薄紙がはがれるようにぞわぞわと記憶がよみがえった

仲瀬 充

薄紙がはがれるようにぞわぞわと記憶がよみがえった

目を開けると同時に甲高かんだかい呼び声が耳に飛び込んできた。

梨子りこ!」

声の主の女性は私のすぐ側の椅子に座っていた。

窓辺に立っていた男の人も駆け寄って来る。

けれど二人の笑顔は私の発した言葉でひきつった。

「誰、ですか?」

私が身を横たえているのは病室のベッドのようだ。

どうした事態なのだろう、何も分からない。

目の前の夫婦らしい男女はもちろん、私自身が何者かさえも。

私の親だと言う夫婦が語った。

私は北海道の実家を離れて都内の大学に通う娘で名前は細川梨子。

住んでいるマンションから飛び降りたのを通行人が目撃して救急車を呼んだ。

あちこちに擦過傷はあるが命に別状はなかった。

運よくマンションの塀がわりの植え込みに落下したのだそうだ。


「いったい、どうしたっていうの?」

問われても身投げの原因はおろか何も思い出せない。

付きっ切りの二人が私の親だという認識だけは時間の経過とともに確かになっていく。

その両親は退院が迫った私をマンションに戻すのを不安がった。

「川口の困ったおばさんに頼んだらどうだろう」

「姉さんに?」

「うん。義姉ねえさんは一人暮らしだし大学もあそこからなら通えるし」

退院するとまずは私が一人住まいをしていたマンションに連れられて行った。

4階建てで私の部屋は2階だが飛び降りたのは屋上からだそうだ。

マンションから川口市の「困ったおばさん」の家に向かった。

細かな話は済んでいたらしく両親は挨拶を済ますと札幌に帰って行った。


二人きりになるとおばさんは正面から私を見た。

「久しぶりだね、梨子。私のことは思い出せるかい?」

「すみません」

「そりゃ困った、困った」

母親より一回り近く年長のこのおばさんは親戚の間では「困ったおばさん」で通っているという。

と言っても人格に問題があるわけじゃなく、「困った、困った」という口癖からだそうだ。

家は2LDKの平屋で、その一室にマンションの私の荷物は既に運び込まれていた。


おばさんの夕食は遅い。

7時に米をといでガス炊飯器をセットしてから買い物に出る。

中華料理店をやっていた旦那さんによれば料理はガスに限るという。

コンロも火力の強い昔ながらの鋳物製だ。

でも旦那さんが亡くなって店をたたんでからおばさんが作るのはみそ汁だけということだ。

総菜は近所のスーパーで買うほうが手っ取り早いし安あがりとの考えかららしい。

おまけに7時半からは3割引きになるのでそれに合わせて夕食を遅くしているのだった。

「どれ、梨子行くよ」

「うん」

二人でスーパーに歩いて行ってパック入りの総菜の好きなものをそれぞれ選ぶ。


部屋にいてもすることがないので居候を始めて数日後大学に行った。

学生証によれば私は経済学部の3年生だ。

2月下旬で大学は春休みに入っているけど新年度に備えて図書館で勉強しよう。

恐る恐る経済の専門書を開いてみたが何とか理解できる。

けれど学内の人たちとの人間関係は思い出せない。

ということは私は対人関係で悩んでいたのだろうか。


