アンノウンズ・ホテル

赤魂緋鯉

アンノウンズ・ホテル

 これはちょっとマズったかな……。


 とある人里離れた、鉄筋コンクリート製の屋敷に忍び込んだ、黒のライダースーツ姿の若い女性――警察から特定犯15号と呼称されている怪盗・ニュートリノは、深い樹海の中をGPS情報を頼りに逃走していた。


 彼女はそこの使用人に化けて忍び込み、目当ての品を盗んだまでは良かったが、その主が雇った警備会社のフリをした武装組織に見付かり、肩口に銃弾が擦りながらも脱出して、かれこれ3時間が経過していた。


 ああもうっ、どこまで逃げても付いてくるし……。


 木の上にひょいとフックショットを使って飛び乗り、黒豹くろひょうの頭部のような形状をしたヘットギアについた熱源感知スコープで背後を確認すると、何度確認しても2人ほどの兵隊が一定の距離を保って追いかけていた。


 そのカラクリは、暗視と熱源感知スコープを併用している、20組近くの2マンセルが一定の間隔を置いた翼状陣形で追跡している、というものだ。


 この感じだと、多分誘導されかけてるかも。というか1人の為に何人投入してるわけ……?


 ヘッドギアのバイザー分に映した地図に、今まで通ってきた経路が表示されているが、真っ直ぐ逃げているつもりが徐々に右へと誘導されていることを確認し、つうっと冷や汗がニュートリノのこめかみを伝って流れた。


 ひとまず右方向にある崖下へ追い込まれる前に、と木を飛び移って何もない盆地の中央を突っ切ろうと進んでいると、


「う――ッ!?」


 樹海に紛れる様な迷彩に塗られた、10メートル程のコンクリート壁が目の前に現われ、ぶつかる寸前で大ジャンプしてそれを回避した。


 えっ、なにここ……? お屋敷……?


 その上端を飛び越えた先には、それぞれ丁寧に剪定せんていされた、穂先のような形の高木と球形の低木が目立つ庭園に囲まれた、中央にドーム状の温室が突き出す、屋根裏部屋のあるレトロな風貌の洋館が建っていた。


 整備されている庭と光の漏れる窓、庭の中央の噴水や等間隔であちこちに立ち並ぶヨーロピアンな街灯が稼働していて、2階建てのそれが廃墟で無いことは間違いなかった。


 いったいなんでこんな……。ってボサッとしてる場合じゃ無いっ。


 地図上は何も無いはずの場所で、唐突に現われたそれに困惑していたニュートリノだが、壁の方を振り返ってから、慌てて正面側に木々に身を隠すようにして回り込んだ。


「アンノウンズ……、ホテル……?」


 正面側の左右に分かれた階段を昇る玄関の上にある、ベランダの上に付けられた、筆記体で綴られた看板を彼女はつい口に出して読み上げた。


 って、またボンヤリしてる場合じゃ――。


「うわっ」


 また立ち止まっていたニュートリノが、正面の鉄製の門へと振り返ったところ、荘厳な装飾を施されたその前に、いつの間にかパンツスーツの女性が立っていた。


「よう。なんか困ってるみてえだな」


 腰の辺りまである、夜明けのように明るい茶色の髪を細く一つに縛っている、青年と見間違うほど精悍な顔つきの彼女は、白い手袋をした手を軽く挙げて薄く笑みを浮かべた。


「――ッ」

「まった」


 職業病で即座にスモークグレネードを使おうとしたが、ほぼ瞬間移動の様な動きで目の前に迫ってきた女性に、その手首を掴まれて止めらた。


「別に逃げなくてもいいぜ? 当ホテルはアンタみたいなアンノウンわけありのための宿でね」


 手袋に仕込まれた、護身用のスタンガンをとっさに使おうとして、手をつかまれて表情が凍り付いたニュートリノだが、女性は敵意を一切見せずに手を離し、ようこそ、と胸の中央に右手を当てて恭しく一礼した。


