第34話 エピローグ 桜色のテュニカ
風呂好きが嵩じてテルマエと呼ばれる公衆浴場まで整備していた古代ローマ人に、帝国人は、よく似ていた。
貴族平民の別なく公衆浴場で「裸の付き合い」を好んだ帝国人は、それぞれの財力の許す限り自宅も風呂を豪華にしたがる者が多かった。ことに貴族は、その傾向が顕著だった。
貴族の屋敷に偽装したクィリナリスの特務機関オフィスも、地上にある部分は他の貴族たちの屋敷と変わらない。
2階のバルコニーに面した、貴重な大理石を贅沢に使った大きな湯船に、ヤヨイはもうかれこれ2時間近くも浸かっていて、無我の境地を彷徨っていた。
ジャスミンの香料をたっぷりと入れ、花びらを浮かべた心地良い湯加減に身も心も蕩けまくり、湯から出る気力をすっかり失っていた。
解放的なバスルームに続くバルコニーの向こうには、遠くバカロレアの時計台や官庁街、内閣府と元老院議事堂の建物が夕陽に染まってゆく美しい眺めが望めた。
夕闇と共に、夕刻の礼拝の声も流れて来た。帝都に住まう南の地方から来た人々の神への祈りの歌だ。バカロレアの寄宿舎にいた時も毎夕聴いた、この調べ。それに身を委ねていると、何故か心が蕩けて安らぐのを覚えた。
南の国の人々は、帝国の多くの人々が信じる神々ではなく一神教を奉じていた。その割に、彼らの神は排他的ではなかった。その教義のおかげで、帝国内での信仰を許されていたのだった。人々はフレンドリーで、驚くほど短い時間に帝国の人間になって行った。そうでなければ彼らの国は帝国に組み入れられたりはしなかったろう。融和的な宗教のおかげで、彼らの民族は滅亡を免れていた。
湯に浸かりながら、もう何度となく思い返した様々な記憶。それを再び反芻した。あまりにもいろいろなことがありすぎて、整理しないではいられなかった。脳がオーバーヒートしそうなくらいだった。
あの丘に最初に来てくれたのはケイン大尉の部隊だった。
「済まなかった」
彼はのっけから詫びた。
「士官たるものが、貴官のような下士官に全ての責任を負わせ、単独で行動させたのが間違いだった。おれの部隊の到着がもう少し早ければレオンを生かして捕らえることも出来ただろうに・・・」
リーズルもアランも、アレックスまでもが彼の部隊の兵に応急の手当をされ、すぐに大きな施設に運ばれた後、3人とも傷を癒して全快した。
レオン少尉の囮となった本隊にいた第一第二の兵は、ただ一人を除いて全員死亡した。もちろん、「名誉の戦死」としては扱われなかった。
砲兵隊の野砲による連続の十字砲火の威力は想像を絶するものだった。
元々堅固な要塞や砦を破壊するための野砲の攻撃を受けたジローは、担当していた迫撃砲の弾薬の誘爆によって身体を木っ端みじんに吹きとばされて死んだ。
ガンジーは、ヒッピー率いる突撃隊に加わり偵察大隊の哨戒線に突っ込み、彼を除く全員が無数の銃弾を浴びて全滅するのを見た後、鉄兜に直撃弾を喰らって失神し、目覚めた時には野戦病院のベッドに括りつけられていた。のちに軍籍を剥奪され、辺境地の鉄鉱山で奴隷と共に10年の労役刑を科された。
リンデマン大尉とカンター中尉はレオン少尉の残した『L』の刻印のある銃を示され、その死を知らされて投降した。最大の激戦が予想された籠城戦は辛くも回避された。反乱側鎮圧側双方ともに一兵も失われずに済んだ。
リンデマン・カンター両名は軍法会議で死刑を宣告されたが、半年の間、刑の執行を猶予された。その猶予中に、次のことが行われた。
帝国軍に蔓延っていた少なくない汚職、怠慢の類が根こそぎ摘発されたのだ。
一つの具体例を言えば、レオン少尉が獲得した捕虜を民間の奴隷に横流しするのを黙認する度に袖の下を要求し、その対価として軍法会議で彼女の軍法違反を咎めなかった尉官、佐官、将官らがその業者と共に逮捕され、軍法会議に掛けられ、全て軍籍を剥奪され、ある者は収監され、ある者は市民権を失い、奴隷の身分に身を堕とし、それを恥じて自決したりした。レオン少尉たちの反乱を生む土壌となったこれらの汚職はそれだけに罪が重いと判断されたのだった。