実際、変な人間も寄って来た。

同じ高校出身だという別の学部の女の子だった。

「梨子ちゃん、大変だったね。大丈夫?」

心配げに言った後で彼女は私にお金を貸しているという話を切り出した。

私は用心して作り話をした。

「ごめん、覚えてない。いつのこと? 私、貸し借りは全部メモってるから帰ったら調べてみる」

彼女はとたんに慌てだした。


自殺未遂と記憶喪失の噂が既に広まっているようで寄って来る人間はほとんどいない。

そんな中、図書館にいた私を見つけて駆け寄って来た男性がいた。

同じ学部の1個先輩で高坂雄二と名乗ったが話を聞いて驚いてしまった。

私の婚約者だと言うのだ。

大学近くの公園に連れて行かれ、並んでベンチに座った。

「このベンチ、覚えてない?」

私は首を振るしかない。

「梨子が3年に進級して同じゼミになった時から付き合い始めたんだ。梨子が卒業したら結婚する約束をしてたんだよ」

「そうなんですか」

「でね、僕はもうすぐ3月20日が卒業式だ。梨子も春休みだから卒業前にどこか旅行に行こうってこのベンチで話したんだけどなあ」

「すみません、大事なことなのに覚えてなくて」

何だか悲しくなって涙がぽろぽろ出てきた。

高坂さんは私の肩に手を回して泣き止むまで肩を抱いていてくれた。

これまで何度もそうしたことがあるような優しい抱き寄せ方だった。

その後も高坂さんと会うたびに私は包みこまれるような安らぎを感じた。

ある時、レストランで高坂さんはポケットから小箱を取り出して開けて見せた。

「旅行先でのサプライズに婚約指輪も用意してたんだ。記憶が戻るまでお預けだね」

いたずらっぽく言って小箱をしまった。


高坂さんとほぼ時を同じくして同じ経済学部の同級生という男性が学生食堂で声を掛けてきた。

私とは友達付き合いの仲だと言う。

「それならあなたに聞きたいことがあるんだけど、えっと?」

「僕は竹下道夫。僕らは梨子ちゃん、道夫くんって呼び合ってたよ。聞きたいことって?」

「ゼミの高坂さんて人が私と婚約してるって言うんだけど」

「それ本当だよ。僕なんかと違って高坂先輩は大きな会社の御曹司おんぞうしだから玉の輿こしだってみんなに羨ましがられてる」


私は道夫くんの言い方が気になった。

「僕なんかと違って?」

道夫くんは頭をかいて言った。

「実は僕も梨子ちゃんが好きだったんだ」

また引っかかった。

「好きだった?」

「去年3年になっての夏休み前、経済の僕ら3年生だけの飲み会があったよね。その帰りに送って行った時、マンションの下で梨子ちゃんを抱きしめようとしたんだ」

なぜだか胸がチクリと痛んだけれど続きを促すために無言で頷いた。

「そしたら『そんなことできない』って振られてさ。そのちょっと前から梨子ちゃん、高坂先輩と付き合い始めてたんだってね。それ知ってからは清く美しい友達付き合い」

道夫くんは外国人みたいにお手上げのポーズをとった。

「ま、結婚相手として高坂先輩と僕を比べたら快速列車と鈍行みたいなもんだからね。だけど不思議だ。梨子ちゃんが記憶を失ってるからかな、こんなことも平気でしゃべれるなんて」


