第2話 青空はやはり夏場にこそ真価を発揮する芸術である


「おーい……おーい! 起きろ、宮村! お前からやろうつったくせにぼけっとしてんじゃねぇよ!」


「あー……? ああ、悪い。ちょっと昨日、あんまり眠れなかったんだ。あと俺は誘ってない。お前がそう言う口実を作っただけだ」


 友人野郎こと水池清水みずいけしみずの大声はいつも大仰で威圧的だ。そして何よりもうるさい。よって、寝覚めの悪いことこの上なく、この男の目覚まし声によって、ぼんやりと虚ろに空を見上げていただけだった俺の意識は覚醒を強制された。


 現在時刻午前十一時。夏場真っ盛りとしか思えない拷問の如き快晴を誇る六月後半の中庭の一幕。校舎の壁にもたれながら見上げた空は、物語が始まるにはぴったりな、見ているだけで心が洗われるような空だ。けれども、そんな清々しさを全身で堪能していたところ(或いは眠っていたとも言う)を、俺の隣の地面に座る友人野郎は邪魔してきた。いったい何の用だというのだろうか。いやはや、碌な用ではないんだろうけれども。


「そりゃよくないことだな? だが、友達を騙すのはもっと良くないことだとは思わないか宮村大河よ」


 そう言う水池は、似合っているとでも思っているのか、前髪をかき上げるようなしぐさをする。けれども、彼の髪は長いという理由から教師に後ろでまとめろと指摘されたばかりである。かきあげられるほどの前髪は、髪留めという拘束具によってポニーテールのように縛られいて、かき上げるまでもなく後頭部に行ってしまっている。それでも彼は、それがかっこいいと思っているのか、これ見よがしに前髪をかき上げて言う。


「忘れるなよ、宮村。俺たちは一心同体だ」


 なんとも寒気のするセリフだ、と“僕”は思った。

 なのでこの悪友に一矢報いようと、“僕”は喋る。


「んじゃま忘れないついでに教えてくれよ。日本国憲法上、俺たちのやってる行為の違法性について」


「違法性? はんっ、俺たちは男のロマンを求める探検家だ! 探検家の歩みをいったいどこの誰が止められるって言うんだよ。気分はまさに新大陸を開拓するコロンブスだな! それともなんだ? お前は自分で言い出したこと一つもできない、男とも呼べないような女々しい奴なのかよ」


「女々しくて結構だよ。けど、こんなところじゃ女々しいなんて言われる前に、男として殺されるような気がするんだけど?」


「それこそ本望だね。俺は男として死を選ぶ!」


 あほだこいつ、と“僕”は思った。コロンブスとは、何とも皮肉の利いたチョイスだなとも。

 けれど、このままでは俺も巻き込まれてしまうことは必至。というのも、だ。


「見ろ、宮村! 俺たちのパライソは既に薄いカーテン一枚を隔てた先にまで迫っているのだぞ!」


 今俺たちが居るのは、一階女子更衣室裏手の窓際なのだから。

 事の次第を説明すれば、すべてはこの男水池の策略によって俺が嵌められたところから始まる。


 一般的な私立校である一扇ひおうぎ高校に通う高校一年生に過ぎない俺たちは、もちろん日々を学業に励む学生だ。けれども、この友人野郎は真面目とは対極にある存在。なので、適当な言い訳をして体育の授業をバックレた。……俺を巻き込んで。


 ちなみに俺はだしに使われた。

『先生! ちょっと宮村の奴が体調悪そうなんすよ! ほら、宮村体調悪いよな!』

『悪い悪いすっごい悪い。だから手を放してくれ水池。お前の暑苦しさで吐きそうだ』

『ってことでちょっとこいつを保健室まで連れてきますわ!』


 こうして完全犯罪は相成った。まあ、完全犯罪というには少々水池の信用が足りていなかったため、おそらく後から追及されることだろうけど。


 というか、こんな悪友のせいで俺の評価も徐々に下がっていることが何よりも解せない。俺は何もしてないというのに……。


 そして今回も、俺は何もしてないというのに、女子更衣室の窓辺に待機させられている。女子はちょうど、水泳の授業が終わったところか。


 水泳の授業が終わったとなれば、当然更衣室へと直行する。そして更衣室は第一部室棟の一階だ。なので、中を覗くことができる窓は部活棟の外から確認できる。どうして二階にしなかったのか。二階ならニンジャでもなければ覗きに行くことができないというのに。


 そんなどこぞの誰かの手抜きによって、ニンジャでもない水池でも女子更衣室の窓際に張り付くことができてしまっているじゃないか。


 いや、一応覗きの対策なのか窓の位置はそこそこ高いところにあるのだが、よりにもよってこの友人野郎は身長190を超える大男である。一般人ならば足場が必要な高さだろうと、背伸びもせずに届いてしまう。


 そんなわけで、これは完全なる覗きである。それ以上もそれ以下もない。いや、こんなことをしている時点で人間以下だ。ヒエラルキーの最下層。ここより下は存在しない。なので、そんな場所に落っこちない為にも、再三の警告を俺は唱える。


