第15話 兎のパテ
エレノアから息子の存在を知らされたヴィルは、思いの外冷静だった。
起こして来るからちょっと待っててと子供部屋に向かおうとしたエレノアを静かに引き止めて、ヴィルはこんな時間に起こすのは可哀想だ、寝かせてやってほしいと望んだ。それで父と息子の邂逅は翌朝に持ち越しになった。
確かに真夜中に無理にマクシミリアンを起こしても、彼には何が起こったのかすぐには理解できないだろうし、もしかしたら初めて会う父親に恐怖心を抱いてしまうかもしれない。そう考えたエレノアはヴィルの意見に従うことにした。
着替えを済ませ、何とか一人で松葉杖をつきながら階段を降りてきたヴィルが食堂のテーブルにつく。角を挟んで直角に大奥様、向かいにエレノアが座った。
食堂が紅茶の香りで満たされる。正直、今のアッシェンバッハ家の財布にとって紅茶の葉は贅沢品だ。だが大奥様にそんな理屈が通用するわけがない。だから大奥様のポットにだけは毎回ティースプーンに山盛り二杯のたっぷりの茶葉を使う。……王宮におられた頃からの習慣なのだそうで。エレノアのお茶はその出涸らしの葉を捨てずに乾燥させたものの二番煎じだ。お茶とは名ばかりの、ただ薄く色がついただけのお湯。それすらもそろそろ危うくなって来ていた。今朝エレノアは朝食をとりながら、うちにある茶葉はいつまで保つかしら、来月あたりまでは何とか保たせないと、と頭の中でずっと計算していたところだった。
でも今だけは、茶葉の残りなんて気にしない。ヴィルがたっぷりの茶葉で淹れた紅茶の香りを嗅いで、ああ、本当に久しぶりだとしみじみ笑ったのだもの。
「おかえりヴィル。よく帰って来てくれたね。……エドガーが生きていたら、どれほど喜んだだろう。明日さっそく皇帝陛下に手紙を書かなくては! アッシェンバッハ男爵家の当主が無事に帰還したと!」
大概にして下さい、こんな時まで皇帝陛下ですか、とエレノアの心が苛立つ。これ以上ヒルデガルドが暴走しないよう、席を立ってアンナから皿を受け取るとヴィルの前にそっと置いた。
「ごめんなさいヴィル、こんなものしか用意できなくて」
「いや、十分過ぎるほどだよ。……ありがとう、エレノア」
ヴィルは静かに笑ってフォークを口に運ぶ。
だが皿の料理が半分ほどになった時、夫の姿を眺めていたエレノアが突然思い出したように慌ててヴィルに声をかけた。
「やだ! ヴィル! ごめんなさい、あなた兎のパテは嫌いだったわよね。どうしよう、私うっかりしてたわ! あなたが帰って来てくれたのが嬉しくてぼうっとしてた」
急いで立ち上がろうとしたエレノアをヴィルは片手で制するとまたしても静かに笑ってこう言った。
「あ、ああ、大丈夫だよ。戦争中に好き嫌いは克服したから。兎が嫌だとか何だとか、そんな贅沢言う余裕はなかったからね。……塹壕にいるネズミまで食べたんだ。だからこのパテも今の僕にとっては頬っぺたが落ちるほどのご馳走さ。美味しいよ、アンナ」
「……ヴィル……」
エレノアの鼻の奥がツンと痛くなった。
そのままヴィルは黙々と食事を続けて、紅茶を飲み終わると満足そうに目を閉じた。
「ヴィル、疲れたでしょう。もうお休みになったほうがいいんじゃない?」
「……ああ、そうさせてもらおうかな……エレノア、すまないが湯を沸かしてもらえないだろうか……身体を洗いたいんだ」
「もうご用意してございますよ、ヴィルヘルム様。こんな雨の中、冷えておしまいでしたでしょう。ごゆっくり温まって下さいませ」
するとエレノアの一瞬の迷いを見透かしたようにヴィルはさらりと言った。
「エレノア、手伝ってくれるかい? ……辛い思いをさせるかもしれないが」
エレノアは迷っていた自分を恥じた。
「辛くなんてないわよ、ヴィル。さあ行きましょう、湯が冷めないうちに」
そしてヴィルの横に回り、肩を支えて立ち上がらせた。
彼女が感じた重みは確かな生身の人間のものだった。
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