終章
終章・前編 黄泉より引き戻せしもの
首都の中央駅は、あの日と同じように人波でごった返している。
ヴィルヘルムとマクシミリアンはベンチに並んで腰かけ、汽車を待っていた。
沈黙を破って、マクシミリアンが口を開く。
「父さん……」
「どうした?」
「僕、本当にやっていけるかな、
ヴィルヘルムはマクシミリアンの頭をそっと撫でて、力強く答える。
「大丈夫だ、心配するな。お前は父さんの子だろう? 自分を信じなさい。ツェルニッヒ先生の言うことをよく聞いて、人の二倍も三倍も練習するんだ。分かったかい?」
「うん。僕、頑張るよ」
一瞬笑顔になったものの、すぐにまたその濃いブルーの瞳に不安の色を浮かべてマクシミリアンは黙り込む。そして少し間を置いて、おずおずと遠慮がちに呟いた。
「父さん……父さんは、僕のことが嫌いになったから僕と離れて暮らすことを選んだの……? 僕がそばにいると辛いから……」
「何を言うんだマクシミリアン! そんな訳ないだろう! 馬鹿なことを言うもんじゃない!」
みなまで言わせず、ヴィルヘルムは息子を抱きしめて叫んだ。
「父さんがお前を嫌いになるなんて、そんなことある訳ないじゃないか……。父さんはいつだって世界中で一番お前のことを愛しているよ。信じておくれ」
「本当? 父さん、本当に僕を愛している?」
「ああ、もちろんだ。マクシミリアン、お前は父さんの宝物だ。だからこそお前を首都に連れて来たんだよ。お前はこれからここで、音楽と共に生きるんだ。……確かに寂しい時もあるだろう。親のいないお前のことを軽んじたり傷つけたりする人もいるかもしれない。でもどんなに辛いことがあっても、お前にはヴァイオリンがある。お前が感じた涙も怒りも、全部音に乗せて表現するんだ。大丈夫だ、お前ならできる」
あなたは強い人よ、怒りも憎しみもやがてすべて飲み干して生きる力に変えてゆける人だわ……。あの時の言葉が脳裏に蘇る。僕は今、同じ言葉を息子にかけている。これでいいよな、エレノア? 僕の選択を正しいと笑ってくれるだろう? 答えてくれ、エレノア……。
あの朝、母親が崖から身を投げるという惨劇を目の当たりにしたマクシミリアンはそのまま気を失い、目覚めた時に六歳の少年の心は全ての感情を失ってしまっていた。一言も言葉を発さず、目はうつろで、アンナやヴィルヘルムの言葉も聞こえているのかいないのか、何の反応もなかった。食事も、着替えも、眠ることさえも自分からは一切動こうとせず、アンナのつきっきりの世話が必要だった。当然、秋からの小学校への入学など考えられなかった。
このままエレノアの後を追って黄泉の門扉の奥へ引き込まれてしまいそうだったマクシミリアンの精神をこちら側へ呼び戻したのは、他でもない、音楽だった。人形のように無表情なマクシミリアンの様子を見たマリアンヌ先生が、とにかく毎日うちへ連れて来るようにとヴィルヘルムに言って下さったのだ。先生はマクシミリアンに毎日ヴァイオリンを弾いて聴かせた。
数ヶ月後、奇跡がおこった。ある日マリアンヌ先生がヴァイオリンを弾きながらふとマクシミリアンの顔を見ると、彼の両目から大粒の涙が流れ落ちていた。驚いたマリアンヌ先生が弾くのを止めてマクシミリアンの頬に触れると、彼は堰を切ったかのように大声で泣き出し、そのまま泣き疲れて眠ってしまうまでマリアンヌ先生の胸に抱かれて号泣した。母さん、母さんと繰り返し叫びながら。その日から少しづつマクシミリアンは感情を取り戻し、ぎこちない笑顔も時折見せるようになった。そして今まで以上に寝ても覚めてもヴァイオリンを弾くことに没頭した。そんなマクシミリアンを見ていたマリアンヌ先生は、決然とした表情でヴィルヘルムに息子を首都の音楽学校に入れるよう強く迫った。
マクシミリアンに生きてほしいと思うのなら、好きなだけヴァイオリンを弾かせておあげなさい。あの子はこんな呪われた土地にいてはいけない。何もかも忘れて音楽と共に生きる道を与えてやるべきです。あなたができないと仰るのなら、私があの子の親になります、と。
改めてマクシミリアン自身からはっきりと音楽学校に行きたい、半年遅れでも構わない、すぐに追いついてみせるという意思を聞いたヴィルヘルムの行動は速かった。
彼はまず弟リヒャルトの死亡宣告を申請し、恩給の受取先を甥のマクシミリアンに指定した。これでマクシミリアンは16歳になるまで毎月いくらかの年金を受け取れる。
問題は音楽学校の学費だった。マクシミリアンは転入試験をパスしたが、残念ながら学費は全額免除ではなく、半額だった。今後十年間にわたってそれなりの金額が必要になる。だがヴィルヘルムは一切迷わなかった。
ヴィルヘルムはアッシェンバッハ領の隣町にある連合国の空軍の駐屯地へ出向き、アッシェンバッハ家の土地と屋敷を買ってくれる人間を探した。幸運なことに新大陸の実業家が名乗りを上げた。しかもその実業家はアッシェンバッハ家に伝わるマルベリーのリキュールの製造方法の権利と醸造設備まで一切譲り受けたいと言ってきた。なんでもその実業家の先祖は帝国からの移民で、彼の曾祖母はマルベリーのリキュールが好きだったのだそうだ。ヴィルヘルムにとっては渡りに船だった。こうして彼はかなりの高値で家屋敷を売ることができた。
ただ一つ心配だったのは領民からの反発だったが、それも拍子抜けするほど何も起こらなかった。帝政末期からその後の混乱の時代にかけて既に男爵家の威信など地に墜ちていたし、何より皆の間にご当主がヴィルヘルム様なら仕方ないという諦めにも似た空気が漂っていたのだ。ヴィルヘルム様はとてもじゃないが領主の才能がおありとは思えなんだし、戦争もあった。今更わしらの生活が何か変わる訳じゃない、これも時代の流れだろうと領民達は囁き合った。
不動産を処分した金の半分と少しぐらいで何とか音楽学校の十年分の学費が払えそうだったので、ヴィルヘルムはその金を首都の銀行に預け、マリアンヌ先生の父のツェルニッヒ教授にその金の管理を頼んだ。教授は快く引き受けてくれた。そしてヴィルヘルムは銀行の貸金庫にある物を預けた。……それは珊瑚をあしらった金の櫛……かつてリヒャルトがエレノアに贈った結婚祝いの品だった。
ヴィルヘルムはツェルニッヒ教授にこう頼んだのだ。マクシミリアンが一人前のヴァイオリニストになったら、この櫛を渡してやってほしい、と。教授は黙って頷いた。
こうしてマクシミリアンは半年遅れで音楽学校に転入が決まり、彼の行く末にはなんとか道筋がついたが、ヴィルヘルムにはもう一つ片づけねばならない問題があった。
母、ヒルデガルドである。
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