「考え直せ水池」


「はぁ!? 往生際が悪いぜ宮村!」


「大声を出すな気づかれる。やましいことは何もないが、気づかれたら大いに困る。なんで困るかわかるか水池?」


 少なくとも俺、やましいことなどしていない。だからこそ黙っていてほしいのだけれど、この男にそんな懇願など通用するわけがなかった。


「あ、もしかしてお前、好きな女子が居るんだな? そりゃ難儀だな。難儀というか大儀だな。覗きたいってのに覗いたら覗いたで罪悪感を感じちまう。難儀難儀、難儀が過ぎるぜ」


「違う」


 俺が言いたいのは、ここで女子や通りすがりの誰それに気づかれたら、俺たちの経歴に消すことのできない覗き魔というレッテルが貼られてしまう懸念についてなのだが。


 それをこいつはどう勘違いしたのか、よりにもよって一番最悪な勘違いをしやがった。


 なので“僕”は、言葉を重ねて繰り返す。


「俺には好きな女子なんていない。決して、金輪際、一片たりとも存在することはない」


「はいはい。わかったわかったそうですねー」


 なんだか受け流されてしまったような気がするけど、別にそれで構わない。俺も、この話題をあまり掘り返したくないから。


 なにはともあれ覗きだ。俺はやらないほうがいいと言っているのに、こいつはちらちらと窓際からカーテンの隙間を伺い続けている。愚かにも罪を重ねようとしている。


 まあ、ここでこいつを置いて逃げ出さない時点で、俺も十分愚かなのかもしれないけどさ。いや、これも逃げ出すという選択から逃げ出しているだけなのかもしれない。結局のところ、流されるままというのが正しい結論なのだろう。


 ことなかれことなかれ。そんな言葉も、覗きをしていることがバレたら言えなくなるんだろうな。


 さてどうしようか。現在この友人野郎を説き伏せる手立てをない俺は、このままこいつが満足するまで離れる気になれない。というか、この場から逃げ出した瞬間に、あいつは自慢の大声を上げて、俺を覗き魔だと通報することだろう。


 そして見事を俺だけが覗き魔の誹りを受けてゲームオーバー。灰色の学園生活を送ること間違いなしだ。つくづく、どうしてこんな友人野郎と関係を作ってしまったのか。入学した時の俺を恨みたくなる。


 もっと恨むことがあるだろうと“僕”が囁くが、俺はその言葉を聞き流した。


「お、おぉ……ぉぉおぉ!」


「うるさいぞ水池」


「黙ってろって! 今いい所なんだよ!」


 すべてを諦めて俺が一人で視線を窓から逸らして座っていれば、隣から興奮気味な水池の気色の悪い声が聞こえてくる。しかも常に声の大きい奴のことだ。無意識にその興奮を声にして出力しているのだ。そんなことをしていると――


「キャァアアアアアアアアア!!!」


 ほらバレた。


「うわっ、やべぇバレた! 逃げるぞ宮村!」


「逃げるぐらいなら最初からやるな水池。あと俺は運動が苦手なんだが……」


「知るか! 遅れるんなら置いてっからな!」


 俺たちは一心同体という言葉はどこに行ったのだろうか。それにしても、舌の根の乾かぬ内に俺を置いて逃げ出した水池の足の速いこ速いこと。あいつ、あれでめんどくさいとかそう言う理由で体育の授業をサボっているのだから、本当に世の中は不公平だと思う。あれだけ走れるのならば、水池よりも幾ばくかは体育の授業にやる気を出していた俺に、その運動神経を少しでも分けてほしいものだ。


 何はともあれ俺も逃げ出さなければならない。こんなところで右往左往していれば、覗き魔の濡れ衣を着させられてしまうこと間違いないから。


 だなんて、思ったけれども。


「あ、やべっ」


 やはり俺は運動音痴で運が悪い。立ち上がって走り出そうとして、ちょうど解けた靴ひもを踏んですっころぶぐらいには、なんてことはない出来損ないだ。


 不幸中の幸いはこんな運動神経皆無な俺が居ないことで、むしろ体育の授業が滞りなく進行していることか。この目で確認していない為、本当に滞って居ないかはわからないけれど、今日の授業はサッカーだったこともあって、俺が足を引っ張っていたことは想像に難くない。実際、ここで俺は自分自身の足を引っ張っているわけだし、今までの人生を振り返ったところで引っ張り続けた記憶しかないわけだから。


 そんな風に過去を回想してしまうのは、やはり僕が転んだからだろう。普通にコンクリートの地面に顔からダイブしたし、こんなところでコケてしまえば逃げられるものも逃げられない。なので今の回想はいわゆる走馬灯だ。社会的な死を間近にした走馬灯である。


「こ、こらー! 覗きはダメだよ!!」


 ほら、すぐに追手の女子が来た。悪しき覗き魔を断罪する正義の使者の登場だ。次の瞬間には俺の身柄は斬首台にのせられていることだろう。その時は是非とも水池の下に化けて出てやる覚悟だ。


 しかしタダでやられる俺ではない。やるならやる。徹底抗戦の構えだ。さあかかってこい断罪者よ! 正義はお前にある!