「でも手持ちが……」

「なこと言ってる場合じゃねえんだろ? 総支配人からは許可出てっからひとまず入りな」


 本音を言えば逃げ込みたかったが躊躇ちゅうちょするニュートリノへ、女性はそう言って再び腕をひっつかんで中へ引き入れた。


 ロビーの内装は、表面が大理石の四角い柱が神殿の様に並び、各所の装飾は最低限ながらも、それが逆に高級感を演出していた。


 玄関に入って突き当たりにフロントがあり、その中で迎え入れた女性と似たような服装だが、闇夜やみよのような長くボリュームのある黒髪の女性が待っていた。


 こんな格好だと目立つんじゃ……。


 進行方向左にある食堂や、右にあるラウンジを見やりながら、ロビーの中央に鎮座している、首の無い天使像の脇を通って、ニュートリノ内心オドオドしながら進んで行く。


 辺鄙へんぴなところにあるホテルであっても、各所のソファーやチェアに宿泊客がいて、その数はざっと十数人を超えていた。


 彼らは一切ニュートリノの方を見てはおらず、下世話な関心を寄せる人物は誰1人居ない。


「このホテルにゃ、お客同士の詮索は禁止ってマナーがあってな。まあ、無くてもするお客はいねえがな」

「ああ。アンノウンズ、ってそういう……?」

「おう。意味の中の1つではある」

「なるほど」


 目線を気にしている様子を見抜いたかの様に、後ろをピッタリ着いてきていた女性が説明し、ニュートリノは納得した様子で頷いた。


「お客さん、なかなか鋭いじゃねえの。1発でたどり着いた客もそういねえぞ」

「それはどうも……」


 ニュートリノは照れくさそうに小さく頭を下げてそう言い、フロントのカウンターにやってきた。


「ようこそ。アンノウンズ・ホテルへ」


 恭しく一礼し、コンシェルジュのれいと名乗った女性は、その後、何も言わずにニュートリノの後ろにいる女性をジッと見続けた。


「あっ、忘れてた。コンシェルジュのめいだ」


 それで己のミスに気が付いて、慌てて自身を明と自己紹介した女性は、


「――ごめん、姉ちゃん」

「――気をつけなさいね」


 フロントの中へ上半身を突っこんで、明は黎に小声で小さく頭を下げながら言い、黎はそれにほんの少しだけ表情を緩ませて注意した。


 姉妹なんだ。……でも、あんまり見た目が似てない――。


 そのやりとりを横目で見つつ、ニュートリノは黎が出した書類へサインしようと書面を見やると、すでに本名である鳥羽涼の名前が本名欄に記載されていた。


「えっ」

「詳細は言えねえが、お客様になる人間は一通り洗う事になっててな」

「無論口外は致しませんし、警察などに売るということもありませんのでご安心ください」

「気味が悪いかもだが、まあこっちの自衛策ってことで1つご理解頼む」

「それはまあ……」


 ニュートリノこと涼は、少し挙動不審に左右をキョロキョロ見ていたが、背に腹は代えられないので自筆サインと呼称をウカイと指定することを書き込んだ。


「では早速ですがウカイ様。こちらへお願い致します」


 書類を回収した黎は、そう言うとフロントの横にある細身の扉を開いて、中へと来るように手で指して促す。


「はい?」

「言う事聞いといた方がいいぞ」


 いきなりバックヤードへ招かれ、パチパチと瞬きして止まっていた涼は、ピューマの様に攻撃的な目を更に険しくして出入口を見やった明を見て言う通りにした。


 涼が中に入ってドアが閉まったタイミングで、出入口から武装した人間が数人侵入してきて、ドカドカと歩いてフロントまでやって来た。


「当ホテルへようこそお越し下さいました」

「は? お前見て客かどうか分かんねえのかよ? バカか?」


 先頭の若い男は完全にめ腐っていて、まるで普通のお客のように頭を下げて出迎えた黎の頭を小銃の先で小突いて、何が楽しいのかケタケタと笑う。


 こんな事を口走るレベルと考えると、下っ端というか鉄砲玉かな……?


 恐らく自分を追ってきていた連中であろう、と、フロントの奥にある従業員ロッカースペースに隠れている涼は察した。


「ご宿泊でなければ、ラウンジのみのご利用でございますか?」

「おいおい、コイツマニュアル対応しか出来ねえみたいだなぁ!」


 下っ端の侮辱的な言動を、黎はそよ風でも吹いているかの様に全く気にせず、粛々とコンシェルジュの職務を果たす。


「客じゃ無えっつってんだろ。おい、この女来てないか?」

「なるほど。では、お引き取り願えますでしょうか?」

「質問に答えろクソアマ!」

「もう1度お訊ねします。お引き取り願えますでしょうか」

「あぁん? テメエはとっとと質問に答えれば良いんだよッ!」

「お引き取り、願えますでしょうか」

「うるせえ! ぶっ殺されたいか!」


 猫の様につかみ所が無い目で、銃のトリガーに指をかけようとしている男を見据えて、はっきりと退去を促して下っ端を激昂させた。


「ほーん、ご退去いただけねえってなら仕方ねえな」


 だが、いつの間にか消えていて、いつの間にか背後に現われた明から、長さ3センチほどの針毒が塗られた手裏剣を投げつけられ、その様子を眺めていた部下が、バタバタと倒れた。


