第51話 これより楽しいことはないのではないか

 五年前、ジュナス教暦1548年。レフレーズが十四歳、エロイーズが十二歳の年である。

 当時の二人は屋敷をこっそり抜け出し、街を散策するのがなによりの楽しみであった。


 怪しい路地裏にも平気で立ち入るので、両親から強めに注意されてはいたが、二人ともちょうど反抗期が来ていたお年頃だったのだ。

 今から思えば、当時のチューベローズ家は、両親が事業で得たなかなかの資産があったようなので、レフレーズとエロイーズも営利目的の誘拐などに遭う危険性があった。


 実際、小さい頃は引っ込み思案だったエロイーズは、冷静で怖いもの知らずな性格となり、それを見守るレフレーズも、思い返せば危険に対して鷹揚過ぎたきらいがある。

 案の定と言うべきか、そんなある日、姉妹は明らかに物騒な場面に出くわした。


「ふざけんな! この、身の程知らずのクソガキが!」


 路地裏の基準では割と羽振りの良さそうな男が、みすぼらしい格好をした少年を、憤怒の形相で一方的に蹴りつけているところだった。

 頭を抱えて丸くなる防御姿勢で耐えるしかない、少年の姿は可哀想だったが、レフレーズには姉として妹を守る義務がある。


 見ないふりをして通り過ぎようとしたが、妹ちゃんの姿が傍らから消えていた。

 エロイーズは当時から、アンニュイな物腰に似合わず、かなり向こう見ずなところがあったのだ。


「ちょっと、ちび! あんたどうしたの!? なにやらかしたのよ!?」


 エロイーズの微妙な言い回しのニュアンスに引っ掛かった様子で、男が振り向いてきた。

 しかし、それはレフレーズも同じだ。普通に初対面の相手のはずなのである。


「あ!? なんだ嬢ちゃん、このガキの知り合いか!?」


 頼むから慎重に答えてよー、エリーちゃん、という、レフレーズの念波が伝わったわけではないだろうが、エロイーズは狡猾な態度を選択した。


「場合によるわね。事情によっては、聞かなかったことにしてこのまま立ち去るわ」


 つまり、そういう打算的な女の役柄キャラを演じ始めたのだ。

 姉妹ごっこと称したお芝居遊びを続けているせいか、エロイーズはとても機転の利く妹に育っていた。


 レフレーズとしては嬉しい反面、ハラハラもする悩ましさも抱えていた。

 とにかく男はエロイーズを、「そういうタイプの知り合い」と解釈したようで、理解の笑みを浮かべながら、いささか口が軽くなる。


「なるほどね。ならこのガキにとっては残念な結果になりそうだな。

 どうもこうもねえよ。すれ違いざまに、俺の財布を盗もうとしやがったんだ。

 涙ぐましい処世術、なんて言い訳は通らねえぞ。貧すれば鈍するなんて言葉がある。本当に困窮してるんなら、それなりの……」


 なんだか訊いてもいないことを語り始めた、プライドが高いタイプなのだろう。

 もちろんエロイーズもまったく聞いていない様子で、いきなり甲高い声を上げる。


「えっ!? てことは、ちび、あんた、そのお兄さんから盗もうとしたわけ!?」

「……そうだよ」


 少年が初めて口を利いた。寒い季節でもないのにマフラーを巻いていて、前髪とそれでほぼ表情が隠れている。

 レフレーズには、その理由がわかった。彼はおそらく孤児だ。冬物を仕舞う箪笥どころか、ものを置く家すらないのだろう。


 どう助けるつもりだろうと、レフレーズが妹に眼を戻すと、エロイーズは少年を真剣かつ、親身に聞こえる口調で叱り飛ばす。


「ダメじゃないの、そりゃ殴られるわよ! 知らない人から盗もうとしたら、それはもう普通の泥棒になっちゃうでしょ!」

「……どういうこった、お嬢ちゃん?」


 話が見えない様子で、半ば睨みつけてくる男に、エロイーズは臆せず大嘘を吐く。


「ごめんなさいお兄さん! わたしたち、『泥棒ごっこ』をしていたの! その子、身内で遊んでいるってことがわからずに、お兄さんにちょっかいをかけようとしちゃったみたい。ごめんなさい! 子どもの遊びなの、許してあげて!」


