第42話
「旦那様は?」
「なんだかお産の近い馬がいるらしくて、様子を見に行ったの。馬丁に任せておけば良いのでは?と言ったのだけど、レナード様ったら『仔馬の頃から目をかけてきた馬だから』って。お優しい方だから」
バーバラに尋ねられ、私はそう答えてクスクスと笑った。
私の笑顔を見て、バーバラが目を細める。
「バーバラ?どうかした?」
「いえ……何だか嬉しくなってしまって」
「嬉しい?」
「お名前を言うのも憚られますが……ハロルド様との婚約が無くなった時は……見ていられませんでした」
「……バーバラ……」
「良かったですね……レナード様に出逢えて」
バーバラはそう言うと泣きそうな顔をした。
私はそんなバーバラに抱きついた。
「バーバラ。貴女が居てくれたお陰で、私の心は必要以上に沈まずに済んだの。本当にありがとう」
子どもの頃から、バーバラだけには素直な自分を見せる事が出来た。バーバラは出来ない私を認めてくれていたから。
バーバラは抱きついた私の頭を優しく撫でた。それは子どもの頃、不器用で色んな事が要領よく出来なかった私が泣きついた時に、彼女がいつもしてくれていた事だった。そしてそんな私にバーバラは『大丈夫。いつか出来る様になりますよ』と慰めてくれた。
「エリン様……もうこのお役目はレナード様に譲ったものだと思っておりましたが、たまにはこうして甘えていただくのも良いものですね」
と言いながらバーバラは何度も何度も私の頭を撫でた。
夫婦の寝室に行く前に、ふと窓の外を無意識に眺めると、驚く光景が目に飛び込んできた。
「ナタリー……?どうして?」
そこには、レナード様の腕に絡みつく様にまとわりついて歩くナタリーとレナード様が居た。
私は思わず、窓から離れる様に身を隠した。
いや……私が隠れるのもおかしな話なのだが……胸がバクバクしている……まさか……レナード様も?
いや!そんな筈はない。レナード様に限ってそんな……。信じたい気持ちが心の大部分を占めているくせに、ほんの少しの黒いシミが水に落としたインクの様にじわじわと広がっていくのを感じる。
二人の顔はこちらからは暗くて見えなかった。私は自分の馬鹿な考えを振り払う様に、強く頭を振った。
ハロルドの家の庭で見たあの光景を思い出す。そんな嫌な思い出が何故か今、鮮明に思い出されて胸があの時と同じ様に苦しくなる。
大丈夫、大丈夫……そう自分に言い聞かせる度に、どんどんと息が苦しくなっていった。
私は窓際にズルズルとへたり込んだ。
レナード様に限ってそんな事あるわけないと思う気持ちはあるのだが、足に力が入らない。
すると、大きな足音と共にレナード様がなだれ込んで来た。
「エリン!!誤解だ!!」
「ヒッ!……レナード様?」
その勢いに私は驚いて変な声が出てしまった。
……というか、瞬間移動?
先ほどまで外を歩いていたレナード様が何故、此処にいるのだろう?
此処は二階。もしや、レナード様は空でも飛べるのだろうか?
窓の下にしゃがみ込んだ私に目線を合わせる様にレナード様もしゃがみ込む……が、私が見上げなければ視線は合わない。
レナード様、改めて大きいわ……とこんな時に違う事を考えて無意識に現実逃避をしているようだ。
「エリン、よく聞いてくれ。さっき君が見た光景は君が考えている様なものではない!」
「私が考えていること……」
レナード様を信じきれない心を読まれてしまった様で、私は居た堪れなくなった。
「君の妹がこっそりと逃げ出そうとしていたのを、俺が厩舎からの帰りに見つけたんだ。それで引き止めて屋敷に連れて帰っていただけだ」
「……あんなにくっついて……ですか?」
抑えきれない気持ちが、つい口に出てしまう。
「違う!!それはあの女が!!」
『あの女』と言った事を不味いと思ったのか、それともその後に続く言葉を言いたくないのか……レナード様はハッとした表情で自分の口を手で塞いだ。
「何が違うのです?」
「す、すまん」
「謝らなければならない事なのですか?」
「違う!!あ~もう!さっきから俺は『違う』しか言ってないな。……エリン……君の妹の事を……その、悪く言ってしまう事になるが良いか?」
レナード様は自分の額に手を当てたかと思うと、また私に視線を移して、恐る恐る尋ねた。
「真実をお話いただけるなら」
「その……言い難いのだが、ナタリー嬢は、『本来なら自分が貴方に嫁ぐはずだったのに』と。そして、その……『こんな魅力的な人だと思わなかった。今からでも遅くないから、自分をハロルドから奪ってくれないか』と言われて……腕を取られたのだ。俺は直ぐに振り払った。だが、その一瞬を君に見られて……」
レナード様の顔は本当に焦っている様だった。額に汗もかいている。
瞬間移動かと思う程の早さで此処に走って来てくれたのだろう。そう思うと、心が少しずつ解れていく。
私はレナード様の額の汗をゆっくりと手を伸ばしてそっと拭った。
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