リンデマンとカンターは銃殺刑の前にそうした軍の粛清、清浄化を知らされた後、満足してこう言った。
「これであの世でレオンの前に立っても堂々と名を名乗れる」
だが、レオン少尉は、生きていた。
彼女もまた軍法会議に掛けられたが、何故か罪一等を減じられ、アンヴァリッドで終身労役の刑を科された。
アンヴァリッド。
首都から遠く離れた田園地帯にある廃兵院には、戦闘で心身に傷を負い、もう二度と立つことも歩くことも話すことも出来ない傷病兵が大勢いた。死ぬまで彼らの世話をするのが彼女の役目となった。その献身的な奉仕の様子は、リンデマン・カンターらが刑死したのち、レオン少尉の裁判記録とともに公開された。各軍団に要旨がパンフレットにまとめられて配布され、公共の広場には要点をまとめられた掲示がなされた。
曰く、
・自分は度々軍法を犯し、越境して野蛮人相手に戦闘し獲得した捕虜を業者に横流しして私利を得ていた。今は深くその行いを反省し、悔いている。
・自分は帝国や軍に反旗を翻すつもりは毛頭なく、この度の暴挙は、奴隷の横流しで私利を得ていたことをリンデマンやカンターに見つかり、脅迫され、唆され、クーデターの後は政府の高官に取り立ててやると約束されたからであること。
・自分の小隊を実際に掌握していたのは部下の軍曹であり、自分はさすがに犯す罪が恐ろしくなり、投降するつもりで小隊から逃げた。
・今後も帝国や軍の方針に異議を唱えるつもりはなく、帝国に忠誠を誓うことを約束するので死刑だけは許して欲しい・・・。
この軍法会議の議事録公開の影響は小さくはなかった。
第十三軍団だけでなく、軍や帝国中に燻ぶっていた反帝国の機運は完全消滅こそしなかったが、その大部分が静まった。レオン少尉の名は彼らの中に密かに精神的支柱として浸透し始めていたが、その「支柱」が私利を貪り、責任を部下に擦り付け、無様にも命乞いするような醜い者であったことが公にされ、彼らの崇高なモチベーションに泥を塗り、冷や水を浴びせ、消滅させたのだった。
レオン少尉の最後に立ち会ったリーズルは退役し、アランもあと半年残っていた徴兵期間を免除された。
リーズルは偵察部隊の倍の俸給を約束され軍の新兵訓練所で射撃の教官の職を得た。
アランもまた高給を保証されて帝国の資源調査院の調査官に任命された。ただし、両名とも今回の反乱鎮圧に関する一件については生涯その秘密を守ることを誓約させられた。帝国における国家との誓約は重く、誓約を破ると死刑になる。
ケイン大尉と第六中隊の兵たちにもその誓約は課された。あの丘に居合わせた兵たちは他の軍団にバラバラに転属させられ、ケイン大尉もまた退役し内閣府の高級官吏となった。
アレックスだけが38連隊に残った。奴隷の身分から即時解放され野蛮人との通訳者として連隊付きの軍属の職を得た。
そして、ヤヨイは・・・。
ウリル少将は約束を守ってくれた。
あの一件の後、2か月間の行動の完全な自由を与えられたヤヨイは、一度大学の研究室に戻った。大蔵省の役人を伴っていた。
「この度、皇帝陛下の特段の思し召しにより、以前から希望のあった貴大学の申請に対し、助成金の交付を行うことになった。電波を使用した通信機の開発に必要な資金の明細を記入し、届け出るように。助成金の上限は、設けない」
突然現れたヤヨイと役人に、教授も助手もヤヨイと同じ研究室の院生たちも最初何事が起こったのかと全員が棒立ちになった。だがヤヨイが事情を説明すると、みんな一斉に血相を変えて計算を始めた。なにしろ、天井無しのカネが突然棚から転がり落ちて来たのである。無理もなかった。
