第四章

第1話 悪魔の息子

 サイコパスは、新堂文哉だった──。


 いや、遺伝子を持つからと言って、必ずしもサイコパスになる訳ではない。

 横井の息子、横井聡も捜査会議でそう言っていたではないか。


 しかし、フランキンセンスの事もあり、西島は益々心許なくなってきた。

 いや、これも確認しなければ何とも言えないはず。

 胸が痛い。動悸が止まらない。冷たい汗が背中を流れて行った。

 そしてぐにゃりと視界が歪み、聞こえていた穏やかなBGMすら奇妙に歪む。

「ッ……」

 西島の体が、ぐらりと傾いていく。

「西島さん!」

 すんでのところで、倒れかかった西島を間宮が支えた。

「どうしたんです? 大丈夫ですか?」

「あ、いや……。なんでも……ない」

 霞んだ視界の中に、不安げに覗き込んで来る間宮が見えてきた。

「……すまん」

 西島は軽く手を上げると、大丈夫だと合図を送る。間宮がほっと息をつくのが聞こえた。

 介護士も施設の看護師を呼ぼうかと申し入れてくれたが、西島はそれも丁寧に断ると、横井に向き直った。

「失礼いたしました。横井先生。続けて下さい」

「大丈夫かね?」

「はい」

「それじゃあ……。ここじゃなんだから、私の居室に来たまえ。資料を見せよう。井川さん?」

 横井は介護士に声を掛けると、西島と間宮を自室へと案内した。

 中庭を望める、ガラス張りの渡り廊下を通って居住棟へと移動する。

 西島は、殺風景な病室のような部屋を想像していたが、横井の居室は特別室らしく、寝室の他にリビングがあると言う。

 しかし、室内に入ると、そこはリビングと言うよりも書斎だった。所狭しと大きな書棚が置かれ、テーブルの上にも幾つもの本が積み重ねて置かれている。

 室内は清潔だが、埃っぽいような、古い本独特の臭いが漂い、それに混じって僅かに尿臭と消毒の臭いがした。

「薄暗くてすまんね。カーテンをしておかないと、本が日焼けする。ああ、その辺にイスがある。適当に座ってくれ」

 部屋の隅にある、二人掛けのソファー。横井はそれを勧めると、ちょっと待ってくれと、自ら車椅子操作して寝室へと向かった。

 車椅子にはスティックのようなものがついており、それを操作すれば、自走が可能な電動式でもあるらしい。

 軽いモーター音を響かせ、器用に床置きされた本の山を避けながら横井は寝室へと消えた。


 西島たちは、改めて室内を見回した。

 確かに書棚やカーテンのせいで窓からの採光が望めず、部屋の中は横井の言う通り少々薄暗かったが、おかげで室内は涼しい。

「西島さん、座った方がいいですよ」

 間宮に促され、大人しくソファーに腰を下ろす。多少治まったとはいえ、動悸はいまだ続いている。

 そんな中、腰を下ろしたクッションの利いていない座面は、息子の聡の豪奢なソファーと雲泥の差だが、西島は余程心地いいと思った。

 間宮はというと、ソファーに座らず、寝室から聞こえるカサゴソと言う音を気にしながら、落ち着きなく室内をウロウロとしている。

 彼はずっと、いつか自分がサイコパスになるのではないかと不安を抱えて生きてきたのだろう。

 それも今日限りかもしれないと言う期待で、じっとしていられないのだ。

 すると、寝室からモーター音が聞こえた。

「お待たせしたね」

 そう言いながら、横井が膝にいくつかのファイルを乗せてこちらへと移動してくる。

 その横井の車椅子が止まり、ロックがかかるや否や、待ちきれなくなった間宮は結論を強請った。

「あの!」

 横井にかける間宮の声が上擦った。

「先生、本当に遺伝子を持つのは……」

「ああ、うん。新堂の息子だ」

 はぁっと言う吐息と共に、間宮はどさりと西島の横に腰を下ろし、項垂れた。

 小さく、呟くような声で「良かった」と聞こえる。

 人を虐めたくなるような気持ちは誰しも経験がある。しかし、彼にとってはそれすらもサイコパスへの不安に繋がったのかもしれない。

 西島はそっと間宮の背に触れ、さすった。

「何故結果がテレコになってしまったのかは分からんが、覚えとる。君からは検出されんかったよ」

 そう言いながら、横井は一冊のファイルを広げた。

「これは君の結果だが……。ほら、これからサイコパス遺伝子は認められん」

 西島は正直なところ、見せられた資料からは何も読み取ることが出来なかったが、横井は断言した。

「とにかく、サイコパス遺伝子は間宮さんではなく、新堂さんの息子さんに認められたと。そういう事ですね?」

 横井は西島の問いに強く頷いたが、「──と言っても、少々複雑でね」と言葉を継いだ。

「複雑……と言いますと?」

「そもそもこの検査は、新堂からの依頼だった」

 そう言うと、横井は三五年前の経緯を話し始めた。


 *   *   *

 