 それは通らない、というレフレーズの予測は当たった。が、同時にエロイーズがそれも想定済みだというのもわかっている。

 あの日から伊達に十年以上、やんちゃな仲良し姉妹をやっているわけではない。似たような場面も何度か経験している。


「どうしようかねえ……? ところで嬢ちゃん、それはこのガキの知り合いだと認めたってことだよな? このまま帰すわけに……」

「はい時間切れ〜」


 無慈悲な宣告とともに、エロイーズの固有魔術が発動。男の眼を正確に狙い、彼女の指から蜂蜜が発射される。

 同時にレフレーズも、固有魔術の乳液で同じことをしている。そして地面に伏せたままの少年も、反撃のチャンスを伺っていたようだ。


「ふんっ!」


 這いつくばった姿勢から、しなやかな全身のバネで跳ね起きた彼の後頭部が、男の顎を狙いすまして打ち抜いた。

 男が倒れて呻いている隙に、少年はまっすぐ姉妹に駆け寄り、二人の手を掴んで駆け出す。


 速い速い速い、速過ぎる。レフレーズもエロイーズもまだ、足の速い男の子をかっこいいと感じる年頃だったが、彼のは度を超えていた。

 後から思うと、それでもかなり抑えて走ってくれていたようなのだが、限界以上の速度で足を回した姉妹は、ようやく止まった路地で息を整える。


「悪い、ちょっと飛ばしすぎた」

「あ、あんたね……ハァ、ハァ……おれ、おれいのひと……ゼー、つ……ハァ、横腹痛い」

「運動不足なんじゃねぇのか、お嬢様?」

「な、なんですっゲホゲホ! ちょ、お姉ちゃんなんか……なんかこいつに、言って……」


 そんなことを言われても、レフレーズもエロイーズと同じく息を切らしている最中である。

 ようやく姉妹が口と頭の回転を取り戻したところで、少年の方が先に喋り始めた。


「お前ら、危なかったぞ。もし俺が実際盗みの常習犯だってことを、あいつが知ってたらどうするつもりだったんだよ」

「第一声がそれ!? ていうか常習犯って、マジモンの犯罪者じゃない! やっぱあんた戻って、もっかいあいつにボコされてきなさいよ!」

「エリーちゃん、さっきの演技と正反対なこと言ってるよ!?」

「だ、だってお姉ちゃん、このガキが!」

「ガキとか言わないの。まーまー、お互い助かったんだからさー、もういいでしょー?」

「ぐぬぬ……!」


 納得がいかない様子のエロイーズと、二人を宥めようと笑うレフレーズから、少年は視線を外す。

 マフラーで口元を隠しながら、小さい声で、しかし確かに言うのが聞こえた。


「わ、悪かったと思ってるよ。助けてくれて、ありがとう……」


 えー、なにこの子照れてるー? かーわーいーいー♡ 許しちゃうー♡ と、結構本気でキュンときたレフレーズだったが、妹はそうはいかなかったようで、眦を決して怒ったままだった。


「は!? なにその態度!? あんたね、謝ったりお礼を言うなら目を見て言いなさいよ! わたしたち年上のお姉さんなのよ、見たらわかるでしょ、お、ね、え、さ、ん!」

「え、エリーちゃん、それならそれでちゃんと年上の余裕を見せないとだよー……」

「ダメよお姉ちゃん、甘い顔したら! こういうちんちくりんのガキンチョはね、舐めた態度を直さないと、ずっと生意気なままなの! あんた見た感じ七、八歳かそこらよね? わたしたち、特にお姉ちゃんなんか七つくらい……」

「十だよ」

「……え、十歳下ってこと?」

「違う、ばか。お前うるさいよ、小さい方」

「誰が小さい方!? あんたよりまあまあ大きいわよ!」

「エリーちゃーん、大人の余裕ー」

「わ、わかったわよお姉ちゃん……で、なんて言ったっけ、ちび?」


 少年はいささか機嫌を損ねた様子で、口を尖らせて名乗った(かわいい)。


「ちびじゃない、おれはヒョードリック・ドガーレ。って言ってもこの名前も、自分で勝手に付けたんだけどな。

 齢は十歳。これもたまたま俺が生まれた年を知ってる奴がいるからわかってるだけで、おれたちの仲間内では珍しいことだよ」

「嘘!? 十歳にしてはちっちゃくない!?」

「もー、エリーちゃんはデリカシーないなー。あのね、たぶんこの子は栄養状態が悪いから、エリーちゃんの知ってる十歳の男の子よりは、発育が遅れてるんだと思うよ。この子が悪いんじゃない、簡単に言うと社会が悪い」

