ガラクタ地球儀

古賀大翔

1

 また兄から、独特な地球儀が送られて来た。

僕は玄関の側に置かれた段ボールに貼ってあった差出人を見るや否や、直ぐさまそれを察して家の中にカッターを取りに行った。玄関に戻って、段ボールの開け口に貼られた緑のテープを慎重に切り開き、その中の球体を包んでいる緩衝材を取り除くと、中からは世界の一つ一つの国の上に何かの料理の写真が載っている球体が出て来た。その表面の隅々を確認していると、何やら兄が貼り付けたらしい付箋を見つけた。

大地だいちへ 春は色々なものが旬になるから今のうちに色んな料理に挑戦してみると良いと思うよ、例えば寿司みたいな 海斗かいとより]

 付箋が貼られていた部分の北には日本列島が描かれ、近畿地方を覆うように寿司の画像が載せられている。どうやら世界各国の名物料理を載せた地球儀らしい。お隣の中国には、美味しそうな北京ダックの画像がぽつりと表示してある。

 僕はため息を吐きながらそれをダンボールに仕舞い、家の中に運んだ。段ボールを運ぶ僕を見て、廊下で鉢合わせた年下のルームメイトの川橋かわはしは笑った。

「また地球儀送られて来たんすか?」

 歯磨きをしながらにやけ、白い泡の奥に薄く黄色い歯が見えた。どうやら揶揄っているのではなく純粋にこの状況が面白かったらしい。僕は苦笑いして川橋に頷きながら、二階の自室に向かっていった。

 自室に入って、ベッドの上に段ボールごと地球儀を置いた。そこから辺りを見渡すと、空間に調和した場所や、辛うじて不自然でない場所、やや無理のある場所にまで、多彩な地球儀が既に僕の部屋の空間を不穏に侵食していた。幸い、まだこの状況自体が僕の生活に支障をもたらしている訳では無かったが、かえってそれが僕の薄い不安を駆り立てることも僅かにあった。

 机の右端に置かれている、陸地が白抜きされて海が真っ黒なモノクロの地球儀をぼんやり眺めていると、僕はふと考える。

 兄が地球儀の蒐集家になったのはいつからだっただろうか。少なくとも兄が中学生の時から、実家でその片鱗を彼の部屋に見ることはあったと思う。当時小学生だった僕は、何かしらの経緯で稀に兄の部屋に誘われた時、ショーケースの中に並べられたサイズや色合いの異なる艶やかで細密なデザインのそれらに、密かに興味を持っていたのを憶えている。

 段ボールから今日届いた地球儀を取り出し、部屋の中で置けるような場所を探してみる。しかし、無理なく置けるスペースは、もう明らかに部屋には残っていなかった。デスクの上に直径10cm程の小ぶりな地球儀が3個ある時点で個人的には違和感があるが、鏡台や窓枠の細いスペースの上にもサイズに応じた地球儀が置かれているのを見ると、置き場所の創意工夫をどうにか試みようとしたのであろう当時の自分が後から情けなく感じられる。唯一の救いであったクローゼットも、少し肩幅より広いくらいのサイズだったので、既にが内部の底を占めている。

 兄本人が地球儀について直接自ら会話で触れることは殆ど無かったのだが、僕が小学五年生の時に迎えた誕生日で、兄は人生で初めて僕に地球儀をくれた。

[海斗より 誕プレ]

 僕が朝起きると机の上に、そう端的に書かれた付箋が貼り付けられたまま置いてあったその地球儀は、今では何処に行ってしまったのかもう分からないが、それぞれの国の側に、その国にまつわるトリビアがとても小さい文章で書かれていた。例えばそれは「日本で食べる〇〇の8割は△△産」みたいなものだった。これは勉強机のスペースをそれなりに取っていたが、ショーケースの中に在ったものが自分で触れることに子供ながらに興奮して、よくその文章を読んで楽しんだり、勢い良くそれを回したりしていた。案外それが地理の勉強に役立ったりしたので、結局僕は中学生の時まで机の上にその地球儀を置いていた。