「じゃもっと話してよ。何でもいいから」

高坂さんと違って道夫くんには遠慮ぬきで突っかかっていきたくなる。

でもそんな感情の起伏が変に快くもある。

「バイクの後ろに梨子ちゃんを乗せてツーリングしたこともあるよ。ファミレスに寄った時が面白かったな。運転で疲れてたんであんみつを頼んだんだ。梨子ちゃんはコーヒー」

「それで?」と私は身を乗り出した。

「そんなに期待しないでくれよ。ウエイトレスが運んで来たんだけど、あんみつを梨子ちゃんの前、コーヒーを僕の前に置いたんだ。それだけの話だよ」

「なあんだ」

そう言って体を戻しながらも私は思った。

ウエイトレスのてまえ私たちは見つめ合って笑いをこらえたのではないか。

そして道夫くんの目を見ながら私は彼に友達付き合い以上の感情を抱きはしなかったか。

そんな気がしないでもないということは記憶が回復し始めているのだろうか。


図書館通いの傍ら高坂さんや道夫くんと時々会いながら私は日を過ごした。

そして3月に入って高坂さんの卒業が近づいてきた。

両親に電話すると高坂さんとの交際は以前に私から聞いていたという。

けれども私自身は記憶が戻らず気分が憂鬱になっていく。

「焦ることはないさ。何か月、何年かかろうと僕は気長に待つよ」

高坂さんはいつも優しくそして紳士的だ。

二人で会って家の前まで送ってくれる時、婚約しているというのに別れ際のキスも迫らない。


ある日、大学から帰ると玄関先でおばさんが屋根を見上げていた。

「おばさん、ただいま」

「ああ梨子か。困った、困った」

「どうしたの?」

「さっき建築業者の人が通りかかってね、屋根の一番上のむねがはがれかかっているってさ」

言われて私も見上げたがスレート屋根と棟の継ぎ目のどこにも隙間があるようには見えない。

「無料で点検しますって言うんだよ、断ったけど」

「ちょっと気になるわね」

「そうだろう? 工事ねらいで適当なことを言う業者もいるからね」

困った、困ったと呟いておばさんは家に入ったがもちろん困っているふうではない。


おばさんには「困った」という口癖のほかにもう一つ癖がある。

着ているセーターや洗濯したセーターの小さな毛玉をひまさえあれば指で摘まんで取る。

電動毛玉取りが百円ショップにあると教えてあげても取り合わない。

「一つ一つが重ねてきたごうみたいに思えてね」

毛玉を取りながらぽつんと漏らしたことがある。

母から聞いた話ではおばさんには一人息子がいるとのことだった。

高校卒業後、跡を継がせるために店で中華料理の修行をさせていたそうだ。

「姉さん夫婦があんまり厳しく当たるもんだから飛び出してしまって。岩手だか山形だかで日雇いの仕事をしてるって聞いたけどもう30はとっくに過ぎてるんじゃないかしら」

毛玉を取り続けるのはおばさんにとって贖罪しょくざいの儀式のようなものなのだろうか。


起きて朝食をつくって食べ、掃除と洗濯を済ませる。

昼ご飯の後はテレビを見たり散歩をしたり。

夕方に洗濯物を取り込んで買い物に出かけ、夕食後は風呂に入ったりテレビを見たり。

判で押したようなおばさんの毎日を見ているとふさぎがちな私の心にゆるやかな風が通う。

生きるってことはそれで十分なのだと諭されているように思えてくる。


「ご飯も仕込んだし、梨子、行くよ」

連れだって歩きながら私は前から思っていたことを口にした。

「おばさん、私、朝はトーストにしていい?」

「なんじゃ、パンが好きなのかい。最初からそう言えばよかったのに」

「おみそ汁つくってくれるから言い出しにくくて」

スーパーの総菜売り場の手前でおばさんが指さした。

「ほら、マーガリンはここだよ」

トーストにこだわりのある私は遠慮がちに言った。

「バターを買っていい? マーガリンより高いけど風味がいいから」

遠慮がちに言ったのはおばさんが倹約家だからだ。

割引の総菜を買うのもそうだがお茶もおばさんは年じゅう麦茶を沸かす。

それに母が食費を月々どれくらいおばさんに送金しているのかも私は知らない。

「バターは溶けにくいから塗るのが面倒じゃろうに。まあ、好きにすればいいさ」

「ありがとう」

おばさんがあっさりOKしてくれたのでほっとした。

食パンも店内のベーカリーの山型のを買いたいが遠慮してメーカー品を手に取った。


午後から急に雨になった日、道夫くんが雨宿りに立ち寄った。

頭と肩が濡れている。

部屋に入れてタオルを出してあげた。

「ありがとう。マンションに泊めてもらった時みたいだね」

思いがけない話に心臓がドクンと脈打った。

「泊めた? 道夫くんを?」

「あの日は本当に嬉しかったなあ」

道夫くんはゴシゴシ頭を拭きながら屈託なく微笑む。

「どういうこと?」

私は緊張が解けない。

「賭けだよ、賭けに勝ったんだ」

「分かるように話して」

「梨子ちゃんと街をぶらついた後に送って行ったら雨が降り出したことがあったんだ。雨宿りに部屋に入れてもらったら今みたいにタオルを出してくれて。その後何があったと思う?」