「えーと、コンデンサの積層に使う、えーと、あれは、材質何だっけ・・・」
「すぐに板金屋に見積取れ!」
「この際だ。資料にあったトランジスタも試そう! 」
「でもさトランジスタってのはさ、一体何で作ればいいのかな・・・」
「ええい、面倒だ。資料に書いてあるもの全てリストアップして見積取りまくれっ!」
大蔵省の役人が残して行った助成金の申請書。その末尾には、こうあった。
「ただし、皇帝陛下の下賜金による当助成金でなされる研究については、帝国の別命あるまで部外秘とし、成果を学内学外を問わず公表することを厳禁する。同時に、その成果については陸海軍の軍機に属し、これを漏洩したる者は軍法により罰せられる」
そんな文言があった。
ひも付きのカネというのはだいたいにおいて、そんなものだ。
見積の手配で騒然とした研究室の面々を眺めながら、先生たちはちゃんと最後まで申請書を読んだのかしらと心配しつつ、ヤヨイはまだ整理できていない心の内の葛藤を宥めるのに苦労していた。
これら全てを采配したのが、他でもない、皇帝直属の特務機関の長、ウリル少将であった。
万が一、ヤヨイがレオン少尉を逮捕できず、殺害してしまった場合に備えて替え玉まで用意し、最終的に伝説が作られるのを完全に阻止したのも彼だ。
レオン少尉らの計画をワザと見逃し、弾薬まで補給させて暴発させ、死傷者は出たものの、帝国と軍全体にとってみれば最小の犠牲で大きな成果を引き出した。レオン少尉が言っていた、
「最小の労力で最大の効果を達成する」
ウリル少将はその実現に、成功した。
あの後、丘から真っすぐに討伐司令部である38連隊司令部に帰り、ずぶ濡れの泥だらけの軍服のまま報告したヤヨイを少将は労った。
「このような結果にはなったが、ヤヨイ、お前はよくやった。
お前の上げた成果はお前以外には誰にも出来ないものだ。
もう一度言う。ヤヨイ、頑張ったな。礼を言うぞ」
「でも・・・、でも・・・」
様々な思いが胸に去来し、ヤヨイは言うべき言葉を失っていた。
彼はヤヨイの汚れた手を握り、優しく諭した。
「もう後は何も考えるな。今回のことは、全て忘れろ。徴兵期間は短縮は出来んが、2か月の休暇を与える。心の洗濯をして来い。もう一度母の許へ行ってもいいし、大学に戻ってもいい。南へ行って浜辺でバカンスを楽しんでもいい。洗濯が終わったら、またわたしの許へ戻ってこい」
そうして今、ヤヨイは長湯をしていたのだった。
心の洗濯はまだ終わっていない。
突如与えられた2か月間もの休暇の残りがまだだいぶある。その間は徴兵期間が停止されず、消化される。つまり、その分実働期間が短縮されるのだ。
それはいい。
だが、何をしようか・・・。
2時間近くも風呂に浸かっていたのは、それをどのように使おうかを考えていて、ウトウトしてしまっていたから、でもあった。遠くに内閣府と元老院議事堂の建物を望みながら、どのように洗濯したらいいのかをいつまでもボンヤリと考え続けていた。
「ヤヨイ、生きているか?」
バスルームの戸口との間には、かつてシナと呼ばれた国の遺跡から出土したという絵画を模写した「屏風」が立っていた。
高い山の影に隠れようとしている月を惜しんでいる人。
そんな、詩的で禅的な風景が、淡い筆で巧みに描かれていた。
その屏風に、ヤヨイは今街中で未婚の若い女性たちの間で流行っている丈の長い、お洒落なフレアのついた桜色のテュニカと下着をひっかけていた。
声はその屏風の向こうから聞こえた。
「介添えの者がいたはずだが・・・」
「一人でゆっくり浸かりたかったので、下がってもらいました」
「そうか・・・」
声の主がバスルームの外にある椅子に腰かけたのが雰囲気で分かった。
「あまり長いので水に溶けて排水溝から流れて行ってしまったのかと不安になって来てみたのだ」
