俺に捧げる物語。

しろすけ

一日目

少女と死神

 とある一国のスラム街。暴動はしょっちゅう、薬物、殺人、この世の汚濁と混沌全てを煮詰めて撒き散らしたかのような街。


 人々は日々を生きるために違法に手を染め、そうでない者は町中を漁り、野犬と同じ食料にありつく。


 生活困窮などの鬱から逃避するために薬物に手を出した人々はゾンビのように狭い道を徘徊し、倒れ、死体と言う名のゴミと化す。


 何も考えず適当にかき集めたかのような住宅が密集し、日光は落書きだらけの壁に阻まれ、街全体にどんよりとした黒い空気が落ちている。


 そして、たった今少女が手にした、肉が全くついていないただの骨と化したチキンにも黒い影が落ちた。



「こんにちは。僕は死神。突然だけど、君の魂を貰いにきた」



 骨を手にしたまま少女は空を仰いだ。黒いボロ切れのような布に身を包んだ何者かがゆっくりと空から舞い降りた。まさしく死神と強調するアイテムである大きな鎌をだらんとした無気力な右手に携えている。


 深くフードを被っているため、顔は見えないが、声から男だと推測できた。


 死神と名乗った男は近くの石階段に腰掛け、少女を見下ろす形で足を組んだ。彼が手に持った大鎌が風を切り、少女の鼻の先に突きつけられた。


 少女は微動だにしない。フードの男を鋭い眼光で見つめている。


 数十秒経ち、先に動いたのは少女だった。鎌など気にも止めず、先ほど拾った骨を口元まで持っていってしゃぶりついた。肉の味は微塵も感じられなかった。舌打ちをして、骨を背面に投げる。フードからは目を離さない。骨が地面を打つ音。



「反吐が出る」



 少女が初めて発した言葉はそれだった。



「お前が本当に死神だったとして、何故俺を選ぶ? 帰るべきところもない、両親もいない、スラムで惨めに生きる可哀想な子供とでも思ったか? 俺が死を望んでいるとでも? そう思ったんだったらお門違いだ、帰れ」



 フードが生臭い風に揺れて口元が覗いた。薄い唇は弧を描いている。



「もっと無愛想かと思ったけど。饒舌だね」



 少女は眉をひそめた。下から舐めるように睨みつける。鎌に曇り空が反射して映っている。



「君に拒否権はないよ」

「は、そうかい。残念だが俺はまだ生きる。こんな生活だが死にたいと思ったことはないね」

「ふーん、そう……」

「お前、知り合いは?」

「……? 死神仲間ならいるけど」

「そのつまらねえ設定の中身を訊いてるんじゃねぇよ」

「ちょっと、ちょっと待ってよ。信じてなかったの?」



 死神が呆れた声を出す。


 少女は短パンの後ろに隠していた短剣を密かに握り締めた。



「あんなにカッコつけて登場したのに? 僕が空から現れたの、見てたでしょ?」

「なんの悪戯だ? 今時死神だなんて娯楽に飢えてるそこらのガキでも笑わねえよ」



 全てが気に入らない。面白くない嘘も、飄々とした態度も、見下された図も、余裕たっぷりの笑みも、勝手に命を奪うと言って聞かないところも。


 スラムの悪臭を運ぶ生臭い風がまた吹き、フードをめくりあげた。息を呑む。端正な顔立ち、生気を感じられない白い肌、艷やかな金髪、どこまでも透き通るブルーの瞳。歳は少女と同じ、16歳前後だろうか。


 少女の眉間のシワが深くなる。このスラム街の何処に立たせても良い絵になるだろうと確信できるほどの美形。


「まあいいや」と、死神が呟き、鎌が遠ざかった。


 少女は動かない。短剣は依然として握りしめている。



「信じないならそれでいいよ。それに、魂を貰うのは今日じゃないし」



 組んでいた脚を直し、ぶらぶらと宙を蹴り始める。しかし、その蒼い瞳は真剣そのものだ。



「君は五日後、自ら魂を差し出すだろう。そういう運命だって決まってる」

「……はあ。馬鹿馬鹿しい」



 鼻を鳴らす。わざとらしく死神が眉をひそめる。いちいちが癪に障る。



「命が欲しかったら自分の首でも掻き切ってみたらどうだ?」



 美形少年の生首に価値が付くかは皆目見当も付かないが、少しは高く売れるかもしれない。



「はは、僕が死んだら意味がないだろう?」

「死ぬんだな」

「え? あぁいやいや、死なない死なない。神だから。え、冗談で言ったんでしょ?」

「本気だ。なんでもいいから目の前から消えろ。何度言ったら分かる」



 「えー、だって――」死神は唇を尖らせ、鎌を握り直した。その手に力が籠もるのが分かった。全身の毛が逆立ち、少女はほぼ本能的に短剣を抜き取り、胸の前で構えた。瞬き一つ、死神が少女の視界から消えた。風だけが真横を過ぎ去った。


