第3話 03 白いトーガの男

 プロホノフ曹長に連れられ、教室棟のアトリウムへ行った。

 帝都では、公共の施設や貴族の邸宅、下町の集合住宅の造りは、みな似ていた。

 いずれも中庭を持ち、そこを取り囲むようにして部屋が作られていた。帝都は緑が少ない。アトリウムと呼ばれる中庭には草花や木々が植えられ、噴水が作られ、ちょっとした貴族の邸宅のそこには水時計も置かれていたりした。

 新兵訓練所のアトリウムにも青々とした目に優しい緑が涼やかな水音をさせる噴水と共に設えられていた。

 そこに、二人の男性がいた。

「校長! ヴァインライヒ訓練生を連れてまいりました!」

 銀色のアザミを模した階級章のプロホノフ曹長が敬礼をしたのは金の月桂樹、大佐の階級章を付けた少し肥え気味、しかもハゲ気味の老士官だった。昨日ここに来たばかりのヤヨイは、もちろん、初めて会う。

 大佐はおざなりな答礼をし、

「ありがとう、曹長」

 と形ばかりの礼を言った。

 そして、もう一人の男性、真っ白なトーガ長衣を着たその壮年の男性に向き直り、

「閣下。この者がヴァインライヒ訓練兵であります」

 閣下・・・?

 たらー・・・。

 冷や汗が、倍増した。

 テュニカの上にトーガなどを身に着けるのは首都の元老院議員か貴族か金持ちだけだった。

 当然ヤヨイも、校長とその誰だか知らないトーガの「閣下」に不慣れな敬礼し、後は緊張のあまりテュニカの裾を握り締めて硬直しまくっていた。

 なんだかわからないが、とてつもなく、ヤバい予感がした。

「ご苦労、大佐。あとはこの者と二人にして欲しい」

 と、トーガ氏は言った。

「かしこまりました、閣下」

 校長はトーガ氏に敬礼してその場を去った。後にはヤヨイとそのトーガの男性とアトリウムの噴水の水音だけが残った。

 この訓練所の最高責任者であり、あんなに偉そうだった曹長のさらにもっと上、雲の上のような佐官の最高位の士官が敬礼を捧げるということは、将官か、それ以上の人、雲の上の更に上の人なのだろう。

 緊張のあまり、気を失いそうなほどだった。

「ヤヨイ・ヴァインライヒ、だね?」

 浅黒い肌の色。真っ白なトーガに身を包んだ、鋭利な刃物のような雰囲気を漂わせた長身の精悍な壮年の男だった。数は少ないがこの帝都にもこういう顔の人たちはいる。彼らは「南の国の民」と呼ばれているのを、ヤヨイは知っていた。

「・・・はい」

 と、ヤヨイは答えた。

「少し、歩こう。ここはいささか暑いし、今からする話は誰にも聞かれたくないのでね」

 トーガ氏は、アトリウムの真上、白い壁で四角く切り取られた、強い日差しが降り注ぐ真っ青な空を眩しそうに見上げた。

 校舎を出て、真っ白な切り石を敷き詰めた路をゆく彼に付き従い、歩いた。屋外での演習ではブーツ。体育館では裸足。それ以外は編み上げの軍用サンダルを履く。彼もトーガの下はサンダルだった。

 その彼のサンダルが、石畳の小路を外れ、校舎裏の庭園に立つ東屋に向かった。美しいグリーンと花々に囲まれた東屋には誰もいなかった。グラウンドで教練をしている訓練生の掛け声や下士官の命令の遠い声が風に乗って聞こえて来た。

「ああ、涼しいな。ここはいい風が来る。ここならゆっくり誰にも邪魔されず、誰にも聞かれずに話ができる」

 痩せぎすだががっしりした体躯。柔和な、人当たりの良いカンジの人だ。第一印象はそんな感じだな・・・。

 椅子を勧められ、でも黙って突っ立っていると、

「いいから、遠慮せずにかけたまえ」

 上級者より先に席に着くのは気が引けたが、従った。それを見届けると彼も椅子に掛け、話し始めた。

「わたしはウリルという者だ。元老院議員を務めている。だがほとんど議会に出ないので同僚議員にも顔を覚えられていないがね」

 彼は笑った。

「また、軍にも属している」

 彼は左腕に掛けたトーガの端を肩にかけ、組んだ膝の上に手を置いた。

「といっても、野戦部隊や偵察隊や騎兵隊や砲兵隊や憲兵隊ではない。皇帝陛下直属の、ある組織を預かっている、とでも言っておこう。

 ・・・キミをヤヨイと呼んでいいかね?」

 徴兵されてから上官に名前で呼ばれたことがなかったから少し戸惑った。それでも、はい、と頷いた。

「ヤヨイ。・・・キミのことは全て調べた。

 キミの母、レディー・マリコのこと。ヴァインライヒという名の父のこと。リベラル・アルテス、小学校やリセでの成績、様子。今のバカロレアでの電波についての研究のこと。かつて付き合っていた、今付き合っている友達のこと。そしてキミの私生活、すべて」

