第2話 ひと時の安静

 ――昨晩。

 二千二十年、十月九日。


 木の香りが妙に落ち着く。私が住んでいるこの屋敷の外観は普通だが、内観は奇妙な造りだ。和風の部屋がある中、洋風の廊下や部屋。廊下には洋風のランプが灯るが、和の部屋には襖や障子で仕切られている。違和感たっぷりの造りだが、これにも慣れた。


 今夜は特別やることがないので、部屋と時代が妙に合わない近代テレビをつけた。しかし、チャンネルを変えてもつまらない番組ばかりですぐに消した。


 私はあまり電子機器に強くない。使うとすればスマートフォンくらいであろう。あれは実に便利だ。と、いっても用途はニュースを見るくらいだった。


 なまじ冷気を感じるので、障子を閉めようとすると、外に何の知らせもなく明月今日間が手を振っていた。


 私は彼を見るとため息をつく癖がいつの間にか身についている。

 その仕草を見た彼は、苦笑いをして屋敷の入り口の方へ歩いて行った。


「何か用かしら? 何の知らせもなくずけずけと来るのは、些か困るのだけれど」

「まあいいじゃないか。どうせ夕食も食べていないんだろう? そこのコンビニで適当に買ってきたから食べようか」


 図星を突くのはいいのだけれど、だからと言って知らせもなく唐突に来るのは迷惑だ。と、苦情をつけても、普段からこの調子なのだからどうしようもない。


 彼は悪気があってやっているわけではなく、純粋に私の体調を気にしての行動なのであまり怒ることはできない。私は食事を取らなかったり、ずっと寝ていたりと不規則且つ不健康な生活を送っているからだ。


 それにしても、殺意を常に抱く私の傍にいる彼は、多分普通の感性ではないのであろう。


 今日間は屋敷に入り、私しかいない見慣れた玄関でも綺麗に靴を揃えてあがる。彼は非常に几帳面で、根っからの真面目気質な性格の持ち主だ。


 誰にでも優しく接するような、柔らかい人相。勉学に精通しているわけではないが、地頭がよく、私たちの仕事に関しての知識は豊富だ。ニ十の歳。


「そうだ。結、今日は誰かをやった?」


 特に躊躇することなく、少し微笑みながらオブラートに聞いて来るので、私はハッキリと言い返した。殺意についてだ。

 仕事仲間なので、殺意については当然知られている。隠すつもりもない。


「特に殺してはないわ。そもそも外に出てないもの。そういえばキョーマ、あれは買ってきた? あれよ、あれ。えっと……」

「結は変わってる。年齢は変わらないはずなのに、時折長年生きたおばあちゃんみたいだ」


 ハッキリとした言葉が出てこず、今日間からは老人扱い。特に何も感じず、話しながらリビングに到着する。一先ずソファーに座った。


 今日間はテーブルにコンビニで買ってきたらしい飲食物を、ビニール袋から適当に並べた。握り飯を四つほど、具材はたまごとチーズの二種類。マイナーな具材を買う彼は、意外なところで頭のねじが飛んでいる。私の殺意の件もそうだが、今日間の脳みそがどうなっているのか、いつか覗いてみたいものだ。


 飲み物はアイスコーヒーと、私が喉につっかえて名前を忘れていたホットコーヒー。どちらも缶だ。ホットを私の方に放り投げて、冷める前に飲めということらしい。


 カチっと蓋を開けて、コーヒーを頂く。どうして温度を感じない私がアイスではなくホットを求めるのかはわからない。心身が温まってほしいという私の知らない心理的願望なのか、普段から温かいものを求める傾向があった。