「……って、あれ? え、もしかして……タイちゃん?」


「あん?」


 と、ここで予想外の出来事が起きた。どうやら覗き魔を咎めに来た人間は、何やら俺を知っているのか、愛称で俺のことを呼んだのだ。

 はて、そんな風に俺のことを呼ぶ人間は一人しかいない。そう思って顔を上げてみれば、案の定そう呼ぶ一人がそこにいた。


 風狸ふうり伊草いぐさ。幼稚園来の幼馴染である。


「あ、え、えっと……」


 先ほどの勢いはどこへやら。俺の顔を見たとたんにおどおどとし始めた彼女は、しぼんだ風船のように、あるいは小動物のように肩を丸めて委縮してしまった。


 そんな彼女の様子を体を起こしながら眺めていれば、着替えを終えたのであろう女子たちが続々と覗き魔を断罪しにやってくる様子が見えた。


「久しぶりだなイグサ。しかし、俺は今しがた通りすがったばかりなのだ。それではさらば」


「あ、え?」


 三十六計逃げるに如かず。いや、やましいことはない。少なくとも俺にはやましいことは何もないはずなのだ。しかし、あんな奴のせいで覗き魔の濡れ衣を着せられることだけは絶対に阻止しなければならないのだ!


 そんなわけで逃走したのだけれど。


「あ、ちょ、待っ……へぶっ!?」


「むっ」


 俺を追いかけようとしたイグサが転んだ。なんてどんくさい奴だ、と“僕”は思った。……まあ、人のことは言えないかもしれないが。


「ひぃ……ひぐっ……うぅ……」


 転んで土塗れになった彼女は、膝をすりむいてしまったのか涙目になってしまった。そんな様子も、やはり小動物のように弱々しい。見ていられない。


「おい、大丈夫かよ」


「た、たいちゃん……」


 なので俺は、逃げることも忘れてイグサに駆け寄った。そのタイミングで、女子たちの増援がこちらへと到着したものの、なにやら距離を取ってこちらのことを見ている。これは……覗き魔の濡れ衣を着せられずに済みそうか?


「ったく、高校生になってもどんくさいのは変わってねぇな」


 いや、それよりもイグサだ。転んだ彼女を起き上がらせつつ、ついた土を払いながら声をかける。すると、今までに何度も聞いたような、申し訳なさそうにしょぼくれた声が返ってきた。


「そ、そうだよね、私ってどんくさいから……ごめんなさい……」


「……と、悪い。今日は絆創膏の持ち合わせがないんだ」


「こ、転んだ私が悪いから大丈夫……うん、大丈夫だよ。こんぐらいならへっちゃらだから!」


 風狸伊草はどんくさい。


 これは、俺たちが初めて出会った時から変わらない一つの常識である。いや、常識だなんて文字で表現していいのかはわからないけれど、常識になってしまうぐらいには、イグサはどんくさい。


 なんたって、俺とイグサが初めてお互いのことを認識した幼稚園年長での出来事は、転んだ彼女が俺の方にロケットよろしく突撃したところから始まるのだから。理由は足元の蟻を踏みそうになったからだったか。だからと言って、それを避けようとした結果、俺の方に頭から突進してくるのはどうかと思う。


 そうしたイグサのドジは小学校、中学校と時代を経ても変わらない。窓から落ちてラピュタよろしく空から落ちてきたこともあれば、体育倉庫で片づけをしてる最中に跳び箱の中に入って出られなくなったこともあったはず。


 まったくもってどんくさい思い出ばかりだと、“僕”は思った。


 さて、そんな風にイグサに気を取られていたら、女子らの増援が到着してしまった。鬼気迫る表情の彼女らを前にして、俺の学園生活は瀕死寸前。気分はまるで断頭台に上ったようだ。さようなら。俺の青春――


「いーちん! そいつが覗き魔?」


 女子たちの中から、気が強そうな子が一人前に出てきた。彼女がイグサへと訊く。俺が覗き魔か、と。


 というか、いーちんってもしかしてイグサのことか? イグサの頭文字だけでいーちん。うぅむ、女子のあだ名というものは実に理解しがたいな。


「え、そ、そんなわけ……ないよね、タイちゃん?」


「してないしてない」


 女子の詰問に答えたイグサであるけれど、彼女もどちらかといえば問う側の人間であるために、ちらりと恐る恐るこちらを見た。もちろん俺は、その視線に全力で首を横に振って否定した。


「そもそも俺が覗きなんてすると思うかイグサ。そもそも高さが足りない。俺の身長じゃ、そこの窓を見るにゃ不十分だろ」


「確かに……う、うんそうだよね。タイちゃんに限ってそんなことしないよね……」


 よぉし、誤魔化し成功! これでイグサは完ぺきに騙せた! まあまだ、他の女子たちは俺のことを訝しげに見ているけれど。


「まあ、いーちんがそういうなら……」


 と、言った風に納得していた。

 どうやら想像以上に、イグサという人物の信用は大きいようだ。


「なあ、俺には何が起きているのかは知らないが」


 心苦しくはあるけれど、その信用をうまいこと利用させてもらおうか。


「さっきここにそこの窓にちょうど頭が届きそうな大男が居て、悲鳴を聞いたとたんに逃げ出したんだが……」


「どっちにいった!?」


 それとなく不審者の情報を出してみれば、女子たちが勢いよく食いついてきた。なので、俺は水池が逃げていった方を指さす。


「あっち」


「行くわよみんな!!」


 同時に、女子たちは箒やら何やらを手にもって、白昼堂々と行われた覗きの制裁へと走り出すのだった。


 いやー本当に友達を売るのは心苦しいな。とはいえ、学園内での俺の地位を保つためには必要な犠牲だ。南無。


「……お前はいかなくていいのか、イグサ」


「あ、うん!」


 向こうの方へと走っていく女子の集団。しかし、彼女らに置いて行かれてしまったイグサは、未だ俺のすぐ横に居た。それを俺に指摘されれば、ハッとなって彼女もまた女子たちの走った方へと急いでいった。