私は道夫くんをじっと見つめた。

思いがけない話が思い当たる話に変わっていく。

重なった薄紙が1枚ずつはがれるようにぞわぞわと記憶がよみがえる。


「そんなににらむなよ、全部しゃべるから。梨子ちゃんはクローゼットの中で濡れた服を着替えたんだ。扉の陰から首だけ出して『のぞいちゃダメよ』って言ったのが可愛かったなあ。その後夕方だったんでチャーハンを作ってくれた」

(チャーハンじゃなくてピラフだったはず……)

「梨子ちゃんの料理を高坂先輩は毎日食べられるようになるんだねって言ったらスルーされた」

(高坂さんの話題は持ち出してほしくなかった……)

「で、暗くなったんで帰ろうと思ったんだけど、僕、急に寂しくなっちゃって賭けに出たんだ。『変なこと絶対にしないから泊めてくれないかな』って。そしたら頷いてくれて嬉しかった」

(あなたの寝息を聞きながら私は一晩中起きていた……)

「今思えば梨子ちゃんの信頼がほしかったんだって思う。高坂先輩との婚約の向こうを張って僕らの友達付き合いのきずなみたいなものを確かめたかったんだろうなあ」

(信頼や絆なんて、そんなもの……)


「僕の方からも聞きたいことがあるんだ」

道夫くんの口調が急に真剣になった。

「翌朝も雨が降り続いてたんで傘を借りて帰ったんだ。次の日大学で傘を返したんだけどその日の夜中に梨子ちゃんがあんなことになって。何があったのか、僕が泊まったことと何か関係があるのか、ずっと気になってるんだ」

私は笑顔と言葉をとりつくろった。

「まだ思い出せないけど道夫くんとは関係ないと思うわ」

道夫くんは安心したふうに腰を上げた。

そして玄関で靴を履くと傘立ての藤色の傘を指さした。

「これ、泊めてもらった時の傘だね。雨、止んでないみたいだからまた借りていい?」


玄関を出ると道夫くんは傘を開いてクルリと回した。

それを見て私は激しいめまいに襲われた。

見送りもそこそこに部屋に戻ってベッドに倒れ伏した。

あの日の道夫くんも同じだった!

