第4話 柊木ミルカとバケモノになる病気4




 畳の上で眠りこけていた私は、隣から聞こえてくる騒音で目が覚めた。


 音に続いて地震を思わせるような振動がアパート内で発生して、私は畳の上から飛び起きた。


 音は薄い壁の向こう側から聞こえてきて、一定のリズムで何かが叩きつけられているようだった。


 その音に嫌な予感を感じ取った私は、とりあえず外に逃げようと考えた。


 玄関に向かって動き出そうとした、その直後だった。


 薄い壁の向こう側から青い触手のようなものが飛び出してきて、私の体の前や後ろを通り過ぎていった。


 全部で三本もの触手しょくしゅが、アパートの壁に深く突き刺さる。


 私は息を止めて、顔のすぐそばに突き出てきた青い触手を視界の隅で見つめた。


 触手は硬い筋肉で出来ているようで、盛り上がった筋が青い皮膚の下に幾重いくえにも重なっている。直線上に伸びたまま動かない触手は、私の身動きを完全に取れなくしていた。


 これどうやって抜け出せばいいの。無理じゃん。


 そう諦めかけていると、突然三本の触手が気持ち悪くうごめき出した。触手の出所である壁の向こう側から、ズシンズシンと巨大な足音が鳴る。


 やがてアパートの薄い壁を突き破って、触手の本体が私の部屋に上がり込んできた。


 全身を青く染め上げ、フサフサな羽毛で覆われた頭部。蜘蛛くものような六本足に、背中から生えた十本以上はある触手。風船みたいに膨れ上がった胴体と、六つの目を持つ頭部。


 見るからにバケモノじみた姿をしているソレが目の前に現れて、私は泡を吹いて倒れそうになった。


 六本足のバケモノは六つの目を動かして、あらゆる角度から私のことを観察し始めた。


 何を考えているか分からないバケモノに見つめられながら、私はこの場をどう切り抜けるか必死に考える。


 ……特に何も思い浮かばない。どうしようやばい。


 バケモノは動き回っていた目をピタリと止めると、視線を一点にして私を見下ろし始めた。


 私のことを獲物と判断したのか、目の下にある口を大きく開けている。


 畳の上にバケモノの涎が一滴垂れた瞬間、私は無意識にその場から駆け出していた。


「ヒシュァァァァ!」


 私が背を向けた瞬間に、バケモノは鼓膜を潰す勢いで咆哮をあげた。


 アパートの壁に突き刺った触手を引っ張り上げ、その反動で起こる収縮しゅうしゅくを利用して私に突撃してくる。


 私はバケモノの頭部と壁に挟まれる寸前で体を伏せると、頭上をバケモノの体が通り過ぎていった。


 咄嗟とっさにできた神回避に自分自身が驚きつつ、私は緩急付けずにその場から起き上がって玄関へと駆け出す。


 バケモノは私を捕え損ねるとアパートの壁に衝突し、部屋に大きな風穴をあけた。


 頭部が壁の穴に挟まったようで動けなくなり、バケモノは混乱して触手を所構わず暴れさせる。


 私は運良く触手から逃れると、玄関の扉をこじ開けてアパートから抜け出した。


 何処か身を隠せる場所を探して走り出した途端、バケモノの触手がアパートの屋根を突き破ってきた。破壊された屋根からバケモノが飛び出してきて、逃げ出す私を見つけて咆哮ほうこうする。


