第12話 壊れたお守り

 午後の授業を終え、成昌は桔梗とともに佐奈が入院している病院へと向かっていったため、文香は一人取り残される形となった。

 とはいえ。

――うーん……特にやることもないし、ほかのみんなも部活とか行っちゃったし……帰るか

特にやることはないし、友人のほとんどが部活やそれぞれの用事がある。

となると学校にいても仕方がないため、帰路につくことにした。

大型連休が近づいてきているこの時期は日が長くなり始めているためか、間もなく夕焼けのチャイムが鳴り響く頃合いだというのに、昼間のように空は明るい。

そのおかげで、ここしばらくはびくびくしながら歩いていた道でも、少しばかり穏やかな気持ちで歩くことができている。

――これはお守りのおかげなのか、それとも気にならなくなってきたからなのか……まぁ、どっちでもいいけど

 文香としては、この穏やかさが重要なのであり、その要因が何であるかはどうでもいいのだ。

 いっそのこと、この穏やかな気持ちのまま、成昌に支払わなければならない報酬のことも忘却の彼方へ追いやりたいとすら思っている。

 もっとも、そんなことを成昌が耳にすれば。

『は? 何言ってんだ、馬鹿なのか? お守り渡したんだからその分の報酬は支払ってしかるべきだろ? それともなにか? お前は働かせるだけ働かせてその見返りも支払えない不義理な人間ということか? なら相応の対応を取らせてもらうぞ』

 と、冷ややかな視線と威圧感を向けながら矢継ぎ早にそう告げてくる姿がありありと浮かんでくる。

――いや、それだけならまだいいか。下手すると、桔梗が話してたみたいに……

 小学校の池に住んでいたガマガエルのように、プチッ、とつぶされる。あるいは、悪霊のようなものを付きまとわせて、夜な夜な耳元で何かをささやかせて寝不足にされる。

 そんな予感がしてならない。

 後者はまだかわいい方なのだろうが、前者のようなことをされたら一瞬でスプラッター映画のワンシーンが出来上がってしまう。

 映画のような展開が目の前で起こることや巻き込まれる。

 そういったことに憧れを抱いていないわけではないし、ラブロマンスのような展開であれば、むしろ大歓迎というところだ。

 だが、スプラッター映画やホラー映画のような展開に巻き込まれたり、被害者になってしまったりすることは、文香も望んではいない。

 不特定多数の中には、巻き込まれることをむしろ幸運に思う人間もいるかもしれないが、少なくとも、文香はそういったことには巻き込まれたくないと思っている。

――報酬だけはちゃんと払おう……

 ともすれば自分の命すら危うくなるようなことの原因を、自ら招きたくはない。

 文香はその一心で、成昌にジュース一本を奢るくらいは我慢しよう、と思いながら、自宅までの距離を縮めていく。

 玄関まであと数メートル、角を一つ曲がれば家に到着する。

 そんな場所まで到着したその時だった。


ひた……ひた……ひた……


 何かの足音が自分の後ろを付いてくることに文香は気づいた。

 まさか、と思って背後にいる相手に気づかれないよう、道のわきへ寄り、スマートフォンを取り出し、カメラを起動させ、さらに自撮り状態に切り替え、背後を確認する。

 誰かがその画面に映っているはずだし、そもそも使う道が同じであった場合、文香が立ち止まったことで先へ向かうはずだ。

 だが、カメラには誰も映っていないし、文香を追い越していく足音も聞こえてこない。

――気のせい、だったのかな?

 妙なことを考えたり、午前中に友人が事故に巻き込まれたりしたせいで神経質になっているのかもしれない。

 そう考えた文香は、頭を振り、スマートフォンをカバンにしまう。

 その瞬間、文香の耳元で不気味な声が響いてきた。

『――れ。我を……れ……それが貴様を許す、唯一の方法』

 洞窟の奥から響いてくるような、トロンボーンよりも低く、おぞましい声が文香の耳元でそうつぶやく。

 見てはいけない。この声の主と目を合わせてはいけない。

 本能がそう告げているが、人間は五感の中で特に視覚が発達した生物。

 恐怖を与えるものとわかっていても、正体を視認しなければ安心できない。

 一目見るだけでも、危ない。見るな、これは振りじゃない。絶対に見るな。

 文香の脳内で、危険信号がガンガンと鳴り響いているのだが、文香の好奇心はその危険信号を無視しようとしていた。

 オカルト好きとして、今まさに自分を襲っている怪異は見ておきたいと思ってしまうのも仕方がない。

 だが、さすがに恐怖のどん底に自分から落ちるような愚かな行いをするほど、文香も愚かではない。

 家までの距離と道順を確認し、スマートフォンをカバンにしまい、意を決したように目を閉じ、耳をふさいだ。

――ここから一気に、走って家に入る! これしか手段はない!

