第8話 ただいま、義姉(ねえ)さん
リヒャルトは迷いを断ち切れないまま汽車に揺られていた。
ほぼ四年ぶりの帰郷だ。
あの日中央駅で戦争が始まったと聞かされた時、正直リヒャルトはそんなことよりエレノアがヴィルと結婚したということのほうが重要だった。
彼は何とかして実家に帰ろうとしたが、そこでまたいくつかの不運が重なった。
リヒャルトは宣言通り、首席でパイロット養成学校を卒業する予定だった。
当時、帝国には新しく空軍が創設されたばかりだった。この養成学校の生徒のうち成績優秀者三名は、卒業と同時に空軍に中尉として配属されることが決まっていた。
士官学校を卒業した貴族の子弟でも入隊時の階級は少尉だったから、これは異例の好待遇だったといえよう。
何事もない時のリヒャルトだったら、これ以上誇らしいことはなかっただろう。だが、卒業まであと半年という微妙なタイミングで戦争が始まってしまった。リヒャルト始め空軍入隊予定者三名は、卒業を繰り上げて即時入隊すべしという決定が下された。リヒャルトは入隊を辞退しようかとも考えたが、学校側が許さなかった。まだ開校間もない我が校にとって、空軍のパイロットを輩出することがどれだけ栄誉なことなのか、君には分からんのか、と。
学費免除だったリヒャルトは、何も言い返せなかった。
仕方なくリヒャルトは胸の奥でぶすぶすと燃え続ける
戦場という特殊な環境ではあったが、空を飛ぶという行為は思いのほかリヒャルトの傷を癒してくれた。一年近くかかって怒りが悲しみになり、悲しみが諦めになってようやく、リヒャルトはエレノアに結婚祝いを贈った。
それは金の台に濃い赤の珊瑚をあしらった美しい櫛だった。
今、実家に向かっているのは、ヴィルヘルムの出征が決まったという連絡があったからだった。その報せを受けた時、リヒャルトは少なからず驚いた。
なぜなら、それまで爵位を持つ家の当主は徴兵が免除されていたからだ。
ヴィルヘルムが徴兵対象になってしまった理由は、父エドガーの存在だった。
先代当主が存命、あるいは現当主にすでに嫡子がいれば、現当主がもし戦場で命を落としても家を存続することができる。よって徴兵免除は廃止する。と、いつの間にか法令が改正されてしまっていたのだ。
戦況はそこまで悪化しているのかと、リヒャルトは暗澹たる思いになった。
それでも実家に帰ることに迷いがあったが、父からの手紙にはこう書かれていた。
ヴィルヘルムがお前に会いたがっている。これからのことを話しておく必要もあるし、一度顔を見せろ、と。
それで仕方なくリヒャルトは休暇を願い出て、故郷へ向かったのだった。
アッシェンバッハ領の端にある小さな駅で汽車を降りると、リヒャルトは辻馬車に揺られて屋敷へ向かった。
そこここに生えているマルベリーの木が、たわわに色づいている。今年のリキュールの出来はどうだろうと、ふと気になった。子供の頃の思い出が波のように心に押し寄せてきたが、リヒャルトは頭を振ってその感情に蓋をした。
三日間、三日間だけだ。何も感じるな、考えるな。
屋敷の玄関にたどり着いたリヒャルトは、少しの間躊躇ってから、意を決してドアを開けた。
「お帰り、リヒャルト」
母親に万感の思いで抱きしめられた。四年ぶりに会った母は老け込んで老女と言われてもおかしくないほどだった。
「母さん、痩せたね」
そう声をかけると男爵夫人は気色ばんで捲し立てた。
「皇帝陛下からお返事が来ないのよ! ヴィルヘルムが出征するなんて何かの間違いに違いないからお調べ下さいと何度も何度もお手数を差し上げたのに! ああなんということでしょう! 先代当主が存命な場合は、なんて! こんなこと皇帝陛下がお許しになる訳がない!」
「ヒルデガルド、もう分かったから止しなさい。陛下にはまた改めてお手紙を差し上げればよいだろう。……リヒャルト、元気だったか」
「ただ今帰りました、父さん」
父と抱擁を交わすと、次はヴィルヘルムだ。そしてその次は……。
「リヒャルト、軍隊はどうだ? 僕にもついにその時が来てしまったよ。参ったな」
「久しぶり、ヴィル。……まあ、そう悪くはないよ」
来た……とリヒャルトは身構えた。しかしそこにヒルデガルド男爵夫人のしわがれた落ち着きのない声が割って入った。
「さあ、挨拶も済んだことだし、食事にしましょう。リヒャルト、部屋に荷物を置いたら食堂へいらっしゃい」
皆を促して場所を移そうとする母の姿に、幼い頃からあからさまに彼女を蔑んでいた記憶が蘇った。咄嗟にリヒャルトはヴィルヘルムに声をかけた。
「なんだヴィル、結婚したっていうのに紹介もしてくれないのか? 」
ヴィルヘルムは立ち止まると照れ臭そうな顔で答えた。
「紹介するも何も、お前もよーく知ってるだろう? あそこにいるよ」
ホールの隅の少し陰になっている場所に、見慣れた顔があった。真っ直ぐな長い金髪をきちんと結い、床に届く長さのスカートを履いて、左手の薬指に細い金の指輪をはめた、大人になったエレノアが。
リヒャルトはゆっくりとエレノアに近づくと、わざと皆に聞こえるようなはっきりとした口調で声をかけた。二人にしか分からない、精一杯の当てこすりを込めて。
「ただいま、義姉(ねえ)さん」
「……お帰りなさい、リヒャルト」
その言葉はどこまでも他人行儀で、一切の感情が排されたものだった。
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