2階の部屋から見下ろすと道夫くんがマンションのエントランスを出て傘を開くのが見えた。

そして2度3度クルクルと傘を回しながら歩き始めた。

賭けに勝ったと言う道夫くんにしてみれば私の信頼とやらが嬉しかったのだろう。

けれど私は遠ざかる藤色の傘を目で追いながら泣いた。


全てが思い出された。

道夫くんを泊めた前日に私は公園のベンチで高坂さんから婚前旅行の誘いを受けていた。

賭けに出たのは私のほうだったのだ。

快速列車に乗り続けるのか、それとも鈍行に乗り換えるのか。

私は思い切って途中下車を試みた。

そしてホームに一人取り残されてしまったのだった。

そしてふらふらとマンションの屋上へ……


記憶が戻ってからの数日、私はほうけたように家の中で過ごした。

おばさんは口には出さないけれどそんな私を気遣ってくれた。

でもある日の夕食後かかってきた1本の電話で私にかまってなどいられなくなった。

「はい、着払ちゃくばらいで結構です。はいはい、よろしくお願いします。お手数かけます」

おばさんは電話口でぺこぺこと頭をさげた。

「困った、困った」

炬燵こたつに戻ってきたおばさんは今回は本当に困っているようだ。

「ゆうパック……」

「え?」

「骨をゆうパックで送るんだとさ」

おばさんの一人息子は岩手の盛岡市で簡易宿泊所に寝泊まりしながら日雇いの仕事に出ていた。

その息子さんが先月2月、泥酔して居酒屋から帰る途中、公園のベンチで寝込んでしまい凍死。

戸籍不明者として火葬をすませたが調査の結果身元が判明。

ついては遺骨を引き取ってもらいたいというのがさっきの岩手県警からの電話だった。


私があれこれと慰めの言葉をかけてもおばさんの耳には入らないようだった。

「育て方が悪かったから……」

そう呟いたきりニットのこたつカバーの毛玉を一つまた一つと摘み取り始めた。

「先に寝るね」

私が炬燵から出るとおばさんは顔を上げた。

目じりにうっすらと涙の跡が見える。

「冷えるから部屋の戸をぴったり閉めて寝るんだよ」

「うん」

「梨子は夜中にトイレに行くのかい?」

「うーん、行ったり行かなかったり」

「じゃぐっすり眠れるように寝る前にしっかりおしっこするんだよ」


言われたとおりにしたにもかかわらず私は夜中に目が覚めた。

寝ぼけまなこでトイレへ廊下を歩いて行くとガスの臭いがした。

慌ててキッチンの電気をけると薬缶やかんを載せたコンロのガス栓のコックがきちんと締まっていない。

おばさんが麦茶を沸かした後締め忘れたのだろうか、危ないところだった。

元栓まで締めて窓を開け空気を入れ換えながら見回すとリビングに続くドアが半分開いている。

覗いてみるといつもは私の隣の部屋で寝るおばさんがリビングの炬燵で寝ている。

ということは……?

寝る前におばさんが私にかけた言葉を思い出した。

あれは私に覚られずそして私を道連れにしないためだったのだろう。

私はトイレをすませた後キッチンの電気を消した。

そして暗いリビングに入り炬燵に脚を入れておばさんの側で横になった。

おばさんは私に背を向けた格好のまま「ごめんよ」と小さく言った。

私はもっと小さな声で「ううん」と答えた。


2日後に北海道からのゆうパックが届いた。

「困った、困った」

息子の遺骨なのに他人ごとみたいな口調だ。

私は安心した、困ったおばさんの困らない声に戻っている。

おばさんは骨壺を仏壇の前に置いてろうそくを灯し線香をあげた。

私も座って手を合わせる。

お参りを済ませたおばさんはキッチンにって米をとぎ始めた。

その後ろ姿を見て私は涙ぐましくなった。

子供を亡くしても人はご飯を食べて生きていかねばならないのだ。

不意に道夫くんの顔が浮かんだ。

「賭けだよ、賭けに勝ったんだ」

彼は屈託なく笑ってそう言った。

おばさんも賭けに出たようなものだ。

私が気づくのが早いかそれとも……。

我が子の後を追いたかったおばさんにして見れば私の介入は不本意だったかもしれない。

でも結果オーライで誰も悲しむ事態にならなかった。

さあ、次は私がサイコロをふる番だ。

私は自分の部屋に入って高坂さんに電話をした。

そして記憶が戻ったことを伝えた。

高坂さんはひとしきり喜んだ後、かけなおすからと言って電話を切った。

数分後、待たせたねと電話がかかってきた。

「いいえ、いいえ。はい、来週の火曜ですね。東京駅11時24分発の金沢行き『はくたか561号』、分かりました」


リビングに入るとおばさんが買い物に行く用意をして待っていた。

私は息を胸深く吸って言った。

「おばさん、私、来週旅行に行ってくる」

おばさんは驚いたように目を見張った。

「そりゃ気晴らしにいいね。よかった、よかった」

よかった、よかった? 私は思わず吹き出してしまった。

「何がおかしいんだい?」

「ううん、なんでもない」

「じゃ、行くよ」

スーパーに向かって家を出るとおばさんは今度は定番のフレーズを口にした。

「困った、困った」

「何が?」

「あの子はマグロの刺身が好きだったから仏壇にお供えしてやりたいけど安くないからね」

「息子さんの供養なら中トロくらい奮発すれば?」

息子さんとの関連から2日前のガスの件を思い出した私は少し意地悪な注文を出した。

「息子さんだけじゃなく私にも何か、そうねえ山型の上等な食パンくらい買ってくれていいんじゃない?」

おばさんはちらりと私を見た。

「散財だね、困った、困った」

ぼやきながらもおばさんはきっと中トロの刺身とベーカリーの食パンを買うに違いない。

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薄紙がはがれるようにぞわぞわと記憶がよみがえった 仲瀬 充 @imutake73

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