「な――」


 倒れる音に驚いて振り返った男が目にしたのは、両手指の間に針手裏剣を挟んで佇む明と、その背後に銃や投げナイフを手にしてゾロゾロと集まる客達の姿だった。


「このホテルを利用する際、絶対に守って頂かなければならないルールがございます――」


 そう言って黎は、まず顔の横で指を1本立てて、穏やかであるが明確に危険地帯であると分かる、異様な空気感に怯える男へ告げる。


 1つ、ホテル敷地内において闘争行為の一切の禁止。2つ、武器の持ち込みの自由。3つ、利用者同士の詮索の禁止。


「――そして4つ、ホテルやその従業員への加害行為がある場合、その限りではございません」


 指を4つ立てて説明し終えたところで、明から針手裏剣を投げつけられた男は即座に気を失った。


「よし、もう安全だ。出てきていいぞウカイ様」

「こ、殺したんですか……?」


 まるで通り雨のようにお客が姿を消し、代わりにどこからともなく現われた清掃スタッフが武装集団を回収していく最中、明に言われておっかなびっくり出てきた涼は、雑に台車に突っこまれた人いり袋を見ながら、恐る恐る明に訊ねた。


「いや? ちょーっ気絶させただけだ。ここでは言えないが、使い道はいくらでもあってな」


 残りの針手裏剣をパンツのベルトに付いたホルスターに戻しつつ、死体処理費用がもったいなってものある、と明は言って武装集団の撤去を手伝いに行った。


 ややあって。


「で、どこへ盗みに入って何を盗れば、あんな兵隊に追っかけられる事になんだよ」


 人払いをしたラウンジで、後処理を終えた明は脚を組んでどっかりチェアに座り、ガラステーブルを挟んで向こうにいる涼へ訊く。


 涼は用意された部屋で、アメニティの1つとして用意されている、無地のティーシャツとハーフパンツに着替えていた。


「反社と繋がりがあると最近噂されている野党議員、といえば分かります?」

「あー。まあ」

「その別宅にとあるNPO団体の裏帳簿が隠されていて、それを盗み出したんです」

「なるほどな。そりゃ躍起にもなるってもんだ」


 ため息交じりにそう言った涼へ、明は腕組みをして二度三度と頷いた。


「しかし百選錬磨の怪盗つったって、しくじる事もあんだな」

「盗み出したまでは完璧だったんですが、まさか逃走用のバイクの真ん前にサボってる警備員がいると思わなくて……」

「そりゃ仕方ねえな」


 イレギュラーな事態に見舞われた事に同情する明だが、あくまでも自分の油断が招いた事だ、と言って気遣いだけは受け取った。


「ところでその、持ち合わせがこのくらいしかなくて、お支払いがいつになるか分からないんですが、どうしましょう」


 涼は凄く申し訳なさそうにそう言って、ホテルの標準料金には全く足りない額の現金が入った、薄っぺらい財布を取り出した。


「だってさ。どうするよ総支配人」

「丁度、我々が必要とする一芸に秀でているようですし、臨時という形で雇用いたしましょう」


 背もたれにどっかりと身体を預けて振り返った、明の視線の先にいたのは、


「えっ、コンシェルジュの黎さん、ですよね?」

「はい」


 書類の入った封筒を手に、こちらへやって来ていた黎だった。


「代々のしきたりで、双方を兼職する事になっているのです」

「しきたり?」

「文献によると、初代は鎌倉時代頃の宿湯の主人で、全てを1人で回していたことに由来する、〝主人たる者、最前線に立ち現場感覚を常に持つべし〟、というものです」

「なるほど。ということは、明さんが副支配人なので?」

「……アタシは警備統括だ。どうも商才がねえみたいでな」


 あっ、これ訊いたらダメなヤツだった……。