 一段落ついて先の会話の続きをする。


「私は私のことは普通だと思うわ。変わっているのはキョーマ、あなたよ」

「どうしてさ。結の方が凄く変わっていると思うけど? 特に恐怖しないところとか」

「そっくりそのまま言い返すけれど、恐怖しないのはキョーマの方よ?」


 何を言っているか分からない顔をされて、私は呆れた。


 いつ他人に危害を加えるかわからない私が傍にいるというのに、全く危機感を持っていない。もし、殺意が過敏な時に今日間が来たら私は多分、害を与えてしまう。


 それをわかって尚、今日間は私と深く関わろうとする。不思議で、狂っている思考の持ち主だ。


 私の呆れ顔に、今日間は首を少し傾げた。少々沈黙の後、彼は理解したようだ。


「ああ、殺意の件ね。僕は結に殺されても別に恨まない。自分から関わりに行っているからね。責任を他者に押し付けることは絶対にしない。それに、結の殺意は僕、好きなんだ」

「…………」


 私は黙った。


 殺意を肯定してくれるのはいつだって今日間くらいだった。彼は殺意に物怖じせず、いつだって私の隣に立ってくれる。


 殺意に恐怖しない仕事仲間は何人も見て来たが、こうやって気にかけてくれて、隣にいてくれるのは今日間だけだ。だから、私は強く反論できない。いや、本来ならば彼のことを思うからこそ、私から遠ざけるべきなのに。彼の優しさに甘えるばかりだった。


 私たちの関係は長いように見えるが、明月今日間との出会いは三年前ほど。三つ数えた年なので、あまり付き合いが長いとは言えない。


 彼は初対面の頃から、今と変わらない感じ。


 今日間は太陽のような存在で、多分こちら側の世界にいてはならない人だ。彼は明るく、私は暗く、彼が陽ならば私は陰の気を持っている。


 いけない。陰陽思想が染みついている。悪い癖だ。


「ねえ、一つ聞いてもいいかしら?」

「ん? 結が確認してから聞くって珍しいね。いいよ」

「殺意が好きってどういうことなのかしら。言葉だけ聞くと変人としかわからないわ」

「うーんと。結の綺麗な殺意。純粋な殺意。決して望んでいない殺意。要は結の害意がなくて、真っすぐな殺意が好きなんだ。これだけ聞くと狂っているかもしれないけど」

「そうね。うんざりするほど頷くしかないわ。あなたは変わっている」


 聞いた私がばかだったらしい。求めていたわかりやすい解などなく、今日間の狂った考えには到底辿りつけない。今日間の思考に追いつくには、長い年月が必要だと再確認した。


 まあ、今日間の視点で私を見れば、同じ現象が生れているだろう。私の思考など、今日間には到底理解できないはずだ。彼にわかってもらうには、一生分では足りないと思う。


 だから、他者の思考を理解するということは、不可能に近いことだ。


「ねえ、チーズとたまごどっち食べる?」

「両方試してみるわ。案外、キョーマといる楽しみの一つなのかも」


 尋ねられたので、両方食べてみることにした。

 今日間は私の言葉に、うむ、と首を捻っている。


 ホットコーヒーをテーブルに置き、食するには勇気のいる握り飯を頂く。ソファーに座って、脱力する今日間が美味しそうに食べているので大丈夫であろう。


「キョーマ。もしあなたを殺そうとしたら、あなたはどうするのかしら?」

「どうもしないよ。言っただろう。自分から関わりに行っているから、君を恨まない。それに、君は僕を殺せない。だろう? だけど――」


 今日間は口を噤んだ。

 真剣な表情でアイスコーヒーの缶を眺めている。


 私は今日間が今から言うことが、何となくわかった。ただの勘だが、当たっている自信はある。今日間はいつも自分のことを顧みず、他人の事ばかり考えるのだ。そんなこと、無駄なことに過ぎないのに。


 彼は表情を弛緩させ、微笑みながら言った。


「結がもし誰かを傷つけようとしたら、僕は全力で止めるよ」


 やっぱり、と内心で呟く。彼はそういう人なのだ。

 いつも私が人道を外さないように心配する。しかし、殺意という人道を反する種が撒かれている以上、私はいつか罪を犯すのだろう。


「…………」


 私は何も言い返さず、握り飯に小さく噛みつく。

 結局、彼のその言葉が私の安静に繋がっていると言えなくもないわけだ。

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