 あの時の兄はまだ、デザインに多少の違いはあれど、せめて海の色は青く、実際の陸地と同じ形の地形を映した、僕が良く知る形の地球儀を蒐集していた。僕があの地球儀で沢山楽しんだのを兄は知っていたからなのか、それ以降何かの節目の度に兄は僕に色々な地球儀をプレゼントしてくるようになった。

 僕はベッドに仰向けになったまま少し考えた後、結局手に余ると思って、地球儀を段ボールに仕舞ったまま一階に降りていった。

 リビングでは、歯磨きを終えたらしい川橋がパジャマ姿のままテレビを見ていた。テレビにはクイズ番組が映っており、「これらの花は何処の国の国花でしょう?」という問題文と共に複数の色鮮やかな花が表示されている。神妙な顔をしていた川橋は僕に気付くと、やはりまだ黄色い歯を剥き出しにしてにかりと笑った。

「どんな地球儀でした?」

「世界の名物料理が、国毎に描かれてたよ」

 彼は僕の返答に食い気味にああ、と頷いて控えめに笑う。その表情のまま彼は続ける。

「今度は何処に置くつもりなんですか。前先輩の部屋来た時、もう大分、際どかったっすよね」

「さあ。俺もさっき十分考えたけど、段ボールの中にしまったままだね」

 僕は川橋の角刈りの髪型を所在無く見ていたのだが、彼は僕がテレビを眺めていると思ったのか、テレビの方に向き直った。

「これ、どれがどの国花か分かりますか?」

「菊は日本だろ?あとは知らない」

「面白い兄さんが送ってきた地球儀には書いてなかった?」

「人のお兄さんを軽々しく面白呼ばわりするな。あとそんな趣向の地球儀は無いだろ多分」

 川橋は僕の返答にわざとらしく大きく笑って、その流れで欠伸あくびをした。

 小学生の頃の僕はまだ地球儀を貰う度に、普段触れないものに触れるようになることにロマンを感じて喜んでいたが、中学生になって暫く経つと、地球儀に特別な魅力を感じることは無くなった。しかし、それでも僕は兄が地球儀をくれることを表立って否定することは無かった。ちょうど高校生になって電車を使うようになった兄は、外出の幅が増えたからか以前よりかなりユニークな地球儀を集めるようになり、僕にプレゼントされたそれらに載っていることが事実たまに勉強の役に立ったり、面白い教養、発想に繋がることがあったからだ。僕が高校生になってから美術大学を志した時も、シェアハウスに住み照明デザイナーとして働いている27歳の今でも、兄がよこした地球儀は、創作やアイデアの種になることがあり、贈り物だということもあって何となく捨てづらかった。

 加えて、兄に地球儀以外の贈り物が無いのか問うことは、いつも寡黙で優しい兄のアイデンティティ自体を否定するのに等しい行為なのかもしれないという不安があった。兄の部屋には、たった一つの星のために形作られた偶像の集積以外、ほぼ特徴といえる特徴が無かった。強いて言えば兄が幼い頃買ってもらったのであろう漫画が、変色したまま学習机に付属した本棚のゾーンに杜撰に放ってあるくらいだった。

 もしかしたら前者の特徴が強すぎただけで、他にも兄の部屋には何か個性的なものがあるのかもしれないが、地球儀の他に、何かを渡してくる兄を僕は今も昔も想像出来ない。そんな兄は今年で30歳になり、遠くの大学で助教を務めている。

 一方美大での後輩で、大学院での研究の傍ら雑誌のエッセイを書いているという川橋は、原稿の締切や研究に忙殺される時以外は、大抵僕より自由な生活を送っている。当時からずっと仲が良いので彼の若干の生意気さは気にしていないが、彼の欠伸を見るとその生活が少しだけ妬ましくなった。