「閣下らしくない、笑えない冗談です」
こんなジョークを言うタイプだとは思わなかった。自分を気遣ってくれているのはわかったのに、それでも素直になれず、笑う気にもなれず、つい、彼に当たってしまった。ヤヨイの「心のしこり」は、たかだか2時間程度の長湯では到底流せそうもないものだったのだ。
「そうか・・・」
屏風の向こうの声は沈んだ。
礼拝の歌声は止んだ。窓からは、夕刻の帝都の遠い喧騒が聞こえ始めていた。
「まだ、怒っているのか」
「おっしゃる意味が、解りかねます」
屏風の向こうからほおーっと溜息が聞こえた。
「あのな、皇帝陛下より直々に、お前に労いのお言葉を頂いたぞ」
「・・・」
「帝国の安寧のために、よくやってくれた、ご苦労だったと伝えて欲しい、と・・・」
「そうですか。身に余る光栄です」
「・・・やはり、まだ痛手が尾を引いているのだな」
「閣下」
「なんだ」
「レオン少尉のことで不可解な点があるのですが」
「ふむ・・・」
彼は近くにいたのだろう副官か誰かに場を外すように促してから、言ってみろ、と呟いた。
もし副官だとしたら、リヨン中尉ではないだろうと思った。
あの後、ウリル少将の傍に彼の姿がなくなっていたからだ。少将に彼の消息を尋ねると、彼ははもう、他の任務に就いている、と言ったきり何も言わなかった。
「カミナリのことです」
「うむ」
「あの時、わたしもアランも猛烈な光を浴びて目を瞑りました。リーズルも眩し過ぎて何も見えなかったと。目を開けたらすでにレオン少尉の姿はありませんでした。
わたしは、どうしても納得いかなかったので、大学の物理学科の先生に尋ねたのです。
もし、人がカミナリに直撃されたとして、そのエネルギーで人体が消滅することはありますか、と」
「ふむ」
「まず、それは、機密を漏洩したことになりますか」
「仮定の話として尋ねたのなら、何ら問題はないだろう。あまり頻繁にあることではないが、たまにカミナリに撃たれて死ぬ人の話は聞くからな。
で、その先生はなんと答えたのだ」
少将が好奇心を刺激されたのが伝わって来た。
「もし人がカミナリに直撃された場合、電流が身体の表面を通る場合と身体の中を通る場合では若干の違いはあるけれど、人体が消滅してしまうなどはまず、あり得ない、と。
仮に黒焦げになったとしても、炭素の昇華温度は4000度くらいもあるから、仮に数億ボルトに達する非常に大きな電圧であっても時間がコンマ一秒もない短時間の電流でその程度の温度に加熱することは、まずあり得ないと仰いました」
「ふむ」
「次に、カミナリの落ちたすぐそばにいる人はどうなりますかと尋ねたところ、落雷した衝撃で吹きとばされるだろうね、と。ですが、先生はそのあと興味深いことを教えてくれたのです。・・・聞きたいですか?」
「ふむ。続けなさい」
「50年ほど前ですが、南の海底の学術調査中に偶然にも完全に密封された状態で千年前の科学雑誌が発見されたのだそうです。すぐに真空チェンバーに入れられて丹念に読み解かれました。雑誌は英文で書かれていましたが数々の貴重な論文を掲載していました。
そのいくつかの論文のうち最も注目すべきものは、ヤーパンにあったキョートという名前の大学が発見した現象についてのものでした。それは、落雷による反物質の生成現象を研究したものだったんです」
「反物質? 」
「マイナスの電荷をもつ電子に対する、プラスの電荷をもつ陽電子の存在、つまりそれが反物質と呼ばれる存在なのですが、わたしも大学で学んではいました」
「うう・・・、よくわからんがその、反物質とやらが彼女の身体を消滅させたというのか」
「もし、カミナリの直撃を受けた人体が消滅してしまったと仮定するなら、それは物理的に質量が失われて消滅したのではなく、別の次元に吹きとばされ飲み込まれたのではないか、と先生は仰ったのです。わたしやアラン達が受けるはずだった衝撃波も、もろともに」