 なにやらぽけーっとしていたらしいイグサは、やはりどんくさい。言われてようやく追いかけだしたところとか、ぽてぽてとぎこちない走り方をしているあたりとか。


「まったく、イグサに覗き魔の撃退の先鋒を頼んだのは誰だよ本当に。逆に酷いことされるぞこのままじゃ」


 幼稚園の頃から変わらないどんくさいイグサを見て、“僕”はそう言った。


 そんな風に呆れていると、俺の言葉を聞いたのか、覗き魔を見つけださんと走り出したはずの彼女が、踵を返して此方へと戻ってくる。


 そして、握りこぶしを両手でぐっと構えながら、ぷんすかとでも聞こえてきそうな調子で反論をしてきた。


「わ、私が自分で出てきたんだよ!」


「そうなのか?」


「そうなの!」


 珍しいことがあったものだと俺は思った。イグサと言えば、引っ込み思案で臆病物の代名詞。臆病者こそがイグサであり、イグサこそが臆病者なのだ。


 臆病者というか、逆自信過剰というか。そんな彼女が、悪辣な覗き魔の対処に打って出たと言うのだから驚きだ。


「騙されてるわけじゃないよな? ほら、高校生ってそう言う虐めとかあるって聞くし……な?」


「騙されてないって!」


 ぷんぷんなんて効果音まで追加して、怒った風に彼女は語気を強める。けれども、怒り慣れていないであろうイグサのことだ。威圧感なんてものは微塵も感じられず、ただただ可愛らしい声のボリュームが上がっただけ。


 それでも彼女は、語気を強めて言葉を続ける。


「わ、私は変わったんだから! 高校生になって、ほら!」


 そう言った彼女は、ふんっと気合を込めた声を出したかと思えば、俺に向かって頭突きをしてきた。いや、頭突きというか、頭を下げたというか。どちらが正しいのかは判然としないけれど、勢いよく前に頭を振って、こちらに何かを伝えてきたことだけは間違っていないはずだ。


 まさか、これで自分のつむじをアピールしているのだろうか。高校生という新たな世界。そこで受けてしまった激しいストレスで、若年性脱毛症にでもかかってしまったとでも言うのだろうか。……うん、そんなことはないみたいだ。幼少期から変わらないブラウンのキュートなキューティクルは、今日も今日とて健在だった。


 そもそも、イグサの身長は平均値を大きく下回る143センチ。一般的な男子高校生の一般的な平均に収まるステータスを持つ俺が彼女の前に立てば、顔よりも先につむじが見える。そんな状況で、改めてイグサのつむじを観察する意味なんて端からなかった。


 ではこの頭突きにはいったい何の意味が込められているのだろうか。そもそも当たってない頭突きを頭突きというのだろうか。とにかく、何もわからないから俺はそっと頭の上に手をのせた。


 なでなで。


「ひゃぁ! そう言う意味じゃないから!」


「んじゃどういう意味だよ」


 なでりなでりとイグサの頭の上を蹂躙すれば、小動物のようにイグサがキャンと吠える。それから慌てて後ろに下がるけれど、ここで俺を付き飛ばしたりしないあたり、イグサの優しい性格が出ているなと俺は思った。


 こんな行為、知りもしない女子にやったら股間を蹴り上げられること間違いなしなのに。いや、そもそも知りもしない女子にこんなことしないけど。


 なにはともあれ、弁明タイムだ。いったい何のつもりでイグサは俺にヘッドバットを仕掛けて来たのか。臆病者ヒエラルキーの頂点に立つ彼女にあるまじき行為に、危うく俺の心臓が止まりかけたのだから、それはそれはしっかりとした理由が欲しいものである。


「髪! ほら、見てよ!」


「髪? ……あー、なんだかおしゃれになってるな」


 おさげとばかり思っていたイグサの髪だが、言われて初めてよく見てみれば、なんだかおしゃれなことになっていた。今の今までの臆病者を豪語する閉じたカーテンのような前髪はヘアピンでとめられていて、僅かながらも毛先がくるくるとカーブしている。しかも、おさげを止めているのは今まで使っていたような無味乾燥としたゴム紐ではなく、女の子らしい花をあしらったようなシュシュである。それが二つ、背中に垂れ下がるようなおさげを作り出していた。


 確かにおしゃれだ。女の子らしく、今時らしく。少なくとも、おしゃれという概念に対してみ人の興味もない俺からしても、おしゃれだと思うぐらいには。


「ほんと? たいちゃんもおしゃれだと思う?」


「ああ、思う思う」


 はてさて、その言葉にどんな含蓄があろうとも、おしゃれなんて曖昧模糊な言葉に反応したイグサは、それはもう目を見開いて勢いよく身を乗り出しながら、自分のヘアスタイルについて繰り返し聞いてきた。


