第36話
「ハンカチ?あぁ、あれか。あんな物で良ければ君にいくらでもやる」
「いくらでも……と言われましても。あんな見事な刺繍のハンカチ……とても高価な物だと思われますのに」
「ん?別に高くはない。普通のハンカチに刺繍しているだけだ」
「ですから。ハンカチは生地もさることながら、刺繍の良し悪しで値段か変わるものですので」
「では、好きなハンカチを買ってくれば良い。それに君が好む刺繍をしてやろう」
「………………はい?」
「聞こえなかったか?あの刺繍が気に入ったのなら、いくらでも……」
「いや、いや。私が尋ねたいのはそこではなくて……『刺繍をしてやろう』と言いましたか?」
「言ったが?それが何か?」
「刺繍を……誰が刺すのです?」
「俺だが?」
「俺……とは?」
「俺だろ?」
「……………」
一瞬の沈黙が流れた後、
「えぇ??!!もしや、あの刺繍はレナード様が?」
「さっきからそうだと言っている」
「あの細かな刺繍を?レナード様が?」
「あぁ。単なる趣味だ。集中力を高めるのにも役に立つ」
「そ……そうでしたか……」
私は驚き過ぎて口をポカンと開けたまま、何も言えなくなってしまった。……あれを……レナード様が……意外過ぎて未だに飲み込めない。
「どうした?そんなに目を見開いて……乾くぞ?」
そう声をかけられ、私は慌てて口を閉じて、やっと瞬きを一つした。
するとレナード様は少し微笑んで、
「意外か?」
と訊いた。その笑顔がとても優しくて思わず胸がドキドキする。
「……申し訳ありません」
「何故謝る」
とまたレナード様は微笑んだ。
「いえ……。私こそ人を見た目だけで判断していたのだと気付かされました。自分はそんな風に判断され、妹と比べられる事を嫌がっていたのに、随分と私は身勝手なのだと思って……」
「為人を知る前は、その人を判断する材料が少ないのだから仕方ないだろ?俺だってこの見た目で必要以上に怖がられてきた。ただ、大切なのはその先だ」
「その先……」
「見た目だけで判断し、その人の本質を見ようとしない者との付き合いなど、それぐらい……つまり表面上の付き合いで良いという事だ」
「……確かにそうかも知れません。私もそうやって見た目だけで判断していた一人だったのかと思うと……」
私の努力より、私の地味さや真面目さだけを見て私を切り捨てたハロルドを思い出す。私だけが彼に心を砕いたところで、結局お互いが同じ様にその人を知る努力をしなければならないのだ。そんなハロルドと自分が同じだと思うと、今までの自分の行いを恥ずかしく思ってしまう。
「エリンが?君はちゃんと俺を知ろうとしてくれたじゃないか。『仲良くなりたい』と手紙に書いたのは君の本心だろう?」
「もちろんです。でも……」
「俺が刺繍を好む事なんて、そんな話題が出ない限り知る事は出来ない。気にするな」
レナード様はまだ刺しかけのハンカチを見て、
「狼か。うちの家紋だ」
と口にした。
「はい。ですが、狼を本の上でしか知りませんので、昔見た挿絵の毛色を思い出しながら刺しているのですが、なかなか……」
私がそう言うと、
「ふむ。……そろそろ良いだろう。明日、良い所へ連れて行ってやろう」
とレナード様はまた優しげに微笑んだ。
翌日、ハリソン様は朝食で
「実は肉を食べると体調が悪くなるんだ。僕の食事はなるべく魚を中心にして貰えるとありがたい」
とそう給仕に告げていた。給仕を始めとした使用人が
「そうとは知らず、今まで申し訳ありません」
と謝るのをハリソン様は制した。
「謝る必要はない。僕が今まで言わなかっただけだ」
「でも……」
「いいんだ。これからそうして貰いたい、ただそれだけなんだから」
そのやり取りの後、ハリソン様は私に向かって微笑んだ。そして辺境伯にも
「今日の見合い相手について教えていただけますか?」
と尋ねていたので、お見合いから逃げる事も止めたという事だろう。私はその様子に嬉しくなってニヤけてしまったが、横からのレナード様の視線に気づいて、黙々と朝食を取ることに集中した。
「さて……出掛けるか」
朝食後の鍛錬を終え、騎士団での午前中の仕事を終えたレナード様が私に声を掛けた。
「どちらへ?」
そんな私の問いにレナード様は口角を上げるだけで答えてくれない。
「内緒だ。だが、随分とここら辺は肌寒くなってきた。上着を忘れるな」
そう言われた私に、バーバラは薄手の上着を差し出してくれた。
「ショールも一応お持ちください」
レナード様と出掛ける時は二人きりなので、バーバラは少し心配そうに私にショールを手渡した。
外に出ると、
「そうだ。出掛ける前に見せたいものがある」
とレナード様に連れられてやって来たのはレナード様の馬が居る厩舎だった。
「厩舎……」
呟いた私にレナード様は
「少し目を瞑って」
そう言うと私の手を引き慎重に私を誘導する。
「どちらへ?」
数十歩歩いた所でレナード様が立ち止まり、私に声を掛けた。
「目を開けて良いぞ」
そこには明るい栗色の毛並みの馬が居た。とても美しくて私は思わず
「綺麗な馬……」
と言葉を漏らした。
「エリン、君の馬だ」
「私の……?」
「そうだ。こいつは大人しくて我慢強い。初心者のエリンにはうってつけだろう。だが、馬とも相性はある。今度、乗ってみよう」
「……触っても?」
「視界に入る様に正面から。手は目線より上に上げない様にして、最初は匂いを嗅がせてやろう」
私はレナード様に言われた通り、ゆっくりと近づくと鼻のそばに手の甲をそっと差し出した。レナード様が
「俺の奥さんだ。仲良くするんだぞ」
とその馬に話しかけた。
「名前は?」
「エリンが付けても良い」
「でも、ずっと呼ばれていた名がこの子にはあるのですよね」
「……ユラだ。低めの声で呼びかけると良い」
名前を聞いた私はその子に向かって優しく名を呼んだ。
ユラは私の手の匂いを嗅ぐと、私の手の甲に鼻を擦り付ける。
「フフッ。くすぐったい」
「手のひら全体で撫でてみろ」
私はユラの鼻の辺りをゆっくりと優しく撫でた。
「温かい」
「馬は社交性があって、頭が良い。人の顔も覚える事が出来る。なるべく顔を見せてやると良い」
「毎日会いに来ても?」
「……もちろん良いが、俺より夢中になるなよ」
そんな事を言うレナード様が可愛らしくて仕方ない。
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