第50話 この思い出はどんな香りに紐付けされているのだろう

 数日後。ヒョードが街中にある背中合わせのベンチに座っていると、背後に腰を下ろす者がいる。

 振り返らずとも誰かわかった。視界の端に入った裾は、黒服のものではない。だからこう話しかけた。


「ちょうどお前に会いたかったんだ、通りすがりの植物学者さん」

「そうか。だがお前が会うべきは俺じゃない。ここを訪ねてみるといい」


 言って、背もたれの下を通して渡された紙片には、市内の住所が記してある。

 どうやらそこに「竜」がいるようだ。礼の代わりに、好敵手としての礼儀を尽くす。


「お前らは俺たちを使って、〈巫女〉を穏当に退けてぇようだな」

「明察だが、気づくのが遅いとも言える。まぁそれで問題があるわけじゃないが……いちおう忠告しておくぞ」


 用が済んだのですぐさま腰を上げ、ベンチを軋ませる振動が伝わってくる。


「チャンスが無限にあると思うなよ、ヒョードリック・ドガーレ。こういうことももうこれっきりだ。俺たちがそこへついていくこともできない」

「おんぶに抱っこのガキじゃねぇんだ、そこまでしてもらう必要はねぇよ。どうも最近不甲斐ねぇとこばっかり見せちまってるが……」


 ヒョードは座ったまま腕を伸ばし、どこからともなくその掌に、グラジオラスの花が咲く。

 簡単な手品だが花言葉の通り「努力」「用意周到」がなければ成り立たない。


「次は勝つ」

「ならいい」


 セルゲイが去るのを背中で感じ、ヒョードは右手の紙片と左手の造花を、固有魔術で同時に燃やす。

 記されていた住所にいる人物は、有名さゆえ知っている。


 どうやら今回の課題は、すこぶるシンプルな勝利条件のようだ。

 そしてセルゲイの忠告ももっともと思える。これが最後のチャンス、そう思って臨もう。




「いい匂いっす。美味しいっす」


 さらに数日後、水煙草屋〈紫紺の霧〉にて。店主のナゴン・バルザッシュは、依頼主のティコレットをカウンター席で待たせていた。

 今回のヒョードたちは、どうやら予告状を出したようだ。といっても相手の性質ゆえ、どちらかというと果し状に近いもののようだが。


 教会関係者なのだから、教皇庁に通報すればいいものだが、どうやら相手はそうしないらしい。

 すでにヒョード、レフレーズ、エロイーズ、三人揃って「竜の珠」とやらを奪りに出かけている。


 店で待ちたいというティコレットを接待している形である。初めて来店したとき、奥へ通す符牒として口にしたものもそうだったのだが、普通は複雑すぎて味わいがバラけてしまうはずの、四種混合フレーバーを、見事にまとめ上げるという離れ業をやってのける。

 それも一度や二度ならマグレで済むが、何度やらせても上手くやる。ナゴンの弟で用心棒をやっているガルサにも吸わせてみるが、やはり絶品という感想が返ってくる。


「やるな、あんた。さすが尋香精ガンダルヴァってことか」

「だねえ。いっそうちのスタッフになってくれないものかねえ」

「うーん、わたし根なし草っす。そして〈巫女〉様と結婚した暁には、身の回りのお世話をして差し上げたいっす」


 水煙草を吸うガラス器具から口を離したかと思うと、今度は愛用者であるナゴンの甘い息に惹かれて近寄ってくるティコレット。

 齢はナゴンの一つ下の十九だそうだが、童顔であり言動もどことなく幼いので、そんな気がしない、ヒョードと同い年くらいに思える。


 さすがに息を直接嗅がれるのは恥ずかしく、わちゃわちゃ避けていたナゴンだったが、ふと疑問に思って尋ねた。

 ティコレットはまた新しい四種ブレンドフレーバーを開発する傍ら、いつものおっとりした口調で答えてくれる。


「しかしそんなにいい匂いがするのかい、その〈巫女〉って奴は」

「するっす。わたしやナゴンさんの、三つか四つだけ年上のはずなんすけど、そうとは思えない大人の色香を感じるっす。四種どころじゃない、複雑な味わいが、高い次元で結実しているんす。そうっすね、強いて言うならこんな感じっす」


 言いながら彼女が練り上げたのは、比喩抜きで眩暈めまいがするほどかぐわしい、リンドウベースのフレーバーだった。

 そもそもリンドウの花はあまり匂いがしないのだが、微かに香るそれを引き出し引き立てる独特のチョイスから、毎日死ぬほど配合を繰り返しているナゴンであっても、嗅いだことのない独特なニュアンスが生じている。


「な、なるほど……これは蠱惑的だね」

「でしょうっす。でもこれはあくまで近い感じを再現しただけっす。本物はもっと繊細なんすよ。特に……」


 彼女なりに興奮していた様子のティコレットだったが、不意にうつむいて呟いた。


「わずかに香る悲しみのニュアンスを込めて、調和を保つことがわたしにはできないっす……あのバランスをこの手で作り出せたら、少しはあの人を理解できるかもしれないのに」