 何の気なしに決めつけてそう言った涼は、似ていない姉妹が同時に眉を寄せて顔を曇らせ、明の方が自嘲してかぶりを振った様子を見て察した。


「し、失礼しました」

「気にすんな。その分、殺し合いは得意でな。姉貴を鉄火場に行かせずに済むし、かえってありがてえってもんよ」

「ああ、最前線ってそういう……」

「はい。本来、私がやるべき事なのですが、武術を習得しない方がまだ生き長らえるだろう、という有様でして」

「あっ、えっと、この話止めましょう!」


 明と違って表情が分かりにくい黎でも、明らかに苦痛を感じている様子を察知し、そんな事より契約書です、と言って涼は話を終わらせた。


「私事で失礼いたしました。ではこちらを」


 サンキュー、と小さく手を挙げた明と入れ替わって黎が席に着くと、封筒から契約書類一式を取りだしてテーブルに万年筆と共に置く。


「はい、確かに」


 涼は細部までしっかり目を通してから、偽装していない筆跡でのサインをした。


「では。――明、いろいろと指導をお願い」

「おう、任せろ姉貴」


 書類を回収した黎はそう言って立ち上がり、背もたれに手をついていた明の肩に手を置いて頼むと、早足でフロントの中へと戻っていった。


 すでに用意されていた、半小部屋タイプのロッカールームで、これまた用意されていた白のドレスシャツと紺のパンツスーツ一式、えんじ色のループタイを涼は着る。


「――あれ?」


 な、なんでサイズピッタリなんだろう……。


「何でピッタリかって思ったろ? 見ただけでサイズが分かる超人みたいなスタッフがいんだよ」


 先程の処理の際、うっかり唾液で上着が汚れていた事に気が付いて隣で着替えていた明が、心を読んだかの様にそう言って種明かしをした。


 ややあって。


「まあざっくり言うとだ、お客が快適に思い思いの時間を過ごせるように、右往左往するのがコンシェルジュってもんだ。以上」

「ええっ」


 フロントの扉を入って左、受付とは逆の方にあるコンシェルジュ控え室にて、明は雑にそう説明して雑に参考資料を渡して説明を終わりにしてしまった。


「しゃーねえだろ。ここは普通のホテルじゃねえんだ、イレギュラーはぶち当たって慣れるしかねえ」


 基本の説明めんどいから読め、と言って、重厚なデザインでそれなりに値が張りそうな会議用テーブルに、顔を面倒くさそうにしかめる明は腰掛けて腕を組んだ。


 良く言えば実践主義って事かぁ……。


 悪く言えば説明を放り投げた明に苦笑いしつつ、涼は渡された資料50頁ほどをサクサクと読んでいく。


「おいおい、それで頭に入るのか?」

「観劇チケットの手配も仕事の1つ、ですよね?」

「こりゃ失礼」


 座ったまま後ろを振り返り、少しからかう様に言った明に対して、涼は資料にあった項目を1つ読み上げると、彼女は感心した様子でニヤッと笑みを浮かべた。


 一通り資料を読み終えて、一問一答形式で記憶したかを確認した後、明は涼を連れて実際の仕事の様子を観察させた。


 急病人の対応から始まり、初めての客への施設案内に、道がないところにある墓に参りたいという客のためオフロード車を手配し、一見さんお断りの山奥にポツンとある伝説の蕎麦そば屋への紹介など、休む暇もないほどの業務を明はサクサクとこなしていった。


「なんかこう、思ったよりハードワークというか……」

「まあな。普通のホテルですら何でも屋みたいなもんだし」


 ついて回って手伝いをしたり勉強するだけでも涼は目が回りそうになり、休憩室へもどるなり4人掛けソファーに倒れ込んだ。


 その他にも、殺し屋のために武器や弾薬を調達したり、敵の本拠地の設計図入手を依頼されたり、数年ぶりに裏稼業へ一時復帰するからと稽古相手になったり、と、ややきな臭い内容も含まれていた。