「今日出るの遅いだろ?羨ましいよ」

「いやこれが、稼ぎの都合上普段からエッセイのネタ探そうと過敏にならなくちゃいけないんで案外大変なんすよ、この番組だって何かネタにならないかなって考えてて」

 リモコンをテレビに向け画面をストップして、指を指したようなその姿勢のまま川橋は言った。

「24時間ずっと仕事みたいなもんですよ」

「達者なことも言うもんだな。僕今日仕事の関係でいつもより早めに家出るよ。いつものように家の戸締りはよろしく」

 そう彼に告げるだけ告げて、僕が二階にスーツに着替えに行こうとすると、川橋が割と神妙な顔で呼び止めた。

「待って。俺、今日の地球儀の置き場所思い付いたんすけど」

「いや言っとくけどこれ以上置いたら僕の生活不便になるから。ほんとに」

「キッチンに置けば良いんじゃないすか」

「はぁ?」

 自室という枠さえとうとう越えた川橋の発想に呆れ半分で僕はそう口にした。まな板で食材を切っている側に地球儀が在る光景がどれだけシュールか彼は恐らく想像していない。

「いやなんか、その日作る料理の着想をぱっと見で得れるかなって」

「それもあるかもしれないけど、一応美大に居る身だろ。そこそこ変な景色になること考えなかったのか」

 川橋は含み笑いをすると、リモコンを取って一旦ストップしていたテレビを再生した。なんとなく一枚上手に取られた__そんなことは無いと思うけれど__若干の悔しさを覚えた僕は、「取り敢えずは仕事の準備してくるよ」と言って、リビングを後にした。自室でスーツに着替えている時、僕はふと段ボールの中の地球儀を見た。日光が当たらず色が殆ど失せているそれには、何処かの北国の上に知らない魚料理が寂しそうに写っていた。


 パソコン上に表示された今回担当する家屋のモデルを確認していると、「ほい」と同僚の遠藤えんどうがデスクの上にオレンジジュースを置いてきた。

「ありがとう。丁度リフレッシュしたくてさ」

「コーヒーの方が良かった?」

「いや大丈夫、僕カフェインあまり受け付けないから」

 遠藤は隣に座ると、デスクの中から家屋の間取り図のコピーや家の中の想定イラストを取り出して僕に渡した。

「これなんだけど、吹き抜けのスペースがあるのを考えると、ある程度すっきりした色合いの照明が良いだろうな」

「うん、昼白色のシャンデリア辺りで良いね」

 僕が勤める会社では、クライアントの持つインテリアについての条件等に合わせて、照明を活用した最善の住居や会社内の空間を考案・提供するのが主な業務だった。

 以前は照明器具をデザインすることが照明デザイナーの主な仕事だったらしいが、近年ではこの会社も仕事の幅が広がっていて、照明器具のデザインを任せられることは稀だった。

 遠藤はデスク上のメモ帳に何かを素早く書き上げながら雑談を始めてきた。

「そうそう大地さ、最近東の方再開発が進んでるって話は聞いた?」

「新聞でちらっと見たよ。色んな建物が増えてるって話でしょ。時間が有れば立ち寄ってみたいんだけどね」

「あそこに図書館建ったんだってさ、行く?」

 僕はシャンデリアの模型をパソコンのモデルに組み込む。

「うーん、今は良いかな。読書はかなり前に止めちゃったからな」

「俺次の休みに行くよ。仕事の参考になりそうな建築内観の本とか探してみる」

 仕事熱心だな、と僕は遠藤を一瞥する。彼は顎髭を撫でながら目がちかちかするような照明の配線図を眺めたまま動かなかった。

 少々遠慮が無いかもしれないが、僕は遠藤から貰ったオレンジジュースを口にする。美味しいといえば美味しかったが、「自然な甘み」という表現が理解できるような、妙な甘ったるさが有った。何か開放感のあるものに包まれたい気持ちになり、席を立って窓の方に向かい、手指を組みながら腕を前方に思いっきり伸ばした。それは僕が仕事中に良くやるルーティンで、窓からは地平線の直前まで広がるビル街が活力をもたらし、地平線を張る山々は安息を与えてくれた。