 なので、彼女が質問を繰り返すたびに、俺も返答を繰り返す。


「似合ってる似合ってる。大いに似合ってると思うよ。シンデレラがシンデレラになったみたいな大変身だ。願わくば12時の鐘で魔法が解けないことを祈るばかりだね」


「わぁ、わっ、わぁ……!」


「……それはどういう反応だ、イグサ?」


「え、あ、っと、ね? なんでもないなんでもない。本当に何でもないんだよ! 本当に……うん」


 一体俺の言葉の何が彼女の琴線に触れたのか、感慨深く頷くようにして小さく言葉を呟く彼女は、握りこぶし二つを胸の前に持ってきてガッツポーズをするように喜んだ。そんなポーズをするものだから、悩まし気な彼女の二つの大きな胸元のそれが柔らかそうに潰れるので、俺はそれとなく目を逸らした。


 はて、そんなものを見てしまったからだろうか。ぽたりと、俺の鼻から何かが落ちる。


「え、あ……たいちゃん! 鼻、鼻!」


「鼻? ……あー、こりゃ酷い」


 先に気づいたのはイグサだ。おそらく地面を見ていたおかげだろうか、コンクリートを赤く濡らした俺の鼻血をいち早く指摘してくれた。ただ、その指摘に俺は複雑な気分になってしまう。だって、こんな場面で鼻血を出すだなんて、表現技法として古典的が過ぎないだろうか。


 まあ実際は、先ほど靴ひもを踏んで転んだ時に頭からコンクリートに突撃したのが原因だろう。鼻が折れてなくてラッキーだ。転んだ時点でアンラッキーだけれども。


「たいちゃん、ちょっと屈んで!」


「え、なんでって……ああ、悪いな。ちょうどハンカチを切らしてたんだ」


「切らしてたって、たいちゃんがハンカチを持ち歩いてたことなんてないでしょ!」


「そうだな。いつもハンカチを持ってたのはお前だったな」


 そんな風に話しながらも、イグサは恭しくハンカチを取り出しては、俺の顔からこぼれた鼻血を拭ってくれた。


 いつもはどんくさい癖に、こう言う時ばっかりは手際がいい。いや、違うか。怪我しなれているから、こういう手際ばっかり上達してるんだったな、こいつは。


 あとは、最初から鼻血を拭くのにポケットティッシュがあれば完ぺきだったが、こちらは二人とも持ち合わせがなかった。おかげでせっかくのハンカチが血まみれだ。


「とりあえず、止まるまでハンカチでふさいでて! ……それじゃあえっと、しっかり保健室に行くように。寄り道したり、変なところ行ったりしないで、まっすぐ行ってよタイちゃん」


「安心しろ。俺は最初から保健室に行く予定だった」


 そうだそうだ。友人野郎に首根っこを掴まれて女子更衣室の覗きスポットにさえ来なければ、保健室に運ばれていたはずなのだ。まあそれも、友人野郎がでっち上げた大ウソなのだけれど。


「たいちゃんのことだから、変なこと言ったり変な言い回しして誤魔化されてるような気がするけど……と、とりえあず。私は覗き魔を追いに行くから、絶対に保健室に行ってよ!」


「わあってるよ。流石に流血してるくせに保健室に行かないほど、俺はひねくれちゃいない」


「信じてるからね……!」


 そんな風に、臆病者らしく静かな大声を出して念押ししつつ、彼女は柄の短い箒を両手で持って、覗きなんて悪逆非道を犯した大悪党を処刑するために奔走するのだった。


 参ったな。意外にもやる気の炎を燃やしているイグサの姿を見て、俺はしっかりと後悔した。なにせ俺が教えた方向にあるのは、裏庭へと通じる悪人どころか人っ子一人いない場所である。あるのはせいぜい野良猫の住処ぐらいで、天地がひっくり返ったところで大悪党こと俺の友人野郎こと水池清水はあんな所には居ない。


 なので、イグサを含めた女子たち、はこれから居もしない犯人捜しの旅に赴くととなる。しかも彼女らは、水泳の授業だなんて疲れる以上の何物でもない苦行を終えたばかり。果たして犯人捜しを根気よく続ける体力なんて残っているのだろうか。


 なんだか罪悪感を覚えてしまう。


 そんなことよりも、もっともっと罪悪感を抱くべきことがあるはずだろうと、僕は思った。


「……保健室行くか」


 現在時刻12時24分。昼休みにはまだ早いけれど、仮病を使わされてまで体育の授業をバックレた手前、授業終了直前に戻るだなんてことはできない。なので、大人しく言われたとおりに、俺はまっすぐ保健室に向かうことにした。


 保健室に。

 足を向けて。

 なんとなく振り返って、遠くに走っていくイグサの背中を見る。

 風狸伊草。俺の幼馴染。臆病物の代名詞にして、どんくさい選手権堂々の一等賞。そして――


 中学三年生の終わり際、俺に告白してくれた女の子だ。


 そして、悪辣な僕が、悪し様に振った女の子でもある。


 あれからもう三か月。俺はまだ、何も変われていない。

 だから俺は、走り去るイグサの顔も、まともに見れなかった。


 ◆


 男子高校生たるもの、やはり保健室には憧れを持ってしまうモノで、ドキドキとしながら俺は鼻血の治療に保健室に訪れていた。


 もちろん、イグサに言われた通りにまっすぐ寄り道せずに来た。いくら因縁があろうとも、人との約束を守れないほど俺はひねくれちゃいない。まあ、言われたことを破る程の根気もないとも言うけれど。結局、俺には何かを選択するということが、とことん苦手らしい。むしろ選択することが嫌いですらある。なんとひねくれた男だことか。