 人間が出せる動きではない。気配を感じ、反射的に振り返る。



「――だって、こんな物騒なものを持ってて殺意もマシマシな相手に背中を向けるわけにはいかないでしょ?」



 鎌を肩に担いだ死神が片手でつまんでいたのは少女の短剣だった。


 否、短剣の刃の部分だった。柄だけとなった短剣はしっかりと少女の手に収まっている。刃を無くし、みすぼらしくなったそれは切るどころか鈍器として扱うことも難しいだろう。


 彼は人間離れした速度で少女に肉薄し、この狭い道の中で大きな鎌を器用に扱い、短剣を正確に真っ二つに切断してみせ、更に少女の背後に回った。



「死神っていうのはあながち嘘ではなさそうだな」



 柄だけになった短剣の成れの果てを死神に投げつけた。いとも簡単に鎌で叩き落される。刃をその場に捨て、死神は恐ろしく優美に微笑む。



「やっと信じてもらえた?」



 冷や汗が顔の輪郭をなぞる。圧倒的な力量差。もし彼が本気になれば確実に勝ち目はない。待っているのは死だ。



(まだ……死にたくない)



 生唾を飲み込み、口を開く。



「ああ。信じよう。俺に何をさせたいんだ? 目的は何だ?」



 死神は腰に両手を当てて頬を膨らませた。



「だからぁ、さっきも言ったじゃん。君の魂を貰いに来たって。それ以上もそれ以下もないよ」

「……お前が、死神だったとして」

「正真正銘の死神ですー」

「……魂を奪われて俺が死ぬことになんの意味がある?」

「奪われるんじゃなくて君がくれるんだよ。そう決まってる。もう、本当に話聞いてた?」



 今すぐその美形に右ストレートを決めてやりたいが、我慢する。


 死神の長いまつ毛の奥でブルーの瞳が次第に陰っていっていた。視界の端に写っている空はいつの間にか暗くなり始めていた。



「色々答えてあげたいけど……今日は時間がない。ごめんね」



 少女の意識が一瞬空に向いたことに気がついたのか、死神は頭上を仰ぎながら申し訳なさそうに言う。



「はぁ? 夜が来るから一眠りってわけか? 呑気なもんだな」

「あはは、僕たちは寝ないよ。でも、今日はもう一緒にいられない」

「明日も来るみたいな言いぶりだな」



 冗談めかして言うが、死神はにっこりと頷いてみせた。顔が引き攣る。



「うわー、すごい嫌そう」

「は、楽しみで仕方がないな」

「ほんとかなぁ」



 夜がゆっくりとその帳を下ろし始める。死神はひらひらと手を振った。



「じゃ、また明日来るから。あ、あと――」



 思い出したかのように拳の側面を手のひらに軽く打ち付ける。



「――意味はあるよ。君と僕との、これからの五日間」



 死神の鼻につく笑みは引っ込んでいた。唇の両端を引き下げ、上瞼を半分落とし、視線を下に向けていた。まるで何かを悲しむかのような顔。彼の本質が初めて垣間見えた気がした。



「……答えになってないな」

「あはは」



 打って変わり、死神は無垢な笑顔を見せ、身を翻し、文字通りその場から姿を消した。移動した様子もなく、ただ忽然と消えた。


 数分警戒し、死神の気配が消滅したことを完全に把握すると、少女はその場にへたり込んだ。張り詰めた空気、いつ殺されるか分からない緊迫感、確かに彼から殺意は感じなかったが、それでも怖いものは怖かった。



『君は五日後、自ら魂を差し出すだろう。そういう運命だって決まってる』



 死神の甘い声が脳内で繰り返される。



「死ぬものか……」



 力が籠もった小さな独り言はスラムに溶けていく。


 それにしても、と少女は顔を上げる。


 死神の、鼻につくが人懐っこい笑顔がフラッシュバックする。記憶の中のブルーの瞳に吸い込まれそうになる。



「既視感がある。あいつと何処かで会ったか……?」



 誰も答えない。少女は頭を振った。あの死神に思考を支配されていること自体が気に食わなかった。


 腹が鳴る。昨日から何も食べていない。


 立ち上がり、歩き出すと、ぼろぼろの靴に骨が当たった。先ほど少女が放り投げた、チキンの残骸だった。


 拾い上げ、土も気にせず舐めてみる。


 やはり肉の味はしない。

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