緋色の天使──短編集
戸部 ヒカル
悪魔のような女
──若造・老いぼれ、オス・メス。そんなモン、カンケーねぇ。アタシを見ろ!
五千人に囲まれた円形の舞台の上で、一人の女がそう言っているように幻視する。
鼓膜を揺らすバスドラムの四つ打ち。安定感を覚えるベースのリズムと対極的なベーシストの揺れるような動き。目を引くギタリストの早引きと超高音。
そして全てを飲み込む、怒号にも似たハスキーボイスと、心臓を鷲掴むウィスパーボイスを使いこなすボーカリスト。
彼らは今日このライブを最後に、解散するバンド「ジャックジャック」だ。
俺は解散ライブを見るために、長年引きこもった四畳半から巣立った一人のニート。何の影響力も、名誉も持たないクソニートである。
ジャック・ジャック。通称:《弱々》の曲を初めて聞いたのは、ボーカルの女の動画配信の切り抜きだった。ヨーチューブショートで流れたその女の声に、心臓は鳴ることを忘れてしまうほど強烈な印象を覚え、俺はその声に支配された。
大学入学を機に一人暮らしを始め、学費として親から受け取った預金通帳は支配と同時に消え去った。毎月の生活費として親から送られていた十五万も湯水のように溶かしていく。
部屋の中は、ラバーバンド、グッズTシャツ、ポスターで溢れ返り、寝食も忘れて聞き入った。俺はジャックジャックのボーカリストを魔王だと錯覚していたのだと今は思う。
しかしそんな生活は長く続くわけもなく、玄関で倒れた音を聞いた隣人によって、救急搬送され、二週間の病院生活へ移行した。
両親にも連絡がいった。
見舞いで病室に現れた両親は二人揃って、俺をゴミでも見るような視線を向けている。
母親は俺の部屋にも行っていたのだろう。空っぽの学費用通帳と、毎月の生活費用通帳を手に、顔面蒼白でへたり込んだ。
父親は、その母親の肩を抱いて、目を血走らせながら口を開いた。
『親を何だと思っているんだ──!』
肩を振るわせながら発される言葉は、『大学はどうした』、『三年間も騙しやがって』、『詐欺師にでもなったか』と散々なものだった。
その目には殺意にも似た光が揺らめいて、俺は死を覚悟する。
でも、父親は、一言小さく呟いた。
『……家族の縁を切る。詐欺師を育てたつもりはない』
十八年間共に暮らし、三年間接してきたこの男を俺はよく知っている。軽くそんな言葉を吐ける男ではない。何より、普段無口で怒鳴ることもない父親が、目の前で知らない生き物のように怒鳴っていることに驚いていた。
母親は肩を抱く父親の手を握って、俺を睨みつけると、その瞳に涙を浮かばせる。
その時、俺は自分のしていた大きな勘違いを自覚した。
──魔王と共に進んでいたんじゃなく、魔王に支配され蹂躙されていたのだと。
二週間の長い入院期間を終え、自室に戻ると、鍵を変えられていて入ることすらできなかった。その時、捨てられていた雑誌の記事に、目が止まった。
【ジャックジャック解散ライブ決定!】
俺はボロボロに破かれた雑誌の一ページに吸い込まれる形で、膝をついた。そして記事の詳細をゆっくりと呟く。
『一週間前に解散発表をした大人気バンド、ジャックジャックの解散ライブが決定』
初日に見舞いにやってきた両親に服以外の私物は全て押収されていたことで、携帯すら持っていない。その状況で解散なんて知る術もなかった。
曇り空が轟音と共に光り、稲妻が空を割く。大粒の雨が降り始めたアパートの玄関口で、砂利に膝をついて雑誌を見つめる俺は、決心を固めた。
母親の優しさでそっと入れられた500円玉を握りしめて、コンビニの雑誌コーナーに走った。雨足は激しさを増している。
俺は求人雑誌とボールペンをレジで会計を済ませる。そしてイートインに座ると、ずぶ濡れの手で、履歴書を書き上げた。
それから、コンビニの控え室にいた店長を呼び出して、バイト面接を打診した。
『……俺をここで働かせてください』
ドラマや漫画でよく聞く、耳障りのいいセリフを押し付けて強引に控え室に乱入する。
ギョッとしてこちらを見る店長。真ん中で分けられた黒の髪が冴えない印象を加速させる細身の中年男を前に、俺はまず、土下座から始めた。
『ここで働かせてください! よろしくお願いします!』
今思えば、とち狂っている。でも、経営系のヨーチューバーに感化されて大学を無意味だと感じ、ノリと勢いでやめてしまった俺にはお似合いの行動かもしれない。
土下座からスッと店長の顔を覗くと、不安そうな顔で手を差し出していた。
『まあ、座ってよ。話は聞くから』
その言葉に、俺は全力で甘えることにした。
まずは、履歴書を店長へ手渡す。濡れた手で書き上げた力作を持つと、汚いものを触るように両手の親指と人差し指で挟み込んで、“それ”に目を向けた。
顔色が暗くなっていく。
『あの、ここ三年間の経歴がないんだけど……』
俺は少しでも印象を良くする努力で、元気よく返事をした。
『はい! 仕事をしておりませんでした!』
俺は心の中でガッツポーズを取る。コンビニは挨拶が八割とどこかで聞いたことがあったことで、名前を書けば受かる高校があるように、返事の元気さえあればコンビニバイトは受かると思っていた。