「悪いが、わたしにはどうにも理解できない」
「あくまでも今思いついた仮説だが、と、先生はいくつかの数式を書きながら教えてくれました」
ヤヨイは手を湯の上に滑らせ、花びらをかき集めて湯の上に突き出た膝の上に積んでいった。
「反物質が同じ質量の常物質と出会うと、『対消滅』という巨大なエネルギーを生むのです、閣下。
もし、ここに1グラムの反物質があって、同じ量の常物質と触れ合ったとしたら、かつて旧文明が生み出した、人を月へ運んだというロケットの燃料20数機分に匹敵するエネルギーを一度に放出する大爆発が起こります」
「想像もできん話だな・・・」
「わたしもです、閣下 」
と、ヤヨイは言った。
「ロケットとは、とてつもなく巨大な、人を乗せてこの青い球の外に飛んでいけるグラナトヴェルファーの弾体のようなものだそうです。帝国が持つ最も大きな大口径の榴弾砲の威力など比べ物にならないほど大きなエネルギーを放出するものだそうです。そんな巨大なロケットなど、文献の上でしか知りません」
「で、その反物質の爆発で少尉の身体とお前を吹き飛ばすはずだった衝撃波が消えたというのだな。その、『別の次元』とやらに」
「はい」
とヤヨイは言った。
「我々の住むこの世界は、縦と横と高さを持つ3次元の世界です。そしてわたしたちは知覚できませんが、時間の流れが4次元にあたります。
もし、4次元に人がいるなら、その人は現在も過去も未来も自在に行き来できることになります。どんなに厳重な頑丈な金庫を持っていても3次元の世界の金持ちは4次元にいる泥棒から自分の大切なお金を守ることは不可能なのです。4次元の泥棒は4次元方向からひょいと手を伸ばすだけで金庫の中のお金をカンタンに盗むことが出来るのです」
「その巨大な爆発が、どうやって少尉を異次元に吹きとばすのだ。その話が本当なら、少尉やお前だけではなく、その付近にいた第六中隊やあの丘までも全て吹きとばしたはずではないか」
「おっしゃる通りです。それほどの破壊力のある大爆発。それがカギになります。
端的に言いますと、大爆発によって一瞬だけ、おそらくは百万分の一から一千万分の一秒という非常に短い時間、時空が歪んだのです、閣下。もちろん、人間には知覚できません。そこに一瞬だけ、時空に小さな歪みと裂け目ができたのです。
Gμν+Λgμν=κTμν
数式ではそう表現される現象を骨子として、右辺のエネルギーに当たる部分にE=mc^2から導き出される数値を代入すれば実際の歪みや裂け目の大きさが導き出されます。
それは、たった一発の爆発で帝都全てを消滅させ得るほどの巨大なエネルギーなのです、閣下。旧文明の我々の先祖たちは、そのような恐ろしい兵器を何十万発も持っていたと言います」
ヤヨイが花びらを積み上げていた膝を湯の中に沈めると、美しい花弁たちは再び湯面に散っていった。まるで、旧文明が持っていたという巨大な核兵器が一斉に大爆発するスローモーションのように。
「少尉とカミナリの衝撃波、そして『対消滅』によって生まれた核反応による巨大な爆発は、爆発そのものによって生まれた時空の歪みに全て飲み込まれたのです。
まるで閣下が先ほど仰った、風呂の底に一瞬だけ空いた穴にわたしの身体がストンと飲み込まれ、後には空の風呂桶だけが残る、というような具合に。そうとしか、考えられないのです」
夕焼けが、神々しくも、美しい。
赤く照らされたセナートの議場の建物もまた夕陽を浴びて映え、その荘厳さを高めていた。
平和な帝都の一日が、また終わろうとしている。これも全て前線で奮闘する幾多の無名の兵たちと、そして、ウリル少将のおかげであることは、認めざるを得ない。
「やはりダメだ。申し訳ないが、わたしにはこれ以上、わからない。 だがな、ヤヨイ・・・、」
