10代から20代の時に書いた詩(23)

天川裕司

10代から20代の時に書いた詩(23)

7月21日(月)

一人で心の白紙に字を書き続けて、その自分を築き上げ過ぎると、人間であるならば必ずどうしようもない孤独(不安)に登り着く。何故か、それは神様の、存在の有無が分らないからだ。〝居る〟とも言えないし、〝居ない〟とも言えない。自分の生まれて来た不思議を誰も本気で語ろうとしないのと同じ程に、説明を付けられる者も居ない。人間は、生まれながらにして不条理を背負う。その背負った不条理が自分のものであるのに、説明が自分にも付けられない。心の白紙に自尊心を築き上げると、その過程が仕方なくても、現実のように孤独(不安)が付き纏う。本心に問うて見ればいい。〝自分は本当(永遠)に、独りで生きていきたいか〟。人間は、無い物強請りであり、その意味は裏返しである。自棄(やけ)になって生きるのに以て、その自棄とは意地というものにも当て嵌まり、存在価値というものにも当て嵌まる。死んでから、この文章が自分にとって何の役にも立たない、という事を分りながら尚、書き続けて行くのは、残っている他人への意地(存在価値)なのだ。そして、人間は表面、(個性)様々である。詰り、人間の本質とは、人間を創られた者しか分からないのである。人間の心を創れる者は居ない。


神様、不安が嫌です。僕は臆病で、あなたの存在の有無が分らなくなりました。どうか、僕をもう一度、素直に成らせて下さい。どうか、あなたの人間にして下さい。結局、独りが嫌です。


恰好付ける僕を取り除いて下さい。


「結婚」

結婚する時、他人の幸せを思わないだろう。その時は死ぬ程に二人だけの世界になり、その世界の安全と幸せを願うんだ。愛する者が存在する人間界で、〝結婚〟というものがあり、その人に自分の孤独をも埋めて貰おうとするのだ。〝男と女〟。この存在の意味の最も大きい点はそこか。


〝本音〟を言えば、この世間を渡って行けない。生きて行けない。何故か。その〝本音〟がこの世間では一般にいけない事になっているからだ。ならば〝建前〟とは?僕を変らせるもの。〝本音〟から〝建前〟に移って行く僕をその時は良い、と思い、〝建前〟から〝本音〟に移る時の僕も良い事だと思い込む。その思い込みが時に、世間から弾かれる。そんなものか―――


一度深く考え込むくせが付くと、この世間の面白い事を笑わなければ、ならないのか、…〝笑わなければ〟なんてなってしまう。(笑)人を気にしてしまうような自分になったのが、いつしか忘れて今の自分がいる。そこに生きて楽しむ事、悩む事との間に壁がある。幸せに対する遠慮があるのだ。絶対に壊れない幸せとは。やはりその幸せが欲しい。


「石庭」

人間は自分の誕生の意味と不思議を語れないのと同様に、時間を止められない。僕はそこにいた。庭にある砂礫を見て、その次に岩に目をやる。座りながら茶を飲み、菓子を食べて、この世での延長を味わう。その延長の不条理は解けず、自ら死ぬ人間もいれば、生を好む人間もいる。そこ(せきてい)に一羽の小鳥が飛び込んできた。毛つくろいをしながら、その小鳥の存在の意味をたどった。“我の許しなければ小鳥一羽、地に堕ちることはない”、その言葉が心に浮かび上がる。この世で思うようにならないことと、僕の心情。人間(ひと)は成長すれば思い方がかわっていき、またまわりからの(まわりへの)対応もかわっていく。“あいまいにしておけば良いものを..”と、それができない生き方が僕をつき動かす。時間は同じように過ぎてゆく。時に冷たくあり、あたたかくもある。僕と神様の間にその時間の経過はあるのか。神様と人間とでは時間の尺度が違う、とよく言う。果たしてどうなのか。ふと茶をすすっていると、小鳥が別の場所へと飛んで行き塀で見えなくなった。そこにまだ一人になった僕がいた。石庭を前に、時間はまた僕の前を流れていった。


