第12話 愛しい息子、マクシミリアン*

 *残酷な内容(流血)が含まれます。苦手な方はご注意下さい。



 汗びっしょりになって街から戻ってきたエレノアを出迎えたアンナは、その表情で全てを悟った。


「今回も手掛かりなしでございましたんですね」

「……ええ、先週と全く同じ回答だったわ。分かっているのはヴィルは東部戦線に送られたということだけ」


 アンナの胸が痛む。東部戦線は今回の大戦で一番激しい戦闘があったところだ。アッシェンバッハ領の住民で九死に一生を得て戻ってきた者に言わせると、兵士の血で文字通り地面が赤く染まったという。

「奥様……その……リヒャルト坊ちゃまのことは何か……?」

 遠慮がちに尋ねたアンナに向かって、エレノアは力なく首を横に振った。

「リヒャルトは空軍だから、ヴィル以上に情報がないのよ……偵察機から戦闘機のパイロットになったらしいということまでは突き止めたのだけれど……」


 その時、台所に向かってくる足音に気づいたエレノアはアンナに素早く言った。

が帰って来たわ。これ以上は」

 アンナが心得ているといった様子で頷くのと同時にドアが勢いよく開いた。


「ただいま母さん! ただいまアンナ!」

 そう言いながら飛び込んできた少年をエレノアは両腕でぎゅっと抱き締めた。

「おかえり、マクシミリアン」

 そう答えながら少年に頬ずりする。きゃっきゃっと屈託なく少年は笑う。

「くすぐったいよ、母さん」


 ヴィルとリヒャルトが出征していった年が開けた冬の終わりに、エレノアは息子を出産した。それがマクシミリアンだ。もうすぐ六歳で、今年の秋から街の小学校に通う。年齢のわりに大人びていて、エレノアなど時々言い負かされてしまうほどだ。


「母さん、どこへ行っていたの? ……あ! クッキーだ! ねえ母さん、これ僕の? 僕のクッキーだよね?」

 テーブルに置かれた紙包みを見つけて目を輝かせるマクシミリアンにしょうがないわねえといった顔でエレノアは答えた。

「ええ、そうよ。手を洗ってらっしゃい。それから今日はマリアンヌ先生のレッスンの日でしょう? 遅れないように」

「もう母さん、毎週言わなくても分かってるよ」


 流しでおざなりに手を洗って戻って来たマクシミリアンが包みを開けて中身を確認すると、エレノアとアンナにクッキーを1枚づつ差し出した。

「はい、3枚あるから母さんとアンナも食べて」

 その優しさに思わずアンナがほろりとした表情で答える。

「坊ちゃま、アンナのことはいいですから坊ちゃまがお上がりなさいませ。ねえ奥様?」

「ええー、皆で食べたほうがおいしいよお」

 がっかりした様子の息子にエレノアが声をかけた。

「分かったわ、じゃあ母さんとアンナはこれを半分こするから、あなたは2枚食べなさい。アンナ、そうしましょう?」

「やったあ!」

 嬉しそうにクッキーを頬張るマクシミリアンを見つめながら、エレノアは半分に割ったクッキーをアンナに差し出した。アンナも笑って受け取る。

「これ、イルマおばさんのお店のでしょ? やっぱり美味しいね」

「そうよ、おばさんがおまけしてくれたの。だから日曜に教会で会ったらちゃんとお礼を言うのよ」

「分かった」


 食料不足と気の触れたようなインフレはまだ続いていたが、今日は運よく少しだけクッキーを買うことができた。2枚、と言ったエレノアに、小学校の同級生だったイルマは、1枚だけ残っても仕方ないから、と笑って最後の3枚を袋に入れて渡してくれたのだった。

 イルマはエレノアがどこに行っていたのかを知っていた。イルマの家でも二人の兄が出征していた。上の兄は西部戦線で地雷を踏んで即死した。下の兄は不発弾の処理中の事故で両手首から先を吹っ飛ばされ、破片で両目を失明して帰還した。今はイルマが生活の全ての面倒を見ている。イルマは何も言わないが、顔を合わせるたびにやつれていく彼女の表情がエレノアは心配でならなかった。


「……でね、母さん、母さんったら!」

「……あ、ああごめんね、どうかした?」

 マクシミリアンの弾んだ声にエレノアは思索から引き戻された。

「うん、マリアンヌ先生がね、首都にいる先生のお父さんに会ってみないかって。……僕、行ってみたいなあ……」

「……」


 エレノアは考え込んだ。

 マクシミリアンは誰に似たのか、ヴァイオリンがとても上手だった。なんでも大奥様に言わせると卑しい女優の血を引いているから芸の真似事が得意なんだろう、ということらしいが。彼は今、週に一回、街で音楽教室を開いているマリアンヌ先生のところで手ほどきを受けている。先生はマクシミリアンの才能を高く評価していて、ぜひ首都の音楽学校に入れるべきだと以前から言って下さっていた。父がそこでヴァイオリン科の教師をしているから、一度会わせたいと。


 ありがたい話ではあったが、エレノアの心は晴れなかった。まだ六歳にもならない息子を親元から遠く離れた寄宿舎に預けることが不安だったし、学費ももちろん心配の種だった。それに……首都には行かせたくない。きっと後悔する。あの時のように……。


「ねえ、母さん、僕、首都に行ってもいいでしょう? 僕、もっとヴァイオリンの勉強がしたいんだ。ね、お願い母さん?」

「……あなたの気持ちは分かったわ、そのことはまた今度母さんがマリアンヌ先生と話しておくから。さあ、もう時間よ。街に行く前におじい様のお墓にご挨拶して行くのを忘れないようにね」

「きっとだよ、母さん。ちゃんとマリアンヌ先生とお話ししてよ? ね、約束だよ?」

 なかなか引き下がらないマクシミリアンにはいはいと答えて台所から送り出すと、エレノアは大きな溜息をついた。


 マクシミリアンを首都に行かせたくない理由はもう一つあった。エレノアは去年、二人の父をほぼ同時に喪った。実父アイザックと伯父であり義父である先代アッシェンバッハ男爵エドガーだ。二人の命を奪ったのは腸チフスだった。大奥様も感染したが、驚異的な生命力で回復した。……回復してしまったと言うべきか。皇帝陛下からのお手紙へのこだわりがますます病的に強くなったのはそれからだ。

 色々順番が間違ってるわね……と、二人の葬儀の席でエレノアの心に悲しみではなく皮肉めいた乾いた笑いが浮かんだのを彼女は覚えている。


 だから、エレノアは可能性を捨てるわけにはいかない。マクシミリアンはまだ家督を継げない。今ここでヴィルとリヒャルトの死亡宣告を申請したら、アッシェンバッハ男爵家は断絶してしまう。エドガー伯父様はいまわの際にエレノアの手を握ってこう仰ったのだ。


 エレノア、マクシミリアンを頼む……あの子に爵位を継がせてやってくれ……お前には辛い役目を負わせるが、なんとしても……


「……奥様?」


 アンナの心配そうな声にエレノアは明るく答えた。


「大丈夫よ、アンナ。きっと今に全て良くなるわ」










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