ない袖は振れぬ

風光

第1話

明治末期の四谷界隈。


『 御袖一振り 五拾銭也 』


と書かれた看板が暗い道の真ん中に照らし出されている。




色褪せた茶色い着物姿の男がやってくる。


「旦那、うちでお袖を振っていって、女房子供に美味いもんでも喰わせてやんな」


通り過ぎる人々に声をかけるのはどうやらその店の客引きのようだ。


あからさまに軽薄そうな客引きの声にゆるりと男は反応し、伏せていた顔を上げる。


看板の”五拾銭”という文字が目に入る。


五拾銭(五十銭)は、現在の価値にして約1万円。


男は立ち止まって胸元に手をやり、手持ちが十銭もないことを確認する。


「おや旦那、立派なお袖をお持ちですなぁ、是非当店で一振りして行ってくださいよ」


釣れた魚に手を伸ばすがごとく、手を擦りながら客引きが近づいてきて男に声をかけた。


「何を言う、この着物を手放す訳にはいかん。」


「旦那様こそ、何をおっしゃる。お着物を手放す必要なんざぁございませんよ。なぁに、店の中でちょいと袖を振ってくださるだけでいいんでさぁ。ちょいちょい、ちょいっと、こんな感じでね。振っていただいた分のお袖は頂くことになりますがね。」


客引きは低くかがんだ姿勢のまま片手を上げると、男の前でひらひらと袖を振って見せた。


「なに、袖を振るだけでいいだと?馬鹿なことをいうな。…一振りと言うのは、着物のことでなく、ほんに袖を一振りすることなのか?」


「さようでございます、旦那様。こんな立派なお袖をお持ちなんですから、羨ましい限りですわい。」


男は腕を上げて不思議そうに自分の袖を見た。


「この袖一振りが、五拾銭…。」


その日暮らしで、まとまった収入のない男にとって、五拾銭はそれなりの大金であった。


この袖にそんな価値があるとは思えないが、本当に五拾銭にもなるものならば、それはそれで有り難い話だ。最近は思いもよらないものが商売になるものなのだな。

そう考えた男は、猜疑心を抱きながらも、ものは試し、と客引きに連れられて店の中へ入っていった。


***


「いらっしゃいませ。」


男の来店を告げる番頭の声に、にこやかで小太りな主人が暖簾の奥からいそいそと出てきた。


「それでは、こちらの間へどうぞ。」


案内されるがままに広い店の廊下を主人について歩いた先の、奥の方の部屋に男は通された。


立派な金屏風に、大きな陶磁器の壺などが並べられ、真鍮やビードロなど、数々の豪華な調度品が目を引く、十畳ほどの明るい客間だった。

三人の女中と二人の下男が部屋の隅の方に座して待っていた。


「ここで何をされるのか、とご不安に思われるでしょう?」


店主は男の着物の襟袖を正しながら、柔和な声で訪ねた。


「袖を一振りとは、どういうことなのだ?」


怪訝そうな顔で部屋の様子を見まわす男に、店主は時折なにやら女中たちに指示を出しながら答えた。


「なぁに、旦那様にとっては、大したことではございません。 」


女中たちが寄ってきて男を囲み、男の袖の長さや幅などをやたらと丁寧に計測しはじめた。

男の腕を支え、袖を固定する者、長さを測り小さい声で数字を読み上げる者、その数字をしかと書き留める者、見事な役割分担がなされ澱むことなく流れるような作業に身を任せていくうちに、男は何やら自分は大切に扱われているようだと考え始めた。


「この後、旦那様にはこのお部屋で、その立派なお袖を振っていただくだけでございます。

振っていただいたお袖を頂戴する代わりに、相応のお代を支払いさせていただくだけでございます。」


男はますます困惑したが、袖の長さを測っているからには、袖の長さによってお代とやらが変わってくるのだろうということを察した。

果たして自分の袖は、十分に長かったろうか。

ふと部屋の入口の脇にある姿見に自分の姿が映っているのを見た。

女たちが甲斐甲斐しく扱う袖の揺れるのを見ながら、化粧の匂いが鼻先をくすぐった。

こうして見ると、この着物もそれなりの価値があるもののような気がしてきた。


やがて女たちは書き留めた台帳を店主に渡して部屋の隅に戻った。

ふむふむ、と目を細めて台帳を見た店主は何やら書き込んだ後に、男に向き直った。


「御袖丈は、一尺三寸(現在の約49cm)でございます。」


男は戸惑った。

それが長いのか、短いのか、良いのか悪いのか、全く見当もつかない。


「そうか。」


しかし、内心の動揺を悟られまいと男は平然を装いながら、短く返した。


「本日は、いかほどお振りいただけますでしょうか?」


恭しく男の足元に手をついて、軽く頭を下げたまま店主は訪ねた。


「一尺三寸だといくらになるのか。」


「お袖まるごとで一振りいただけますのであれば、五十銭にあいなります。」


「半丈であれば?」


「生来、二十銭になりますところ、旦那様は初めてのご利用となりますので、今後ともご贔屓いただけますならば今回に限り、三十銭とさせていただく心づもりでございます。」


恭しく頭を下げたまま返答する店主と、同様に手をつき頭を下げた体制で控える5人の女中・下男を見下ろした。


豪華な部屋の中に一人だけが立ち、かしずかれている姿が鏡に映っていた。


しかし、男はバカではなかったので、警戒心を緩めず、答えた。


「では、この度は、半丈でいかがか。」


「ははぁ!半丈、承りましてございます、ありがとうございます!」


「ありがとうございます!」


深々と頭を下げる店主に続いて、女中と下男が声を揃えて頭を下げた。



「これ」


と店主が合図すると、女たちが再び男に近づき、右袖のちょうど半丈のところで折り目を付け、小さな宝石の装飾が施された金の留め具で固定した。

女たちが下がると同時に、下男たちが静かに丈笛と小鼓を奏で始めた。


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