 勘弁してほしい。こっちは昔から運動音痴なのに六本足は卑怯だよ。


 バケモノは六本の足で屋根上から跳躍ちょうやくし、私の目の前に隕石のごとく落下してきた。


 跳躍の反動でアパートは倒壊し、見るも無惨な廃墟はいきょとなる。それと同様にバケモノが落下した地点の建物も衝撃によって倒壊し、地面に深いクレーターが出来上がった。


 クレーターの周りには落下の衝撃で生まれた強風が生まれ、私の華奢な体を容赦なく吹き飛ばした。


 土まみれの道を転げ回って、私は全身を汚しながら数メートル先にうつ伏せの姿勢で倒れる。


「痛……っ」


 膝と腕と顔が擦りむいた私は苦しげにうめき声を上げた。それでもどうにか逃げようと懸命に立ち上がり、歯を食いしばりながら顔を上げる。


 そんな私の目の前に、クレーターから這い出てきたバケモノが触手をしならせながらせまり来ていた。


「やだ、やだ。やめて、来ないで」


 もう走る力が残っていない私は、目を光らせて迫ってくるバケモノに懇願こんがんした。


 当然バケモノに言葉が通じるわけもなく、その間にもジリジリと距離を詰められていった。


 目と鼻の先にまでバケモノが近付いてくると、私は首元のマフラーを握り締めながら声を震わせた。


「死にたくない」


 私がその言葉を放った、直後のことだった。一筋の閃光が迸り、私の前を横切った。


 その閃光はバケモノの触手を斬り裂き、真っ赤な血を空中に飛び散らせた。


 バケモノが悲鳴をあげて、断ち切られた触手を地面に落とす。


 何が起こったのかイマイチ理解できなかった私は、間抜けな面で目を瞬かせた。


 そんな私とバケモノの間に、一人の男が降り立った。


 少しくせっ気のある青髪に、昔の西洋軍人が着ているようなタイト服を身に纏った少年。


 その見覚えのある後ろ姿に、私は目を輝かせた。


「アナタは」


 私の声に反応して、少年が振り向く。少年は紫色の禍々しい刀を手に持ちながら、地面にへたり込む私を見下ろした。


「あれ、君この前助けた子だよね。また会うなんて奇遇だね」


 少年は私に微笑むと、物騒にも刀を肩に乗せた。


 気を抜いてヘラヘラとしている少年の後ろから、悲鳴を上げていたバケモノが再び立ち上がって迫り来ていた。


 バケモノは触手を切断されたことに怒っているのか、興奮した様子で「クガァァァ!」と叫んでいた。


「俺のこと覚えてるかな。さすがに覚えてないか。君あの時倒れちゃったもんね。気絶したことないから分かんないけど、ああいうのって前後の記憶混濁しちゃうっていうもんね。まあでも」


