正義の味方 岸辺のグッジョブ

大門寺 悟(だいもんじ さとる)

第1話 三月 グッジョブの目覚め

 気がついたとき、おいらは空を飛んでいたんだ。

 おいらは全身が真っ黒な羽毛うもうに包まれていたんだ。おいらが翼(つばさ)に力を入れて周りの空気を強く叩(たた)くと、地球の重力が一気に消えたように感じて、おいらはぐいぐいと空を上っていったんだよ。


 不思議だ。おいらは確かに人間だったはずなのに。


 青空はどこまでも高く広がり、ところどころに白い雲がぽっかりと浮かんでいる。暖かい陽光(ようこう)を浴びながら、おいらは何度も大空を旋回(せんかい)した。おいらは自分の幸福感を世界中に宣言せずにはいられなくなった。だから、全身に力を込めて鳴いたんだ。


「カー!」(おいらは生きているんだぞ!)


 おいらはゆっくりと旋回しながら、遠くの山なみを眺めた。残雪(ざんせつ)が山肌(やまはだ)に白い模様を描(えが)いている。


 眼下(がんか)には山林が広がっていた。なだらかな稜線(りょうせん)が、くねくねと曲がりながら遠くの平野まで続いている。空を映して青白く光る谷川が、ゆるいカーブを描きながら山を下っている。


 やがておいらは羽ばたくのをやめると、空中の透明な滑(すべ)り台をゆるゆると下降した。

 おいらはひときわ高くそびえている杉の木のてっぺんに降り立った。すると枝先で遊んでいた二匹のリスが尻尾(しっぽ)を丸めてかけ降りていった。こつこつと幹をつついていた頭の赤いキツツキが、虫を探すのをやめて幹の陰に身を隠した。

 だからおいらは、今度はできるだけ優(やさ)しい声で鳴いたんだ。


「カー!」(恐れることはないよ。おいらはお前さんたちの敵ではないのだから)


 そのとき、周りの林から仲間たちが力強く鳴く声が聞こえてきた。おいらはそれを仲間たちが歓迎している声だと思ったんだよ。

 だがそれはまったくの誤解(ごかい)だった。


「カー! カー! カー!」(気をつけろ! 恐ろしい敵が近づいているぞ!)

 という警告(けいこく)だったんだ。


 空気を切り裂(さ)く翼の音が聞こえた瞬間、背中に激痛が走った。振り向くと鋭い眼光(がんこう)の敵が目の前にいた。タカだ!

 おいらは太いくちばしと脚(あし)を敵に向けて反撃の体勢をとった。しかし間に合わなかった。そいつはおいらの胸に爪を立てた。おいらの黒い羽が、血と肉の破片(はへん)と一緒に飛び散った。おいらは林の中を落下した。敵が追ってきた。


 そのときだ。小さなせせらぎの前に腰を下ろす一人の人間が目に入った。おいらはばさばさと翼を震わせながら、その人間めがけて落下した。着地した瞬間、体全体がヌルヌルと感じたのは、おいらが血だらけだったからだろう。


 敵はそれ以上襲(おそ)っては来なかった。


 動けなくなったおいらを救ってくれたのは、そこで絵を描(か)いていた男だった。地面に横たわるおいらを見る男の目は、慈愛(じあい)に満ちていた。おいらは、男の瞳(ひとみ)に吸い込まれるような気がしながら心の中でつぶやいた。

「この人間は大丈夫だ」

 血まみれのおいらは、そっと抱き上げられて近くの山小屋に運ばれた。男はおいらの全身を丁寧(ていねい)に拭き、水を飲ませてくれた。源流に近いせせらぎの水は、とてつもなく美味(おい)しかったよ。


 男と一緒に暮らし始めて一か月ほどたったある日、男は絵を描く道具をリュックに詰め込んで山を下りた。一日に一回、峠(とうげ)の終点までやってくるバスに乗って、町に向かったんだ。山を下る国道沿いの集落のあちこちに、美しく桜が咲き誇る季節だったよ。


 ふもとの町に鉄道の終着駅があった。男はがらんとした電車に乗り込み、いくつかの駅で乗り継(つ)いだ。そうしてやってきたのがM市だった。おいらもまた、男の後(あと)を追いながら、M市に引っ越して来たんだよ。

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