 「さて」

 遠藤の声が聞こえた。振り向くと、まだ照明が決まっていないダイニングのイラストが遠藤のデスクにあり、その空中部分を遠藤は指でトントンと軽く叩いた。

「ここ、どうする。壁の色味からして、下にだけ光が来るようなペンダントライトの方が良いんじゃないか」

 僕はパソコン上のモデルとそのイラストを交互に見て、遠藤に告げた。

「吹き抜けを開放感あるようにしたんだから、多少さっぱりしたムードにした方が良いと思うけど…光は均一に届いた方が良さそう」

 遠藤は少し悩んだ素振りを見せ、メモ帳に何か書き込んだ。見ると、「大地」までは分かるが、それ以降は殴り書きされて読めなかった。「なあ、俺が会社入った時に思ってたよりさ」

「うん」

「この仕事って結構話し合うもんだな」

「まあ、黙々と隣同士つまらない作業するよりはましだろ」

「まあ楽しいには楽しいんだけど、ユーモアも会話術も無いからなぁ俺は」

 遠藤は寂しそうに微笑みながら、照明器具の写真が羅列されたプリントを取り出すと、光る球に棒がくっついたような照明の写真にシャーペンで大きく丸を付けた。僕はそれを見た時、兄の家にこの照明が在ったら、表面に地球儀の模様が線で描かれているだろうと奇妙な光景を想像した。

 お手洗いに、と告げて去った遠藤を見送った後、僕は窓の方を見つめる。窓からはビル街を取り囲む形で見えていた山の更にまた遥か向こうには、方角からすれば兄の住居が在るのだと、入社5年目にして初めて気付いた。

 その後、仕事が終わってシェアハウスに帰ると、キッチンからは珍しく何かを料理している音が聞こえた。普段川橋が料理を担当することは少なく、僕はまだ職場での遠藤との会話が不思議と記憶に残っていたので、気分が切り替わった。大抵はテレビ番組の音か、ほぼ何も聞こえないばかりなので少し高揚した気持ちになって中に入ると、川橋が魚の切り身に包丁を入れているのが見えた。それに加えて、若干むせるような酸っぱい匂いがした。それを嗅いで僕は直ぐに兄が送った付箋の内容を思い出した。

[今のうちに色んな料理に挑戦してみると良いと思うよ、例えば寿司みたいな]

 僕は何も言わず切り身を作っていた川橋に言葉を掛けた。

「ただいま…ってか、料理なんて珍しいねありがとう、どうして寿司なんか作ってんの?」

 僕の素朴な疑問に対して、川橋は不思議そうに顔を傾げて「なんか付箋が廊下に落ちてて、そこに寿司を作るといいって書かれてたので寿司にしてみました」と言った。普段簡素な料理しか作らない川橋は言い訳をしたつもりだろうが、今朝は地球儀を段ボールに入れて運んだ筈だから付箋が落ちる筈は無い。

「お前、僕の部屋入ったろ。だめだろそういのはせめてちゃんとメールとかで伝えなきゃ」

 そう僕は注意しつつも、何処となく仕事で疲れていて本気で咎める気にもなれず、取り敢えず陰鬱さを消すつもりで笑みを浮かべていた。

 川橋はすんません、と軽めに頭を下げて、切り終わった鮪を酢飯に乗せていった。妙に握り方が美味い気がした。僕は感心してそれを眺めていると、「お詫びに試しに食いますか」と言われた。最初は遠慮したが、二つ返事で了承し、取皿を出して醤油に漬けて頂くと、普通の寿司と全く変わらず美味しかった。それを咀嚼しながら、僕は地球儀で近畿地方を覆っていた寿司の艶を思い浮かべた。

「うまいな。何処で覚えたんだよその技術」

「天からの恵みっすね」

 川橋はあっけらかんと言った。僕は「天」という言葉にどう返していいか分からず、曖昧に破顔した。鮪の脂のコクが舌の根元に残っていた。

「そうだ、午前のクイズの話で」

 川橋が目を丸くして此方を見る。目に若干幅広いハイライトが宿る。

「先輩、アメリカの国花薔薇なんですって」 

 彼の灯りを反射した目を見ると、僕と違って彼だったらキッチンにあんな地球儀がある状況を本当に気にしないのだろう、という不思議な感慨を伴う確信をいつの間にか得ていた。

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