「――でも、義賊をやるよりなんかこう、直接助けてる感があってモチベーション上がりますね」

「おっ、分かるか。アタシも厄介者をしばき倒すより、こっちの方がやってて楽しいんだよな」


 沈む様に長く息を吐いたが、どこか清々しそうに笑って言う涼へ、明も表情を柔らかくして深く同意した様子で2度頷いた。


「よし、アタシのシフトもう終わったし、お前ももう上がって良いぞ」


 懐中時計で時間を見た明が、顎で涼を指して言うと、彼女は半身を起こしてペコリと頭を下げた。


「はい。泊めてもらってる部屋、で良いんですよね?」

「おう。施設も遠慮無く使えよ」

「はい、ありがとうございます。……」

「心配しなくても、姉貴が手を回してるとこだから、そのうち出歩ける様にはしてやんよ」


 少し浮かない表情になっている涼を見て、明は休憩室の隅にある置き菓子の冷蔵庫からプリンを取りだして、手渡すとポンと彼女の肩に触れた。


「えっ、これ……」

「アタシのおごりだ。一文無しに銭なんか要求しねえよ」


 甘いもん嫌いだったか? と小首を傾げる明へ、ビックリしただけと説明して、拝むように持ってそう言い、ありがたく受け取った。


「今ここで食ってもいいぜ?」

「あっ、いえ。お部屋で頂きますのでお構いなく」


 遠慮がちにソファーの前にあるローテーブルへプリンを置いた涼は、自分の分を手にしている明から紙スプーンを差し出されたが丁重に断った。


「そうか。でも早めに食えよ? ウチの料理長謹製のプリンでな、食って来なかった時間を後悔するレベルのうまさだぜ?」


 スプーンを冷蔵庫上のケースに戻すと、明は高さを縮めた牛乳瓶型容器のフタを開け、絶妙な弾力感を持つそれをすくって食べ、目を細めてその滑らかな舌触りと素朴な甘さを堪能する。


 へー、そんなに美味しいんだ。


 瓶の底の方に溜まる、宝石めいて美しい色合いのカラメルを見て唾を飲み込んだ涼は、いそいそと元着ていた服に着替えた後、従業員通路を足早に通過していく。


 だが、トイレの前を通過したところで、涼はそこにいた何者かに口を塞がれて引きずりこまれた。


「つっかまえた。クライアントには無傷で連れてこい、と言われてるから暴れないでね?」


 そこに居たのはやや大柄な女で、本当の作業員から奪い取った作業服を着て、完璧に変装していた。


 やばいやばいやばいッ。


 当然逃れようと暴れた涼だったが、よく鍛えられた腕からは難しく、無針注射器で薬物を打たれて気を失った。


 ゴミ袋に詰めた涼を清掃用カートのゴミ入れに放り込んで、女はどこかへと連れ去ろうとしたが、


「へいへい、そこの攫い屋。ウチの従業員になにやってんだ?」

「な――」


 廊下に出たところで、背後からそれまで気配が一切無かった明にそう声を掛けられつつ、女は首筋に針手裏剣を直に刺されて昏倒させられた。


「囮に使って悪かったな。一応は客だったもんだから、ちょっと泳がしててな」


 女を拘束して他のスタッフに回収させた後、明はゴミ袋を開けながらそう言い、動けない涼を横抱きにして医務室へ連れて行った。


 そこで処置をして、意識がはっきりした頃。


「よっ。具合はどうだ? ほい、食い損ねたプリン」

「ありがとうございます。気持ち悪いのは治りました……」

「おっ、そうか」

「助けて、いただいて……」

「あー、気にすんな。数時間つっても、同僚なんだから当然だろ」


 医務室のベッドで点滴を受けている涼は、見舞いのプリンを手に様子を見に来た明へ、まだ力が入らないので頭だけ動かして礼を示した。


 明は普段着のパーカーにハーフパンツという、ラフな出で立ちをしていた。


「でもその、これ以上ご迷惑はかけられないので……」

「そこは心配いらねえよ。勝手にやっちまってすまねえが、お前の盗んだ情報はもう関係各所に共有したし、そんで特捜も動いたからもう心配いらねえよ」

「へ?」


 体調が戻り次第、1人で逃げる為に出ていこうとしていた涼は、ほれ、と明から例の議員逮捕の速報記事を携帯電話で見せられ、ちょっと裏返った声をして目を見開く。


「いろいろとウチに借りがある連中がそこかしこにいるもんでな。それだけじゃなく、姉貴の手腕でそりゃポンポンっと行くって訳よ」

「……。本当にいろいろと、ありがとうございます……」


 最大の懸案事項がもう解消されていたと聞かされた涼は、深々とため息を吐きながらもう一度頭を下げた。


「そこはアタシじゃなくて、後で姉貴に言ってくれ」


 手の平を突き出して見せて制した明は、そんじゃあな、と言って立ち去っていった。


 数カ月後。


 3日で仕事に復帰した涼は、1回の研修で覚えたコンシェルジュ業務の傍ら、怪盗ぜんしよく時代に培ったスキルを使って、お客が必要とする情報を収集する業務を行っていた。


「この程度で良いでしょうか」


 この日はとある反社会的組織の構成員情報を盗み出し、お客として来た組織犯罪対策課長へ、機密性保持のために客室にて紙書類形式で提供した。


「うん。いつもながら完璧な情報だ。助かるよ」

「礼には及びません」


 その資料で、捜査によって得られた情報の裏が取れた課長が深々と礼をし、それが仕事ですから、と涼は満足そうに表情を緩ませながら謙遜した。


「それでは、本日の夕食についての――」


 すぐにそれを引っ込めて、同時にカートで運んできていたディナーについての説明を朗々と始めた。

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