時に私(ぼく)は、優しい、曖昧な唄に埋れるのが好きである。


〝考え過ぎだよ〟って言ってくれる人が欲しいのだ。

嘲笑われても平気さ。僕の生き方は誰にも辿れないのだから。

誰も、他人の中には入れない。


「素直な夜の事」

孤独に耐えていた僕は、夜に一人、思った。僕と同じような考え方をする仲間が欲しい、と。自分の孤独を埋めたいと神に祈り、神の側の人間である事を祈った。本心だ。この汚れた世間で清く在り続ける事は至難の業、それより堕ちる方が遥かに楽だ。その人生に居る僕は、その自分の自尊心の行き先に、どうしようもない孤独が在る事に気付いた。その孤独とは他人を殺して、自分を守る、というものである。その不幸(しあわせ)は、果して僕にとって良いものか。この世では?この世を過ぎた所では?僕は、神の元へ行きたい。一人で生きる、というのは在り得ない、のと同時にそれへの自分(人間)の力は存在しないのである。素直に成った夜の事である。男の存在、女の存在、それらの共存。そこに又、もう一人の自分は嫌気が差している。〝間違ってる〟と言い切った僕の言葉は、〝恨み〟と変わって神に飛んで行った。そんなの仕方の無い事。無い物強請り、自己嫌悪に陥りながら、持ち前の欲が呼んだAVビデオを観ている僕。僕の友達も観ているのだと、確認を取りながら。


本音を言っても楽には成れない。それが現実だ。幾ら本音を言ったところで現実自体は変わらない。


不潔さを嫌う行き先は、規制を嫌う。人間。


「人間」

個人にとって〝人間〟とは、その時、その時が自分(人間)。詰り一生終えて見ないと語り切れない。


「頸椎損傷」

〝気持ちの問題だ〟とその人は勘違い、道徳を失った。生きる上で最も大切な人間との間の常識である。それを失くしたその人は、見るもの全てが敵に見え始めた。牢屋を夢で見、現実で心の牢屋に捕われた。自分で閉じ込めた心の中の自分は、生きて居る心地がしなかった。その人の年齢とはまだ若く、親も居た。これから、って時にその人は親から夢を奪ったようなものだった。〝生きてさえいれば〟その思いは、両親にさえ、その人の暴君振りに疲れを憶えられ、忘れられそうな程だった。それでも時間が過ぎれば、又、〝生きてさえいれば〟と思い返していた。ベテランのドクターにその人の身を任せても、〝今の医学では…〟と言い返され、途方に暮れる日々である。その家族は、宗教に縋り付き、泣く思いで、神様にその不条理への悲痛を打(ぶ)つけた。〝苦しい時の神頼み…〟とは承知の上での本音である。子供を思うその親は毎晩祈っていた。だがその状態は変わらないで、日々は過ぎていった。その人は、そんな状態に成る前まで、親の幸せを思い続けていた。その思い方の〝ずれ〟が引き起こした結果が、その状態の様だった。若くても突然成るものなのだ。そして、願うものが奇跡という運命。変わり果てたその人の人格は、その親にとっては、昔の子供(その人)と変わらなかった。その親は、この子供(その人)が生まれて生きている苦し紛れのこの意味が、どういう意味なのか、神様に問い続けていた。


「親子」

お母さん、お父さん、そんなに一寸した僕の手違いで悲しまないで、悩まないでくれ。これ以上、僕を苦しめないで。好い加減、遠慮なんてしたくない。親子に戻りたい。幸せに対する遠慮なんて可笑しいだろう。


あの人のお母さんがどうぞ良くなりますように。あなたの御手の中にありますように。

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10代から20代の時に書いた詩(23) 天川裕司 @tenkawayuji

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