 バケモノがジリジリと近づいて来る中で、少年は呑気に私に話しかけてきた。


「あ、あの後ろ!」


 私がバケモノを指差して叫ぶが、少年は後ろを振り向きさえせず余裕そうにしていた。


 そんなあまりに無防備過ぎる少年を狙って、バケモノは残りの触手をしならせた。射程距離内にいる少年と私諸共、尖った触手の切先を飛びかからせる。


 触手が少年の頭を撃ち抜く直前、再び一筋の閃光が湧き上がった。


 その閃光は、少年が刀を振り翳した時に起こる斬撃によって生まれたものだった。


 少年はバケモノに背を向けたまま、目にも止まらぬ速さで触手を斬った。


 鋭い刃の一撃を食らったバケモノの触手が抉れ、その断面から赤い鮮血が噴き上がる。


 バケモノは痛々しげな声をあげながら、六本もの足で地団駄を踏み始めた。触手を二本も傷つけられたことに怒りを露わにして、四方八方から触手の猛攻を繰り出す。


 少年は余裕そうな微笑みを浮かべたまま、バケモノの触手攻撃を見事にかわしてみせた。


「ちょっと失礼」


「へ、あ、あの、えっ、えっ?」


 少年は刀を腰に提げた鞘に収めると、私の体を両手で抱き上げた。俗に言うお姫様抱っこの体勢だ。


 異性に初めてそんなことをされた私は、変な声が出てしまった。重くないかな……って、そんなこと考えている場合じゃない。


 バケモノが残存する全ての触手を使い、私達に総攻撃を仕掛けて来る。


 少年は私を抱えながら地面を飛び上がり、建物の屋根に乗り移った。


 その尋常じゃない身体能力に私は驚きながら、目上にある少年の精悍せいかんな顔を見つめた。


 イケメンだ。尋常じゃなくイケメンだ。


 さっきまで私達が居た地面はバケモノの触手によって抉られて、これまた大きなクレーターが出来上がっていた。


 あそこに私が居たままだったら、今頃土のシミになるくらい体をグチャグチャにされていたに違いない。


「変だな。触手の攻撃の際、遅れて強い衝撃が加わってる。衝撃、ソレがアイツの能力かな。だからあんなクレーターができるわけか」


 少年はバケモノの攻撃を分析しながら、愉快そうに独り言を呟いていた。


 バケモノは私達が屋根上にいると気付くと、狙いを定めるようにして触手をしならせた。


「ちょっと動き回るから、しっかり掴まっててね」


「え、ちょ───」


 少年が私を抱き抱えたまま隣の屋根に飛び移る。遅れて触手が私達のいた屋根を攻撃して、そこに大きな衝撃を与えて風穴をあけた。


 飛び回る少年を追いかけて、触手が何度も攻撃を仕掛けるが全て当たらずに躱されてしまう。


 そのあまりに早過ぎる少年の動きに、私は振り落とされないよう必死に少年の服を掴んだ。


 少年は私の体から片手だけを離すと、腰にある刀を抜いてバケモノに向けた。紫という珍しい刀身の色をしたソレを振り翳して、口ずさむ。


「〈能力半回のうりょくはんかい作液さくえき〉」


 その意味不明な言葉を放った瞬間、少年の持つ刀身から謎の液体が滲み出てきた。


 刀身と同じ色をしているその液体を一目見て、私は連想してしまう。


 まるで毒物みたいだなと。


 少年は液体を滲ませた刀を振り翳したまま屋根を飛び跳ねて、バケモノに向かって落ちていった。


 バケモノは触手を伸ばして、近づいてくる少年に総攻撃を加える。少年はその攻撃を空中でかわしながら、嬉々とした表情でバケモノに迫っていった。


 何度も体をかすめ通る触手に私は死ぬ思いで叫びながら、涙目で下にいるバケモノを見下ろした。


 少年は片手で強く私の体を支えると、天井に掲げた刀をバケモノ目掛けて高速で降り下ろした。


 刀から滲み出ていた液体が空中に飛び散り、一つの斬撃となってバケモノの頭に到達する。


 斬撃はいとも簡単にバケモノの体を真っ二つに引き裂き、そこら中に血の花火を撒き散らした。


 その光景を目の当たりにした私は、叫ぶのを忘れて目と口を大きく開けながら硬まった。


 少年は地面に着地すると、抱き上げていた私をそっと立たせてくれた。


「怪我はないかい。って結構体擦りむいてるね、大丈夫?」


「大丈夫、です」


「そっか。まあ大事に至らず良かったよ」


「あの、助けてくれてありがとうございます」


「礼を言う必要はないよ。これが仕事だから」


「仕事?」


「うん仕事。それより君、アレが何処の誰だか分かる?」


 少年は真っ二つになったバケモノを指差しながら、私に訊ねてきた。


「身元がわからないと後で面倒なんだよね。君の知り合いだったりしないかな」


 少年の言葉の意味を理解した私は、青ざめた顔でバケモノの死体を見つめた。


 収容所に連れて来られた者は、エボルシックという病気を発症していて、体が異形とす。病気が末期症状に至ると、完全なバケモノになってしまう。


 私を襲ったあの六本足のバケモノは、少し前まで知性を持ち合わせていたはずの、元人間なのだ。


 その事実に気付いてしまうと、私は目の前のバケモノが誰なのかなんとなく分かってしまった。


 バケモノと同じ色の紋様を首筋に宿した、女性がいた。私の隣の部屋に住んでいた人だ。


 思えば出会った時、かなり具合を悪そうにしていた。バケモノは隣の部屋から現れたし、あの人でほぼ間違いないだろう。


 私は少年の質問に、震えながら答えた。


「多分、私の隣に住んでた人です」


「そっか。ありがとう」


 少年は刀を鞘に戻すと、私を見て微笑んだ。


「俺は帰るけど、君はどうする? 一人で帰れるかな」


「……あ」


 私は気の抜けた声をあげて、住宅地の方に顔を向けた。倒壊したアパートの無惨な姿を見つめて、絶望する。


「家が、ない」


「あー、それは残念だね。でもまあ収容所ではよくあることだよ」


「私、どうすれば」


 あのアパートに思い入れなど全くないけど、住む場所がなくなるのは非常に困る。あんな汚らしい部屋でも、野宿よりは幾分いくぶんかマシだ。


「行くあてがないなら、ついてきなよ」


「……何処どこに?」


「俺達の基地にさ」

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