「悲しみ、か……伝え聞く人物像からは想像がつかないけど、あんたが言うならそうなんだろうね」

「そうなんす。その……はずなんす。師匠は言うんす、そんなはずはない、彼女はとても楽しそうだよって。確かにそうだけど、そうじゃないんすよ。わたしにはわかるんす。でもそれを伝えられないし表現できないんす。もどかしいっす」


 人狼の嗅覚による感情感知は相当な高精度を誇るが、あくまで生理的化学物質を検出できるだけとも言える。

 ナゴンやガルサが母に持つサトリの読心能力にしても、言語化された思考を読み取ったり、次の動作を予測する程度に留まる。


 顕在化している表層からはわからない、ひょっとすると〈巫女〉自身すら理解していない、彼女の奥底に眠る根源を、ティコレットは嗅ぎ取っているのかもしれない。

 リンドウの花言葉は、「勝利」「正義」「誠実」「高貴」「自信」と華々しいものが並ぶが……「あなたの悲しみに寄り添う」というのがある。


 しばらく試行錯誤を繰り返していたティコレットだったが、やがて駄々っ子のように地面に寝そべった。


「んぐああああおおお! やっぱ今のわたしには無理っす!」

「なんちゅう声を出すんだい……まあ再現する必要もない、本物を嗅げばいいさね」

「そうしたいっす! 大人しく待つっす!」


 勢いよく起き上がった彼女は、今度はまるで別のフレーバーを合成し始めた。

 ベースはハニーとミルク。そこにいくつかのスパイスを混ぜている。


「それって、もしかして……」

「〈鬼火ウィスプス〉の二人を合体させたやつを錬成しようとしてるっす!」

「表現がホラーなんだよ……んー、でもあの子たち、もっとふんわりしてないかい? そんなにとんがってて熱い感じじゃないと思うけど」

「正確に言うと、『〈亡霊ファントム〉のことを考えてる〈鬼火ウィスプス〉』のイメージっすね!」

「あーなるほど……まー見てたらわかるさね、恋しちゃってるってこと」

「恋しちゃってるっすねー。かわいいっすね。馴れ初めを知りたいっす」

他者ひとの恋路に興味があるタイプには見えないけどね」

「それはそうなんすけど、わたし自身が恋しているっす。もっといろんな子の感情のサンプルがほしいっす。知りたいっす。興味があるっす」

「マッドサイエンティストみたいなこと言い出してらあね」

「それでも構わないっす。〈巫女〉様の心を理解したいっす。ついでに〈巫女〉様に恋するわたし自身の心も把握したいっす。師匠が気にかける、〈亡霊ファントム〉の心も気になるんすよね。〈鬼火ウィスプス〉と〈亡霊ファントム〉がどんなふうに出会って、どうやって絆を育んだのか知りたいっす。わたしも〈巫女〉様とそんなふうになりたいっす。好きだって心が通じなくたっていい、大切だって気持ちが伝わればそれでいいんす。もし知ってたら教えてほしいっす、けっして口外しないっす」


 徐々ににじり寄って来たと思ったら、最後はナゴンにしなだれかかるようにお願いしてくるティコレットの様子に根負けする。


「わかったわかった、とんでもない情熱的な女だねあんたは。まあ、あれだね……本腰入れて調べたらわかっちまうようなことだから、詮索しないと誓うなら話してもいいかね」

「誓うっす! わたしの種族、妖精ではないんすけど、彼らと同じように『契約』ができるんす。〈亡霊ファントム〉〈鬼火ウィスプス〉の正体・出自に繋がりうる情報を、一切他言できなくできるっす」


 実際にやってみると、妖精族がそうするのと同じ反応光を観測できた。

 読心能力による裏付けもできた、信用してもいいだろう。


「まあこれもあたしらが聞いた話だから、一部正確性に欠けるかもしれないけどね」

「心の声を聞いたはずっす、全部正しいっす」

「あの子ら自身の記憶や認識が間違ってる可能性もあるってことさ」

「あ、それは確かに……子供だと特に」

「だからあくまで話半分に聞いてほしいかね。えー、あれはなんかいい感じの天気の日……」


 気持ち良く語り始めたナゴンを、黙っていた弟が邪魔してくる。


「姉貴、そういうのは本人たちの了承を取らなきゃダメだろ」

「だろうけどねえ。姉の方はいくらでも話してくれていいよーって言うし、妹の方は照れまくって絶対話さないでって言うのがわかってるんさね」

「じゃあ妹の方に配慮して秘せよ……」

「知りたいっす!」

「ほら、この調子だから」

「あー……俺知らねえぞ」


 ガルサから消極的な同意を得たため、改めて口火を切るナゴン。


「〈亡霊ファントム〉はやたらとガードが固いから、全部〈鬼火ウィスプス〉視点になっちまうんだけどね。

 彼らが出会ったのはとある路地裏だったとの話だ……それはガキの頃の〈亡霊ファントム〉が、珍しく盗みをしくじったときのことだった……」

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