 今日初めて会った人に「お前のことは全部知っている」などと言われるのはキモいし、コワい。彼の、柔和な表情の中に次第にヒタヒタと迫りくる恐ろしさを感じてきて震えた。

「そして、『カラテ』の達人であることも」

 と、彼は言った。

「おそらく、わたしはキミ以上にキミのことを知っていると思う。

 怖くなって来ただろうね。でも、わたしはキミを脅かすためだけにわざわざ来たわけではないからね。実はわたしは、あることをキミに依頼するために来たのだ。

 依頼というよりも、これは、命令に近いものだがね」

 彼の、ウリルという「閣下」の黒い瞳が濃くなった。

「キミは徴兵されてここへ来た。訓練が終われば部隊に配属になる。そこには上官がいる。キミは上官から命令を受け、任務を果たす。それと同じだけれどね」

 瞬間、彼の目にサッと何かが走った。

 コンマ一秒に満たない、刹那。

 長い間ヤヨイの中に眠っていた何かが目覚め、考えるよりも先に、身体が反応していた。

 横に倒れるようにして椅子から身を外したヤヨイは、すぐに腰を落とし、周囲の状況を把握した。

 それまでどこにいたのか。つい一秒前まで彼女が座っていた椅子の後ろに、いつの間にか白いテュニカを着た青年が立っていた。白い肌。金髪を丁寧に撫でつけている爽やかなイケメン。胸に銀の樫の葉。中尉にあたる階級の人だと気づいた。このウリルという人の副官なのだろうか。敬礼しようとしたらウリル閣下に制された。イケメン中尉は手にトレーを持っていた。

 その杯はガラスという石で作られたものだった。たしかスブッラの高級料理店でしかお目にかかれないと聞いたことがある。透明な石でできた盃があると。庶民には高価な眼鏡や遠目でしか見たことがない皇帝専用の列車以外でガラスを見たのはこれが最初だった。

「驚かせて済まなかったね。

 いや素晴らしい! 見事な反応だ。

 喉が渇いただろう。レモネードでよかったかね? 遠慮しないで掛けて飲みたまえ」

 と彼は言った。

 いったいこの人は何者なのだろう。何を考えているのだろう。

 気を取り直して席に座り、グラスをとった。冷たくて甘酸っぱくて美味しい。夏になると、よく母の作ってくれたレモネードを飲んで庭で遊んだことを思い出す。すこし気分が和らいだ。

「彼はリヨン中尉。彼に命じていたのだ。そっとキミの後ろに近づき、殺気を送ってみろ、と。キミは見事に反応した。

 そろそろ、種明かしをしようか」

 いたずらそうに笑った彼は、給仕してくれた中尉を下がらせると、テーブル越しに身を乗り出して来た。

「わたしがキミという存在を知ったのは、実は弟からだった。キミに『カラテ』を仕込んだリセの体育教師。あれは、わたしの弟だったのだよ」

「弟・・・」

「種違いだがね」

 と、彼は言った。

「まあ、イマムからはカラテ以外にもいろいろ仕込んだことも聞いたがね」

 ウリルはまた、微笑した。得も言われぬ懐かしさに包まれつつ、一方でたまらずに顔を赤くした。

「わたしはキミと同じ、平民の出だ。わたしの母もキミのレディー・マリコと同じ、国母貴族だ。もう亡くなってだいぶになるがね。

 わたしと、キミの師匠である弟、イマムには叔父がいる。彼は元老院議員になり、7年前に皇帝選挙に立候補し元老院の推薦と承認を受けた。

 現在の皇帝陛下は、わたしの叔父なのだよ。陛下の兄にあたる人がわたしの父でね。

 そして、わたしは叔父である陛下を陰で援ける仕事をしている」

 ヤヨイはゴクリと唾を飲んだ。

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