「お姉ちゃん、なんか急に危ないこと言い出してない!?」

「この社会そのものがわたしたちの敵ー」

「カジュアルに反社宣言してるけど!?」


 二人のやり取りを横で見ていた少年……ヒョードリックが、ちょっとバカにした様子で鼻で笑ってくる。


「おれにしてみれば、お前らの方が栄養を蓄えすぎてるけどな」

「誰がデブよ!? 見なさいこの猫系獣人に相応しいボディライン!」

「へーそうなんだ、俺も猫系獣人だよ」

「一緒だねー。わたしはレフレーズ、この子は妹のエロイーズだよー」

「そっか、よろしくな」

「わたし挟んで話進めないでもらえる!?」


 やはりエロイーズが騒いでいるが、ヒョードリックの言うことも一理あると、レフレーズは思った。

 十九歳と十七歳になった今でも(主にナゴンから)よく言われるが、十二歳と十四歳だった当時から、姉妹は齢のわりにスタイルが良かった。


 エロイーズは身長こそ全然伸びないものの、メリハリのある体つきになっていっていたし、レフレーズもまだまだ成長中だった当時から、すでに結構胸が大きかった。

 これは黙って家に帰ればごはんが用意されているという、餌待ち雛鳥状態の恩恵を受けられるからこその贅沢なのだ。


「……」


 ヒョードリックは不意に黙りこくったと思ったら、おもむろにダンスを披露し始めた。

 なかなか綺麗な振り付けである。よくわからず見ていた姉妹だったが、終わったようなのでレフレーズが尋ねてみる。


「上手だねー。でも今のはなにー?」

「デカパイ感謝の舞」

「そんなよこしまな心からあんな美しい舞が出ることある!?」

「こ、このエロガキ……やっぱ今からでも教会に通報すべきなんじゃ……?」

「まーまーエリーちゃん、落ち着いてー。ヒョードリックくんも、なにか事情があって盗みを働こうとしてたのかもしれないでしょー?」


 歯噛みするエロイーズが暴れないよう抱きしめて止めるレフレーズに、不貞腐れた様子で話すヒョードリック。


「レフレーズは話がわかるな、エロイーズとかいうガキと違って」

「あん……! なっ……! ちょ……!」

「エリーちゃん一回怒るのやめて言いたいこと整理しようねー」

「ふんぬぬぬ……!」

「……仲間に言われたんだ。あいつから盗んでこいって」

「え、なに、あんたいじめられっ子!?」

「こういうときだけ一瞬で整理できるのやめてエリーちゃーん」


 ヒョードリックはというと、余裕で鼻を鳴らしている。


「違うよ、逆だ。おれがのリーダーだから、せっつかれてやったんだ」

「こいつ……ら?」


 ふとレフレーズが顔を上げると、音も気配もなく、周囲の屋上に十人ほどの子ども達が集まっていて、姉妹を値踏みするように、じーっと見下ろしていた。

 しかし思いの外敵意はなく、ニヤニヤしつつ口々に話しかけている。


「また別嬪な姉妹を引っ掛けたもんだな、リーダー。ボコられた甲斐もあったね、ヒヒッ」

「てめぇ見てたんなら助けろよ!?」

「さしものヒョーも怒りで手元が鈍ったか」

「……まぁな、それは素直に反省だ」

「あいつら最近ほんと調子乗ってっかんなー、そろそろ我慢も限界だべ?」

「わかってる、だがもうちょい様子見だぜ」


 仲間たちから姉妹に視線を戻したヒョードの表情は、確かに堂に入ったものがあった。


「怖がらないでくれよ。確かにおれたちは盗みなんか平気で働く。でもなるべく悪い奴ばかり狙ってるし、殴って奪うのはしない。

 ここにいる奴らは、この街の孤児たちのリーダーで、今はおれが、そのリーダーたちのリーダーをやってる。

 なんでかっていうと、おれが一番盗みが上手くて、逃げ足が早くて、そんでもって超ビビりだからだ。ここではそれが美徳なのさ。

 暴力だってほとんど振るわないぞ、仕返しが怖いからな。でも例外はある。

 仲間をバカにされたり、傷つけられたりしたときだ。レフレーズ、エロイーズ」


 名前を呼んで指差してくる、そのまっすぐな瞳から、レフレーズは目を離せない。


「お前らは今日、おれを助けてくれた。おれはもうお前らを仲間だと勝手に思ってる。

 お前らをバカにしたり、傷つける奴らがいたら、おれに言ってくれ。

 おれたちは弱いガキだから、なにかしてあげられるかはわからねぇけど……少なくともお前らと一緒に怒ることはできる」


 優しい笑みを浮かべる、子どもたちの真ん中で、ヒョードは芝居がかった仕草で腰を折って、気障ったらしい台詞を言った。


「ようこそ、ゾーラの裏側へ……歓迎するよ、お嬢様たち」


 新しい場所に行って、新しい友達ができる。

 これより楽しいことはないのではないかとすら、今でもレフレーズは思っている。

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