しかし裏腹に、店長の顔は質問を重ねるごとに角度を俯かせていく。
『何で、うちでバイトしようと思ったのかな……』
『はい! 住んでいたアパートが近かったので!』
『……住んでいた? 何で過去形なの』
俺を見る店長は、眉を歪めて履歴書を凝視した。おそらく住所のところに記載がないことで、何かを察したのだろう。
『はい! 両親に住んでいたアパートを追い出されました!』
一般的に自立した成人からまず出ないであろう一言に、店長は目を剥いた。
それから恐る恐るといった具合で、口を開く。
『……それは、なぜ?』
『はい! 三年間大学に通っている嘘をつき学費と生活費を両親から受け取っていたことがつい先日バレてしまったためであります!』
普段引きこもっているせいもあって、喋る口調が安定しない。自分でも軍人のような口調で、少し笑みを浮かべてしまう。
『ど、どうしたの?』
店長は俺のニヤケに反応を見せると、呟くように言った。
『何でぇ……、めちゃめちゃ重い話なのに。何で笑いながら? 怖いってぇ……』
今思えばあからさまに引いてる店長を前に、返事と笑顔で乗り切ろうとする男というカオスな状況だと、その時の俺は気づくことすらなかった。
しかし店長は、固まると顎に手を当ててうーん、と声を漏らす。
『学費と生活費、何に使っちゃったの? 家に引きこもっているだけならそんな大金無くならないよね』
そう言い首を傾げる店長。
俺はさっきまでと同じテンションで話すことはできなかった。オタク特有の性質が顔を出したのだ。
『え、えっとですね。ジャックジャックって、ご存知ですか? まあ知ってるか、大人気なバンドなんですけどね。俺めちゃくちゃ好きで、ハスキーな声とか、ギターもかっこいいし、ベースもノリノリだし、ドラムもいいイヤホンだと──』
その間三十秒、全てを話し終えてスッキリしたと同時に、店長の顔を見た。俺はその時初めて自分がやらかしてしまったと気が付く。
履歴書を床に落とし、それを見るように俯いた店長は、肩を震わせていた。
その動きが、二週間前に見た父親の怒りと、同じ雰囲気を纏っているように思えたから。
そして店長がゆっくりと顔をあげる。
俺は怒鳴られるのを覚悟して肩をすくめた。
『……弱々、好きなの?』
俺はその言葉に店長へと視線を向ける。
満面の笑みで、サイン入りポストカードを見せながら俺を真っ直ぐに見つめる店長がそこにいた。
俺は、その店長の喜びに溢れる輝いた瞳を見つめ返してその問いに答えた。
『……解散ライブ、見に行きたいんです。大好きだから』
『採用で! “弱々”好きにヤバいやつはいるけど、──悪い奴はいないから!』
俺は三ヶ月後に決まった解散ライブに向けてアルバイトを始めた。
そうして今に至る。
五千人が囲む円形の舞台を二階席から眺めていた。
どこを見ても、高揚したファンが瞳孔を開いて中央のステージを見つめている。するとボーカルの女・微々は、マイクがハウリングを起こすほど高音で、シャウトした。
キーンという音で会場全体が静まり返る。
「お前たちの中でさ、アタシらが解散することを受け入れてない奴らもいると思うんだ。でもよくね? アーティストってお前らを驚かせんのが仕事だろ? 解散発表してないのに、解散ライブが決定したのビックリだったろ?」
俺は解散ライブの記事を思い返した。
一週間前、都内某所で解散発表を行った人気バンドという記載は、確かにあった。しかしその後、解散発表時の記事が見当たらず、雑誌やネット記事を片っ端から買い漁ったのを覚えている。どこかに悪夢を解く手がかりが眠っているのでは、そんな淡い期待があったから。それでもライブ当日を迎え、こうして二階席から見下ろすジャックジャックを見て、ヒシヒシと実感を積み重ねていたのに。
俺は声をこぼした。
「……解散発表してないって何だよ」
俺と同じ思いを抱えているだろうファン達の疑問なんて微塵も思い浮かべないまま、微々は言葉を続ける。
「解散は──、する。でもお前たちは、一生アタシらを頭に焼き付けて、他のアーティストなんて目に入らず、死ぬまで苦しんで生きていけよ。それがアタシら、ジャックジャックのファンの責任だろうが」
強すぎる思想、最低なファンサービス、あまりにも傲岸不遜。
それでもファンであることをやめられないだろう。
「──焼き付け、クソども!」
微々の言葉と同時に円形ステージから火の粉が噴き出す。
会場がどよめくと、かき消すように激しくドラムが鳴った。
そして脳を揺らすハスキーボイスの暴力に襲われる。
曲の始まり、一言目、その一音で、俺たちはまた、“支配”されるのだ。
彼女は魔王。微々は悪魔の女だ。彼女の歌に、心拍数さえ支配され、彼女の表情ひとつで、一喜一憂してしまう。
──ファンは人間ではなく、奴隷だ。
俺はそれを強く再確認した。
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