「・・・はい」
「それをもっと簡単に表す言葉を、わたしは知っているぞ」
「なんというのですか」
「『神隠し』というのだ」
少将の声が応えた。
「その論文を書いたという大学があったと同じ、旧文明のヤーパンで使われていた、古い言葉だ。
ある日突然、人が忽然と消える。美し過ぎたり、能力が秀で過ぎていたり、あまりに純粋な心を持った者は、神に愛され、神によって隠され、天界に連れ去られてしまうのだそうだ。
きっとレオン少尉は、あまりに純粋で優秀であったが故に、神に愛され過ぎ、神に
替え玉を用意し、彼女の命ばかりか尊厳まで奪い汚したわたしなどには手の届かない、天上世界の神々の一人に連なっているのかもしれん。
失うにはあまりにも惜しい、素晴らしい軍人だった。
だが、彼女は純粋過ぎた。レオンは、神になるしかなかったのだ」
湯に浮かんだ花びらの一片を、
「・・・そうかもしれませんね」
と、ヤヨイは応えた。
野蛮人との戦闘前に緊張した兵たちの心を解きほぐそうと、猥雑な冗談で揶揄されても笑い飛ばしていた少尉のことだ。例え名誉が汚されたとしても歯牙にもかけず、
「フン。バカ者どもが下らんことを考えるものだ」
と、今頃天上界あたりで鼻で笑っているかもしれない。
大きな夕陽が中心街を挟んだ向こう側の丘に触れた。
ヤヨイにはわかった。
レオン少尉の最大の理解者。それは彼女の同志の中にではなく、彼女を警戒し、排除しようとする人達の中にいた。その人こそほかでもない、このウリル少将ではなかったか、と。
「もし今後、我々が日々を疎かにし怠惰と怠慢に陥り、帝国の未来を危うくするようなことがあれば、再び彼女の怒りの
ウリル少将が敢えて少尉の部隊へ弾薬が補給されるのを許し、リンデマンたちに連隊司令部の作戦や部隊配置への容喙を止めさせなかったのも、この事のためだったのだ、とわかった。
彼は、ウリル少将は、災い転じて福を呼び込んだ。
一人の人間もそうだが、国家も痛い目を見なければわからない、気づかないことがあるのだと。小さな怪我を負うことで、将来の大きな怪我を回避できる人や国は幸いであるかもしれない。
しかしまだ若い、一人の人間であるヤヨイには、そのために失われた命が得られた成果に見合うものであったと承服することはできなかった。そんなドラスティックな考えが出来るほど軍隊のリアリティーに染まり切れてはいなかった。
「その、新たに神々の列に加わった彼女の、第二のレオンの雷が落ちぬよう、我々はその日その日を精進しようではないか。
そこでだがな、ヤヨイ・・・」
ヤヨイは窓から射しこむ夕陽に照らされた顔を衝立の向こうに向けた。
「実は、また新たな任務があってな、休暇明けにお前に・・・」
「絶対に、イヤです!」
ザッと湯から身体を上げ、湯舟を出た。若い肌は、湯の粒を勢いよく弾き、滑り落とした。
衝立の傍にかけてあったタオルを使いながら、ヤヨイは吼えた。
「もう二度と同じようなことはしたくありません! まっぴらです!」
少なくとも今はまだ、束の間の戦友たちを裏切り、殺し、愛する男を自らの手で屠り、心から尊敬する純粋な人の死に臨んだ痛手からまだ立ち直ってもいない。今はまだ、どうしても、無理だった。
「この度の功績により、お前を三階級特進で伍長に昇進させることにした。満期除隊でなくとも、恩給が付くぞ」
「ご褒美はもう、たくさんです! わたしはもうこれ以上、人を殺したくないのです!」
「わかった。もうわかったから、そうカリカリするな。休暇が終わって、落ち着いたらまた話をするとしよう」
「終わっても、同じです! 徴兵の残りは野戦部隊を希望します! 徴兵が終わったら大学に戻ります。わたしの居場所は、そこですから!」
「やれやれ・・・」
少将が膝を叩いて席を立ったのがわかった。