 さて、保健室に立ち入った瞬間に、保健室の全面的に開放された窓から、暑さを忘れさせてくれるような涼しい風が出迎えてくれた。たったこれだけで保健室に来てよかったと思えてしまう。


 いやいや。本来の目的を忘れるな宮村大河。ここには鼻血の治療に来たはずだ。靴ひもを踏んで転んで出たということなので、早急な治療が必要だろう。今更ながら、ひょっとすればひょっとして、俺はイグサのことをどんくさいだなんて言えないのではないだろうか? いやまあ、どちらかと言えば俺はアンラッキーなだけなので、どんくさいとはこれまた別方向に厄介なだけなのかもしれないけれども。


「あ、すいませーん。今先生外してまーす」


 ほら見たことか。高校生活七不思議が一つ、保健室に現れる美人先生という都市伝説に遭遇できなかったじゃないか。これをアンラッキーと呼ばずして何をアンラッキーと呼ぶのだろうか。いやはや、別に今日会わずとも学園に滞在している限りはどこかで遭遇するチャンスはあるのかもしれないけれども。ただ、合法的に鼻血を治療してもらえる今日に限って、不在のタイミングで来てしまったことを考えれば、やはりアンラッキー極まりない。


 なんて妄想を繰り広げつつも、保険室の先生(名前はまだ覚えていないし美人であるかどうかすらも把握していない)が不在であることを教えてくれた人に挨拶をする。


「こんにちは。先生はいないんですね」


「そそ。どこに行ったのかは知らないわ。何でも知ってるわけじゃないから」


 保健室の先客は、保健室に三つあるベッドの一つを占領してカーテンの向こう側から会話している。声の質から先客は女の子であることが分かった。授業中に保健室でベッドに寝転がっている理由は、聞かないほうがいいだろう。少なくとも水池のように授業をバックレたというわけではないはずだ。あそこまで不真面目な生徒は、あいつ一人で十分だから。


「これ、自分で治療してもいいんですかね?」


「さあ? 一応保健室ってのも学校の備品だと思うけど、結構危ない薬品もあるんじゃないかしら? 触ったら指が溶けちゃったり……なんてね」


「怖いこと言わないでくださいよ」


 先輩である可能性を考慮して畏まった態度をとる俺とは対照的に、カーテンの向こうの先客は寝転がりながらも活気にあふれた調子で受け答えをしてくれる。保健室とは本来病人が訪れる場所なのに、声の調子だけで彼女はあまりにも場違いな人間だった。


 彼女が誰なのかは確認しない。わざわざカーテンを閉めているのだ。それを無理矢理剥がして正体を調べる理由も、そんなことをする度胸も俺にはない。なので、さっさと鼻血の対応をしようとして、思い返す。


 そういや鼻血って止まるまで待ってるだけでいいんだっけな。如何せん鼻の奥に負傷箇所がある為、軟膏なんて届かないし、飲み薬なんかで治るようなものでもない。ふむ、保健室に来たのは間違いだったか? いやいや、本来であれば保健室とは、正しい傷の対処をしてくれる先生に、正しく傷の対処をしてもらう場所なのだから、保健室に来ること自体は間違っていなかったはずだ。


 肝心の先生が居ないだけで。正しい行動だったはずだ。


 つくづくアンラッキーだなと思う。もしもこれで、水池程の身体能力が俺にも備わっていたら、鼻血を出すことはなかったのだろうかと思ってしまうほどには、気分が沈む話だ。


「なになにどうしたの。薬品が欲しいような傷でもしたの……」


 はてさて、あちらこちらへと思考を右往左往させながら薬品棚を漁っていると、心配してくれたのか、ベッドで休んでいたはずの先客がカーテンを開けてこちらの様子を見てくれた。


 けれど、そこで先客の言葉が止まる。ついでに、カーテンを開けた音に反応して振り返った俺の動きも止まった。見つめ合うように。


「って、あれ。もしかしてタイガ?」


「なんでお前がここに居るんだよクロバ」


 なぜ動きを止めてしまったのか。その理由は、ベッドで休んでいた先客が思いもよらない人物であったからに他ならない。


「いやそれこっちのセリフ。……はは~ん、もしかして私に会いに来てくれたの? そうよね~、私、可愛いもんね~」


「手元を見ろ。転んで鼻血が出たんだよ」


「あはは! 馬鹿みたい! 私が鼻栓付けたげようか?」


「いらん」


 果たして何の因果が働いたのだろうか。もちろん、すべては俺の持つアンラッキーな因果の下に収束した現象なのだろうけれども。なんとびっくり、向こうからカーテンを開けてこちらの様子を見に来た先客は、あろうことか俺の知り合いであった。


