするわけにいかないというのもあるが、目的が複数あるからだ。その一つに私たちは辿り着いた。壁際に重厚な箱が積まれている。中には金貨が入っていた。


「このお金って」覗き込みながらウェールスが尋ねる。

「人身売買で得た金だろう」


 別の箱に移る。そちらには紙の束が詰め込まれていた。


「これは」

「紙幣、正確に言えば兌換券だ」

「兌換券」

「学府では通貨を一度溶解して材料の質と量を確認することがあると言っただろう。兌換券はそうして確認された価値に相当する物として発行されるんだ」

「じゃあ、これもお金なんだね」

「ああ。理屈の上では兌換券は正貨に交換できる。理屈の上ではね」

「交換してもらえないんだね」

「階級による。高位の人物なら信じられるという建前でね」

「大家さんの奥さんは」

「無理だ。だからこれは掴まされたというわけだ」

「掴まされた」

「本物でも交換できないのだから、偽物でも構わないだろう」

「これ偽物なの」

「ああ。自ずと人身売買に貴族が絡んでいたと考えたくなるな」


 扉に歩み寄り、耳をそばだてる。足音が聞こえた。急ぎ部屋の隅に動く。


「ウェールス、箱を閉めてこちらに。人が来る」

「わ、分かった」


 彼女が私の後ろに回った。両手を私の背中に添える。こうしておけば、彼女が少なくとも私の後ろにいることは分かる。幾つかの意思表示もできる。姿を消す。扉が開いた。大家美央氏が二人の手下を連れて入ってきた。金貨の入っていた箱を開ける。その中の一枚を手に取り、持っていた一枚と見比べた。


「違う」


 それは私が渡した金貨だ。箱の搬入の際に落としたのではないかと考えたらしい。怪訝な顔をする彼女の傍で、手下の一人が何かを探すように首を左右に動かす。気づいたもう一人が、


「どうしたよ」

「女の体の匂いがする」


 ウェールスの両手が小さく跳ねる。彼らの女主人が、


「当たり前でしょう。ここにいるんだから」

「いや、いい匂いだ」そう答えたのがまずかった。

「おい」


 大家美央氏が激昂し、またも雄叫びをあげる。そこに部屋の前を見張っていた手下が扉から顔を覗かせ、


「奥様、自警団のガキが」


 拭き作業の途中で物の配置が分からなくなったと檜山くんが呼びに来たのだ。


「あの役立たずども」


 手下を連れて部屋を出ていく。扉がしなうほどの勢いで閉められた。彼女の大声と荒々しい足音が遠ざかり、聞こえなくなるのを待って技を解除する。


「僕って匂うの」ウェールスが小声で尋ねた。

「いや、私は感じなかった。彼らの嗅覚は本物だ。軽率だった」


 瀝青を用いて感覚を強化することはできるが、特定のものだけを鋭く捉えるとなると難度が跳ね上がる。性的欲求と場数の威力は今もって褪せることがない。


「長居してるといつか見つかりそうだよ」

「ああ。手早く探そう」


 宣言通りに探索を進め、ついに最奥の部屋に行き着く。大家美央氏の自室らしい。日差しをよく遮るカーテンがかけられ、室内は暗い。他と比べて広めの部屋は中央に見えない間仕切りがあるような印象で、奥の半分には机や本棚がある。私はそれらの周囲を調べた。机の上に一枚の紙片を見つけた。ウェールスは手前の半分を調べる。そちらには寝台や衣装棚と思しき戸棚があった。


「寝相が悪いのかな。こんな大きなベッドに一人で寝るなんて」


 一人ではなく二人で寝るのだろう。背を屈めて机の下を確かめる。ここには無い。と、私は今一緒に調べているのがウェールスだということを半ば失念している自分に気づいた。配置を間違えたか。


「これなんだろう」


 不思議そうにする彼女の声。次の瞬間、「あっ」という声と共に強かに頭を打ちつける音が聞こえた。


「どうも気になるな」


 手下の一人が呟いた。彼はまだ先ほどの違和感を引き摺っていた。


「どうしたよ」相棒が小声で尋ねる。

「塩撒けって言われてどんだけ撒いてんのよ」

「多い方がご利益あるんですよ」

「そんなわけあるか」


 自警団をどやしつける女主人を睨みながら、


「悪い、ここ見張っといてくれ」


 静かに部屋を抜け出す。廊下の仲間に探し物とだけ言って、金貨の置かれた部屋に向かった。匂いは消えていた。


(玄関の方には行けねえはずだ)


 目を細め、下卑た笑みを浮かべながら、奥へと進んでいく。本能が言いようのない高揚と興奮をもたらしていた。鼻腔はまだあの匂いを覚えており、舌の真中は舐めた瞬間の肌の弾力と広がる味を訴えている。口の中は唾液でぐちゃぐちゃになっていた。自ずと早く力強くなる足をはたと止める。匂いがした。静かに、息を殺して近づく。そこは彼らの主人の部屋だ。


 その時、物音がした。勢いよく扉を開けて吠える。


「誰だ」


 が、その目がたちまちに白けていく。誰もいない。今もはっきりと残る匂いだけが徒に彼を昂らせた。暗い部屋の真中で苛立たしげに床を踏みつけた。

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