「・・・ところでその、お前に異次元の話をしてくれたバカロレアの先生は何という名なのだ」
「・・・物理学科の、アインシュタイン先生です」
「そうか・・・。一度、会ってみねばな」
少将が浴室から去っていったのがサンダルの響きでわかった。
中心街から最も遠い、クィリナリスの丘にある少将の特務機関は普通の、やや広い邸宅に偽装された外観を持っていた。
門番の奴隷に扮した、機関に所属する警備の下士官に礼を言い、ヤヨイは門を開けてもらって通りに出た。風呂上がりの火照った肌に夕刻の風が心地いい。送迎の馬車を断ったのは正解だった。このまま丘のふもとまでブラブラ歩いて乗り合いの辻馬車を拾い、都心でちょっと買い物をして大学の寄宿舎に帰ろう。
海底から引き揚げられた遺物は学術や工業技術方面のものばかりではなかった。その中には旧文明の下で日々を生きていた人々の生活や娯楽に関する情報も含まれていた。当時の女性たちがそれを見てファッションを愉しんでいたことを思わせる雑誌の類もその中にあった。利に聡い服飾業者がその情報を元に女性向けの服を改良し始めたのはここ最近のことだった。ヤヨイは少将から今回の一件で休暇と共に特別賞与も貰った。その思いがけないご褒美の一部を初めて贅沢品に使った。前に街で見かけて憧れていた、桜色のテュニカ。
カーキ色の、身体にフィットした軍服仕様のでなく、腰から下がふんわりフレアになっていた。女性本来の優美さを表現し、膝までのお洒落な編み上げのサンダルと共に彼女の若さの魅力を存分に惹きだしていた。
この腰のベルトはもっと細めの、白いヤツの方がいいかもな。
そんなことを思いながらしばらく歩くと、石畳を蹄と車輪で鳴らしながら辻馬車が寄って来た。
「都心まで行きます。乗りますか」
声を掛けてくれた御者を一目見て、驚いた。
馬車のカンテラに照らされた、手綱を握る端正な彼の顔には、あの自らの手で殺めてしまった愛すべき男に瓜二つの灰色の双眸があったのだ。
ヤヨイも、ジョーもハンスもジローもウリル少将も、そして現在の帝国皇帝も。
由緒正しき家名を持つ貴族とは違い、平民の中には12人の兄弟を持つ者が少なくなかった。乳児死亡率はまだ高かったし、全ての子供が無事に成人するにはまだ医療が発達していなかったから12人全員が生存しているケースは稀だった。
だが、同じ母から生まれ幼いころは同じ屋根の下で暮らした兄や姉や弟や妹同士が、ある日道でバッタリと再会する。そんな経験を持つ者は無数にいた。
そんな時、その者らはその場で互いの居所を交換しあい、道端やカフェや料理屋で離れていた間の身の上話を始め、産みの母を想い、他の兄弟姉妹たちを思うのは帝国最大の街である帝都カプトゥ・ムンディーではごくありふれた、見慣れた光景になっていた。
「・・・乗りますか?」
彼を見つめて硬直しているヤヨイに、御者は戸惑いながらももう一度促した。
「・・・いいえ、歩きます。行ってください」
その屋根の無い乗り合い辻馬車を御する、束の間愛した男によく似た御者を、ヤヨイは見つめた。彼女にはそれしか出来なかった。
「あなたの兄弟に、ジョーという名の兄か弟がいる?」
この初対面の優し気な御者に、そんなこと、訊けようはずもない。
なだらかな丘を下る石畳の道。
手綱をピシリと鳴らし、御者は馬車を出した。
石畳は中心街に向かって下ってゆく。
人々の団欒の灯りが灯り始めた坂道をゆっくりと降りてゆく馬車の、カタカタ揺れるカンテラの灯りを、穏やかな風にブルネットを弄らせながら、ヤヨイはひとり、見送った。
了
優しい狩人 【軍神マルスの娘と呼ばれた女 1】 ~第十三軍団第七旅団第三十八連隊独立偵察大隊第二中隊レオン小隊~ 美作 桂 @mimasakakei
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