 狐陽きつねび玄羽くろば。小学校来の幼馴染である。


「というかさ、あんたカーテン越しとはいえ私の声に気づかなかったの? マジで? それってなんだか複雑なんだけど……困ったわ~。傷ついちゃったかもな~」


 ひらりと、夏場らしく開け放たれた窓から吹いた風が、悪戯でもするかのようにカーテンを軽やかに揺らす。揺れるカーテンの向こう側に、小中と同じ学校に通い、ついには高校までも同じ進路を辿ってしまった幼馴染の、馴染みある顔が見えた。


 クロバの顔は、とても困ったとは言い難く、ましてや傷ついてしまったようにも見えない笑顔を浮かべている。どう見たって、此方を揶揄う厭らしい笑みだ。相変わらず、と言いたくなる。


 ただ、此方を責めるようにそう言う彼女もまた、カーテン越しに幼馴染の存在に気づいていなかったはずなのだが? そんな風に“僕”は思ったから、思ったことをそのまま口にした。


「そう言うお前もカーテン越しに俺のことには気づかなかったみたいだな。お互いさまってやつだ」


「それ、私が一番嫌いな言葉なんだけど? お互いさまって言葉が私、一番嫌いだって知ってて言ってるでしょ」


 はてさて、『お互いさま』という言葉をクロバは嫌いだったらしい。初耳だ。別段、そこまで記憶力に優れているわけではないけれど、付き合いの長い幼馴染史上初めて聞く話だったと思う。


 いや、そもそもだ。


「俺の頭に、お前の嫌いな物のすべてを網羅できるほどの容量があるとでも思ってるのか?」


 クロバは好き嫌いが多すぎる。いや、好き嫌いというか、嫌い嫌いと言った方がいいほどには、嫌いなものが多すぎる。否、嫌い嫌いじゃ足りないか。それこそ嫌い嫌い嫌い嫌いと唱えた呪文を、あと四度ほど繰り返さないと表現しきれないぐらいには、クロバには数多くの嫌いなものがあるのだ。


 嫌な奴だ、と“僕”は思った。


「網羅しなくても推測はできるはずよ。網羅せずとも想像はできるはずよ。網羅なんかに頼らずとも想定することはできるはずよ。そもそも、気が利かない男は嫌いよ、私」


「聞き捨てならないことを言わないでくれよクロバ。お前の嗜好を、或いは嫌悪を網羅するために俺はいないし、ましてやそれを補足し、想像し、想定するために俺は存在しているわけじゃない」


「相変わらずな鞭撻で私、がっくし安心しちゃった。というかこの三か月の間、一回も話せてなくて寂しかったんだけど? どうしてくれるのよ」


 がっくし安心ってなんだよ、特にがっくしって。がっかりしてるのか安心してるのかどっちかにしてほしい。


「そりゃ悪かったな」


「悪いと思ってくれてたんだ」


 正反対だな、と僕は思った。


 俺の歴史上で仲のいい幼馴染という存在は二人いるけれど、そのタイプは全く異なる。それは三か月ぶりに話をしてみても変わっていないらしく、イグサは難しく無駄の多い会話が苦手だし、クロバは逆に会話にある無駄を楽しむタイプだからこそ話が長い。


「悪いとは思ってるよ」


「へぇー……」


 相変わらずだ。そんな言葉で流水のように続けられるクロバの語りを表そうと思ったのだけれど、どういうわけか俺の言葉に返答しないクロバの沈黙の態度に、その目論見は夢半ばで断たれてしまった。別段、そう表すことを夢見ていたわけではないけれど、思考の言葉の羅列なんて夢と何ら変わりない。現実に何ら影響を及ぼすことはないという点において、やはり何ら変わりない。そんな風に冗談交じりに思考の中で語ったところで、もちろん状況が変わることはない。


 さて、では今現在何が起きているのかの事実だけを述べるとするならば、俺の言った言葉に対してお喋りなクロバが言葉を止めてしまったというわけなのだけれども。出会ったばかりの時ならいざ知らず、仲良くなってから彼女が言葉に詰まることなんて数えるほどしかなかったはずだ。それぐらいにおしゃべりなクロバが口を閉ざした。それだけで俺は、少しだけびっくりしてしまう。


 びっくりして黙ってしまう。黙りこくってしまったクロバに共鳴するように。


 保健室に訪れる沈黙。けれども、狐のようにとんがりとしたクロバの目が、おしゃべりな彼女らしく雄弁にこちらを見つめてくる。なので俺も、負けじとクロバを見つめ返した。


 そうして気づく、クロバの変化。

 喋ることばかりに夢中になっていたせいで気づかなかったけれど、見違えるように彼女は変わっていた。それはもう、別人なのではないかと言いたくなるほどには。


 くるりとしたまつ毛は長く綺麗で、眠たげながらもぱっちりと開かれたクロバの瞳にはよく似合っている。そこから少し視線動かせばくっきりとアイシャドウのようなものが目元に黒い線を引いていて、更によくよく見てみれば俺の乏しい化粧知識では言い表せないほどの変化が、そこはかとなく自然体でクロバという女の子を宝石のように輝かせていた。更に言えば、夏場にしてははだけすぎている胸元も、バチバチに決められた指先のネイルも、髪の隙間から見える耳に付けられたイヤリングも、三か月前にはなかったものだ。


 どこか楽し気で、しかし不満げな表情と、黒曜石のような黒く長い髪は相変わらず。しかし、それ以外のすべてが変わってしまったのかと思えてしまうほどに、クロバは変わっていた。変わり切っていた。