 悪いものを見ないよう、悪いものの声を聞かないように備え、文香は一気に走り出す。

 もちろん、声の主も諦めていない。

 耳をふさがれようと、目を閉じようと、声は追いかけてくる。

 が、文香はそれを視覚でも聴覚でも認識できない状態にしていため、その姿も声も、彼女には一切認識されない。

 声をかけてきた謎の存在が何者であったのか、文香はそれを確認することなく、家に入ることができた。

 実際には、玄関ドアを開けるため、薄目を空けて右手を耳から外してしまったのだが、なぜか声をかけてこなかった。そのことに疑問を覚えていないわけではないのだが。

――まさか、幽霊が根負けなんてことあるのかな……まぁ、ひとまず、ラッキーってことにしておいて、明日、安倍に相談しよう

 あまり深く考えることはせず、専門家に丸投げすることにして、文香はそそくさと自室へ入り、荷物を置いてから洗面所へと向かう。

「あら、おかえり」

「ただいまぁ」

 洗面所に降りてきた娘に、いつの間に返ってきたの、と聞きたそうな表情で母親が声をかける。

 文香は返事をしながら洗面所の前に立ち、手洗いをうがいを済ませていく。

「そういえば母さん。今日のお夕飯、なに?」

「あんたね……帰って早々、ごはんの話? 色気より食い気ってか」

「にへへへ、なんかお腹すいちゃって」

 本当のところ、あまりお腹は空いていない。

 だが、先ほど味わった恐怖体験を少しでも早く忘れたくて、自分が楽しめる話題を振って、現実逃避をしようとしているのだろう。

 それに気づいているのかいないのか。

「それじゃ、買い物行ってくるから」

「いってらっしゃい」

 母親はそう言って玄関を出る。

 文香はその背中を見送り、文香はリビングへと向かい、コップに水を入れ、のどを潤す。

 ほんの少しとはいえ、心理的に安心できる人間と話すことができたためか、文香は心が少し楽になったように感じ。

――よし、とりあえず、宿題やっちゃおう!

 布団をかぶって震えたり、小さな物音ですら過剰に反応したりという、ホラー映画の主人公や主要登場人物が見せるような反応を一切見せることはなかった。

 その胆力のおかげか、それとも怪異自体が家に入ることができない類だったのか、外で遭遇した存在の声に悩まされることなく、文香は宿題を終わらせ、夕食を摂り、風呂につかり。

 普段通りの生活を送ることができた。

 だが、それはあくまでも起きている間の話。

 自分を悩ませている怪異が本質を現す時は、就寝後であることを文香は失念していた。




 夜。

 ベッドに潜り、文香は目を閉じ、訪れた眠気に身をゆだねていた。

 少しの間、文香の意識は残っていたのだが、その意識もまどろみの中へ溶けていく。

 そうして、夢の世界へ旅立った文香だったが、その顔は徐々に歪み始めていた。

 うっすらと浮かぶ額の脂汗から、彼女が悪夢にさいなまれていると予想することは用意だ。

 その悪夢から逃げることができたのだろう。

 がばり、と勢いよく文香は体を起こし、周囲を見回す。

 暗い中ではあるが、今自分がいる場所が自分の部屋であることを理解すると、安どのため息を漏らし、ぐったりと自分のひざに額を寄せた。

――よかったぁ……夢だった……

 よほど恐ろしい思いをしたのだろう。

 目が覚めて本当に良かった、という思いが胸をよぎり、ひとまず、心を落ち着かせようと、リビングへ向かい、コップに注いだ水を飲み干し、再びため息をつく。

――まいったなぁ。まさかここまで怖い夢、見るとは思わなかった……安倍からお守りもらってから見なくなったから、少し油断してたかも……

 成昌からお守りをもらってからしばらくの間は悪夢を見なかったのだが、お守りの効力以外にも、文香本人が『悪夢を見たくない』と強く願っていたこともその理由となっていた。

 だが、ここしばらくは強く願うこともなくなり、『お守りがあれば大丈夫』という思考へ変わっていったせいで悪夢を見てしまったのではないか、という判断を下した。

――一週間くらいは様子を見るって言ってたから、まだ気を付けないとなぁ……

 とはいえ、強く願うことを忘れないだけでは不十分であることも事実。

 一応、成昌からもらったお守りが無事であるかどうかも確認しておこうと考え、お守りをしまっているブレザーのポケットに手を入れる。

――え?

 その手に触れた感触に、文香は顔を歪める。

 お守り袋特有のざらざらした感触がないのだ。

 代わりに文香の指先が捉えた感触は、何かの燃えカスや和紙やノートのような、ツルツルとしたものだった。

 まさか、と思い、文香はブレザーからお守り袋を取り出す。

 自分が触れた感覚が間違っており、そこにもらった時と寸分違わない、きれいな状態のお守りがあると信じて。

 だが、現実は非情であった。

文香の手の中にあったものはお守り袋ではあったのだが、彼女が期待していた状態のものではない。

 焚火の中に放り込まれたかのように、所々に黒く燃えたような跡がつき、ボロボロになったお守り袋と、その中身にあったのであろう、何かが描かれている折りたたまれた紙片であった。

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