 三五年前──。


 当時、横井はレコード収集と視聴を趣味としており、レコードショップに足繫く通っているうちに友人も出来た。

 それが間宮廉の父、外科医の間宮義治と、中目黒の教会の神父・新堂文哉の父、新堂雅哉である。

 二人は、横井の五歳年下だったが、共通の趣味のおかげで話が合い、いつしか週末になると集まり、レコードショップの隣にある喫茶店で、レコードや家族の話など、他愛もない話をする仲になっていた。

 そんなある日、横井は新堂から話したい事があると、いつもの喫茶店に呼び出された。

 普段は穏やかに横井や間宮の話を聞いていることが多い新堂だったが、その日はいつもと違った。

「どうした、雅哉。話があったんだろう?」

 なかなか話し始めない新堂を促すと、新堂は意を決したように顔を上げ言った。

「横井さん、以前、サイコパス遺伝子の話をしてくれましたよね?」

「ああ……。それがどうかしたのか?」

 静かな店内で聞こえるのは、ジャズと、コーヒーカップとソーサーがぶつかる音だけだ。

 新堂は、周囲を見渡すと声を落とした。

「実はその、僕の妻の事なのですが──」

 新堂は二か月ほど前に、結婚をしたばかりの新婚で、現在その妻は臨月を迎え、破裂しそうなほど大きな腹を抱えている。

 昨年結婚をした間宮の妻と出産予定日がほぼ同じだが、その差は歴然としていた。

 しかし、その妻とサイコパス遺伝子に一体何の関係があるのだろうか。

 横井は一抹の不安を感じつつも、新堂の言葉を待った。

「その……」

 新堂は何度もためらい、言葉を詰まらせ、そしてようやく言った。

「妻のお腹の子は──、僕の……子、ではありません」

 その告白は掠れた小さな声だったが、横井の胸を大きく抉った。

「まさか──」

 横井が何を言いたいのか察した新堂は、違うんですと首を振ると続けた。

「彼女が不貞を働いたとか、そういう事ではありません! そもそも僕は、それを知っていて彼女と結婚したのです」

 押し殺しながらも強い新堂の言葉。

 しかし、テーブルの上で視線を彷徨わせながら小さく息をつく。

「前に、横井さんから聞いたサイコパス遺伝子の話はとても興味深かった。でも、私は次第に恐ろしくなったのです」

 そこまで言うと、新堂は水の入ったグラスを煽った。そして喉を湿らせると、絞り出すように言った。

「妻は……。ある事件の被害者です。その時に彼女は──」

 ガチャンとカウンターの中で派手にグラスが割れる音がした。店員がグラスを落としたようだ。

 店中の客がそこへ視線を向けるも、現実世界から切り離されている横井と新堂の耳には届かない。

「なんという事だ……。しかし……」

 横井は、あまりの事に何故堕胎しなかったのかと聞いた。

 新堂はカトリック教会の神父だ。その為堕胎について否定的なのかもしれないが、事が事だけに、聞かずにはいられなかったのだ。

「彼女は、高知県から出て来て一人暮らしをしていました。

 引っ込み思案で、どちらかというとコミュニケーションを取ることが苦手な女性です。

 そのため、誰も頼れず、事件後は鬱状態で引き籠ってしまい、気付けは胎動が始まっていたと言います。

 しかし胎動が始まった事で恐怖は限界に達し、助けを求めて私の教会に駆け込んで来たのです」

 そして二人は急速に距離を縮め、夫婦となった。

「自分と血が繋がっていなくとも、彼女の子です。愛せる自信はある。でも──」

「私の話を聞くうちに、腹の中の赤ん坊がサイコパスなのではないかと不安になったのだな」

 新堂は頷いた。

「私と結婚して以来、妻の精神状態は安定しました。しかし、最近になって時々うなされるのです。悪魔の子がいると」

 横井は唸った。検査をしてその遺伝子の有無を見極めることは、今の横井には容易いことだ。

 だが──。

「雅哉。遺伝子が見つかったらどうするつもりだ」

「まだ……分かりません。でも必ずしもサイコパスになるとは限らないのでしょう? だったら助けられるかもしれない!

 横井さん、お願いします。妻と、子供たちのために!」

 横井は黙って頷くと、真っ白になった友人の手を握り、この心優しい男が救われるよう祈った。


 *   *   *


「あの、すみません」

 介護士が、申し訳なさげに西島へ声を掛けた。

「横井さんに疲れが見えてきているように見受けられます。続きはまた今度でも宜しいでしょうか」

 夢中になって気が付かなかったが、横井の胸は確かに小刻みに上下しており、僅かに喘鳴も確認できた。

「申し訳ない。横井さん、大丈夫ですか?」

「失礼します。先生、息苦しさはありませんか?」

 間宮が脈を取りながら聞く。横井は小さく首を振ったが、間宮は介護士に視線を移すと、看護師を呼ぶように言った。

「看護師さんに、肺音と、血圧とサチュレーションのチェックをして貰ってください。ひょっとしたら酸素が必要かもしれません」

「かしこまりました」

 介護士はナースコールボタンを押し、廊下へ飛び出した。

「そうか……。義治の息子も、医者に、なったのだな……」

 そう言うと、横井は嬉しそうに微笑んで、痩せて薄っぺらくなった手を伸ばし、間宮はそっとその手を握った。

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