 可愛いとはクロバの自画自賛だけれど、元から美人だった彼女は、事実その可憐さに磨きをかけていた。


「どう? 私の変化」


 じろじろと俺が容姿を見つめていたことに気づいていたであろうクロバは、しばらくしてから、こてんと可愛らしく首を少しだけかしげながらそう訊ねてくる。そんな仕草も、計算されつくしているように可愛らしい。


 できることならば設問はマークシート方式を採用してほしいところだけれど、生憎と回答の一文字目から自らの言葉で用意しなければいけないようなので、俺は俺らしく冗談を交えながら逃げの口上をしずしずと述べた。


「生憎と化粧については疎くてな。シャンプーを変えた女子にそのことを指摘してあげれば、魔法のように好感度を稼ぐことができると聞くが、やはり化粧品も指摘した方がよかったりするのか?」


「え、それって真面目に言ってる奴だったりする? あー、いや。真面目だったら悪いのだけど、それってわりかし都市伝説だったりするから。同性ならまだしも、異性にそんなこと言われたからと言って、好感度が上がったりするわけじゃないから。あくまでもそう言うのって、イケメンだから許されるってだけ。美少女無罪、イケメン特権。これ、この世の常識よ」


 なんともためになる話を聞いたな。もしも気になる女の子が居るのならば、この知識を大いに活用させてもらおうじゃないか。まあ、気になる女の子なんて今後できることはないだろうけれども。


 というか、そんなことを言われるということはクロバ的には俺はイケメンではないということになる。ふむ。別にモテたいわけではないけれど、それはそれで悲しくなってしまう。ぐすん。


「まあいい。女子の変化を指摘することが世界中の男子全員に課せられた義務というわけではないのなら、別段俺が指摘する必要もないだろう」


「あ~、またそういうこと言って。私がそう言うのも嫌いだって知ってるでしょ! いい、タイガ。人を褒めない人間は人に褒められない人間になるわよ。その最後はそれはもう悲惨だって泣くことになるんだから!」


「人に褒められるために行動するのもどうかと思うけどね」


 なんて言葉で一つの話題を締めくくった俺だけれど、自己承認を目的とした行動を否定する昨今の風潮には、いささか同意しかねるところがあるのもまた事実。


 みんなに認められたいという感情はそんなに悪いことなのか。誰かに褒められたいという欲望はそんなに悪いことなのか。楽しいだとか愛してるからだとか、そんな自己犠牲的な理由だけがどうして崇高なものだとされるのか。


 俺には全くわからない。

 本当に?


 “僕”は思う。本当に俺はわからないとでも思っているのか、と。

 わかっていないことにしようとしているのではないのか、と。


 人間は身勝手な生き物で、他者の努力を測ろうとする。その結果が、優れていようと劣っていようと、人はその努力を馬鹿にする。だってそうだろう? 自分よりも劣った努力を見せつける人をどうして褒めることができる。自分よりも優れた努力を続ける人をどうして認めることができる。


 身勝手なんだよ、人間は。

 “僕”はそう思っている。

 俺は、どう思っている?


「どしたのさ、黙りこくって」


 ふと、沈黙していた俺を不思議に思ったのか、クロバがそんな風に話しかけてきた。ここまで綺麗になると、小首をかしげるしぐさまで様になっている。


「口は災いの元と言ってな。こうして黙っていることでクール系のキャラを演出しつつ、身に降りかかる災いすらも退けることができるんだぜ。一石二鳥だ」


「いや、タイガって結構お喋りなキャラでしょ……そもそもここに居るの私だけだし、今更私を相手にクール系を気取って意味あるの?」


「高校デビューというやつさ」


「遅くない……? ああ、いや。ここで会うまでの高校生活を、タイガがどういうキャラで過ごしてたのかは知らないけどさ」


 少し冗談が口から漏れ出してしまったのは、考えていたことを隠したかったからだろう。


「とりあえず、もうすぐ昼休みだし私は自分の教室に戻るとするわ。ばいび~」


「別れの挨拶にしては、平成ギャルでも言わないぞ、それ」


「人様のネタを古いって言う人も嫌い」


 なんとも古めかしい挨拶と共にひらひらと手を振った彼女は、ベッドから立ち上がってから、ぴょんぴょんと飛び跳ねるように軽やかなステップで保健室の入り口まで移動した。


 爽やかな風が吹く。ひらりとクロバの黒曜石のような髪が揺れた。


「ああ、それと」


 思わず見惚れてしまった俺に、振り返った彼女は言う。


「感想、まだ聞いてないから」


 そんなことを言った彼女は、相変わらずの身のこなしで、次の瞬間には俺の前から姿を消してしまった。まるで幻のような彼女だった。嵐のようで、風のようで。強く吹き付けたと思ったら、いつの間にか消えていた。


 狐陽玄羽。俺の幼馴染。嫌い嫌いの激しい、おしゃべり好きな口八丁。そして――


 中学三年生の終わり際、俺に告白してくれた女の子だ。


 そして、非道な僕が、手酷く振った女の子でもある。


 あれから早三か月。俺はまだ、何も変わっていない。

 いつの間にか、鼻血は止まっていた。

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