第32話 謎の女
新宿にはわかっているだけで23の迷宮が密集している。
いずれも凄腕の冒険者しか探索を許されない難所ばかりだが、その中で唯一、ダンジョン内部の地図が完成している迷宮がある。
かつてはそこに美しい庭園があったので、そのまんま御苑と呼ばれているが、新政府はそのダンジョンを冒険者の拠点として改装する計画を立てていた。
今、旧新宿御苑迷宮の中央部に一人の女魔術師がいた。
着飾るという行為を放棄したような、着のみ着のままのスタイルで、化粧はしていないし、髪の毛はボサボサだし、肌は荒れ荒れだし、なにより目が死んでいる。
彼女の名はカレンという。
母は新生の女神オリビアで、母譲りの魔力を持っていることで知られる。
基本、家に閉じこもって出てこない人だが、今回は母の勅命で来日していた。
理由は旧御苑迷宮を要塞化するため。
カレンが大きく手を広げてその手に強大な魔力を集める姿を、役人たちは緊張の面持ちで見守っていた。
女の右手にバスケットボールくらいの光の球が造られていくと、役人たちは次第に笑顔になり、互いの肩を叩いて喜び合うまでになったが、
「ダメです」
カレンの一言で、光の球は見る見るしぼみ、役人たちも溜息をつく。
失望のあまり膝から崩れ落ちる奴もいた。
「地下三階のB区画に不純物が多く見られます。これでは迷宮の安定化を図れません。改装作業は中止します」
そしてカレンは役人たちを端から端まで眺めたあと、つまらなそうに言った。
「これで三回目です」
カレンが迷宮を出て行くと、役人の一人が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「担当者を呼んでこい!」
そして上から下へと「お前のせいだ!」の説教が続き、最終的にすべての原因は掃除屋の不手際になる。これがいつもの流れ。
――――――――――――――――――――
旧御苑迷宮の一階にある掃除屋の待合室。
一人の中年女が担当者に声をかけられた。
「風間さん。ちょっと来て!」
「は、はい」
見るからに疲れ切った顔色の悪い女が、へこへこしながら担当の元に近づく。
その姿を見た他の掃除屋は安堵したことだろう。
あの女、やっと解雇されるぞと。
「掃除が終わってピカピカになっているはずの迷宮に不純物が見つかったおかげで、今日の改装作業もまた中断! いつまで同じことやってんだって上がめっちゃ怒ってるんだけど、調べたら不純物があった場所、あなたの担当のとこじゃん! ってかさあ、なんかトラブルあるところ、みんなあんたが関わってるじゃん!」
「す、すみません……」
「もう何度も言ってるけど、仕事が遅い。遅すぎるの。そのせいでみんなとばっちりを食ってる。風間さんのせいでみんなサービス残業の連続よ」
「すいません」
深く頭を下げ、その姿勢を維持する風間という中年女だが、謝って済むなら警察いらないのレベルで担当の女性は怒っていた。
「まず休憩が多すぎる。そんでもって長すぎる。前にも言ったけど、具合が悪いなら、病院に行ってよ。このままじゃ人も補充できないの。私が言ってる意味わかるよね?! 何回同じこと言わせんの?!」
要するに解雇したいけど、規約の問題でできないから、自分から辞めてくれって言ってんのに、なんで辞めてくんないの? と詰めている。
「ごめんなさい」
ただひたすら謝るだけ。
「あのさ……。あなた、家にも帰ってないらしいじゃん。ここの外で寝泊まりしてるって、マジなの? 新宿の外で寝泊まりって、よく死なないよね」
「……」
「そんなにお金無いならさ、もう掃除屋なんかしないで、どっかの施設を頼った方がいいと思うんだけど。このままだといつまでたっても改装が終わらないよ」
「それだけは!」
美しいまでのジャンピング土下座に担当者はびびる。
「お願いします! どうかクビにしないでください! 行くところがないんです! どうかどうか!」
担当の足にすがろうとする風間に、見ていた皆が引く。
結局、一人だけ残業して遅れている分を取り戻すことになった。
みんながこの女にイライラしていたので、誰も協力することなく帰宅した。
というわけで、旧御苑迷宮には今、風間さんしかいない。
他に誰もいないか、風間さんはしっかり確認した後、その場に尻餅をつき、疲労まみれの溜息を床にこぼした。
「やっと一人になれた……」
魔法を解く。
シワだらけで真っ青な中年女の顔は消え、ビックリするくらい可憐な若い娘が姿を現す。
知っている人がいたら、腰を抜かすだろう。
なぜならその子は、死んだとされている立花詩織だったからだ。
「ずっと見た目を変えていると、それだけで疲れてしまうな……」
だから掃除が進まない。魔力が体に満ちるのを待っていると休憩も長くなるから、余計に作業が遅くなる。
「素でいられるうちに掃除をやりきってしまおう……」
ゴシゴシと血で汚れた壁を雑巾でふくが、
「だめだ、まるで落ちない……」
考えてみれば、小さい頃から剣と魔法の訓練に、用兵術の勉強しかしてこなかったので、掃除の仕方というものがわからない。
最初は雑巾の絞り方すらわからなかったし、今もどの洗剤をどの汚れに使ったら良いか応用がまるでわからず、汚れどころか、新しく塗り直した白い塗装まで綺麗に拭き取ってしまって、メチャクチャ怒られたこともあった。
「情けない……」
我ながら、よくぞここまで落ちたもんだと思う。
あんな男の妻になるくらいなら死んでやると無理矢理逃亡したのは良いが、死んだ人間にされ、姿を隠して生きていかざるを得なくなった。
どうにか見た目や素性を変えることができたが、そこでお金がなくなった。
まず東京を出ていくためにお金を稼ごうと思った。
しかし正々堂々と仕事をできる立場にないから、掃除屋になった。
掃除屋というのは実に報われない仕事だ。
いくら働いても金が増えない。
その日の食費だけで精一杯。
これは掃除屋の賃金が低いからではない。(かといって高いわけでもないが)
基本掃除屋は出来高払いなのだが、掃除屋として生きていけるだけのスキルが詩織にないのだ。
モップをとってこいと言われて、モップって何ですかと聞いてしまう女である。
「私という奴は……」
一人になってわかること。
あまりに未熟。あまりに世間知らず。
多くの人間に支えられてきたのに全部自分の力で勝ち取ってきたんだと勘違いし続けていた。
まわりの助けがなければ、自分なんてこのザマだ。
そして詩織はああだこうだネガティブに考えた挙げ句、いつもの結論に辿り着いてしまう。
私がバカだから、あの崩落で大勢を死なせてしまったのだ。
「ああ……!」
力任せにモップを地面にこすりつけたところで汚れは落ちない。
結局、詩織はその日、徹夜で作業を続けた。
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