5と6のあいだ

三月

五限目➀



【1】


 わざと口端を歪めたのか、年月の積み重ねで寄ってきた皺の集まりか、ともかく一見では微笑みを増したような年配者特有の貼り付いた表情が、御年25になる槻ヶ見ツキガミ先生に向けられた。(“槻ヶ見”と毎度打つのは面倒なので、以下“T”と表記させて頂くけれど、もちろんアルファベット読みされてる訳では無く、皆「ツキガミさん」と呼んでいる。)T先生は、トップ部分が寝かし付けられる程度に伸びている以外はほぼ剃ったように清潔に刈り込んだ頭に、顎の裏までしっかり手の行き届いている新人顔ニュー・フェイス、レギュラーサイズのシャツと人工ウールで出来た鼠色のパンツに、一回り大きめで芥子色のニット・ベストを着ていて(こんなに暑いのに)、胸近くまではゆったりとして頭に近づく程尖がってきていたので、大きなHBの鉛筆として店頭に並んでも問題ない様子だった。


「ツキガミ先生」と年配の男性は口を開いた。T先生は少し顔をしかめた。何故なら、彼はまだ先生ではなかったからである。

「ここまでで気になったコトなど有ったら、遠慮なく聞いてくださいね。それとも別に、質疑応答の時間でも取りましょうか?」

「お心遣い有難うございます。でも何せ、右も左も、という状態で、質問という段まで追いついていないかもしれません」とT先生は応えた。

 申し訳ない、という感じで年配の方は頭を掻いた。「いえいえ、性急なモノで」して続けた。「焦らせるつもりはないんですよ。何なら、今から時間を取りましょう」

「時間?」

「ええ、一時間ほどですか」と腕時計を睨みつけながらそう言った。「ゆっくり見て回る機会が、今後取れるか分かりませんし」

 そして次に、T先生の方が鉛筆の芯のような頭をちょんちょん、と掻きながら、曖昧な返事を零すことになった。


 年配の男性というのは、H学園高等部二年の学年主任であっただけでなく、下腹と腿と頬に皮下脂肪を蓄えてもいて、そのため普段は皺が目立ちにくい。最近はめっきり目が悪くなり、買ったばかりの老眼鏡は十数年付き添った愛人のように馴染んでいた。ただヒト型の愛人は今のところ居らず、離婚歴だけがあった。

 彼にとっての愛人は、もちろん老眼鏡ではなく、数年かけて蒐集したカップ・プレートである。白磁やガラス、オーク材に瓶詰の金蓋まで、様々な素材からなるソーサラーと柄のないカップのセット12組が自慢で、一ヵ月毎にお気に入りを入れ替えてお茶の時間を楽しんでいた。そして、昼も過ぎの15時になろうかという段にこのを思い出すと、学生に毛が生えた様な新人を案内する気はすっかり無くなってしまったのである。


 小康状態が、二人とも早く帰りたいんだな、と互いに気が付く位の間続いて、T先生は口を開いた。「そうですね。折角ですから、一人で見て回ってみます」

「うん。それがいいでしょう」と自分が言い出したなんて忘れたみたいに主任は返事した。T先生はその事に気づいたが、眉も動かさなかった。一方で学年主任の方は何か言っておこうと少し迷った様子だったが、結局「それじゃあ。職員室に居ますから、終わったら教えて下さい」といってその場を辞す姿勢を見せ、ほんの直ぐ後、応接間に残っていたのはT先生だけになっていた。

 ハァ、とT先生は声に出してソファに座り込んだ。彼がこの学園を気に入ってる唯一の部分がこのソファにあって、革張りでなくモール状の生地になっている。蒸れることも無く気分が良いのだ、とそんな私見を、面接試験で20分ほど話してみたらどういう訳か本採用を受けたのだ。だが、T先生は——某大学大学院法学研究科に進んでオーストリア刑事法との比較法研究で修士号を取り、国家試験を受けようか継続しようか悩んで、一年間下宿先から南に十数キロ下った繁華街で皿とロックグラスを洗いながら付属図書館に通う日々を過ごした後、学部生時代に教養課程を取っていた事を思い出して、地元の私学の教員募集に応募してみた、とそんな経緯でここに座っていたので、面接のことなど気に留めてもいなかった。これから一時間もどうしよう、とか一切考えていなかった。ただ涼みたかった。

 ゴー、という呻き声を上げる空調設備を見上げながら、数十秒。誰もがこのまま時間が過ぎて、あっという間に陽が落ちて、今日一日もたちまち終わってしまうんじゃないかとすら思った時、"がらがら"という音と一緒に、応接室は再び外の蒸し暑い空気を吸い込んだ。

 

 やけに黒いな、とT先生は思った。黒いのは、"学生服"としてよく知られるソレだった。そして、童顔だ、とも思った。しかし本当に童顔なのはT先生であり、目の前の少年は童顔ではなく、本当に只の高校生であるだけだ。

 T先生はぽつりと言った。「高校生だね、キミ」

「え、あー…」と話しかけられた学生は更に当惑し、進退窮まったように体を凍らせたかと思うと、やけっぱちになったのか、部屋に足を踏み入れて振り返り、丁寧に引き戸を閉めた。

「閉めてくれて、どうもありがとう」とT先生は言った。

「座って良いですか?」「別に立ってても良いよ。暑いからね」「じゃあ、失礼します」

 遠慮しろよ、とT先生は思ったが、学生服の少年は正面にすとん、と落ち着く。そこでようやくT先生が気づいたのは、少年はまさに学生服を着ていたけれど、首や手首の裾から覗くのは肌色で、学ランの作りからすると不自然に体の線が外見から分かることである。T先生には、上裸の上に着込んでいるからだと解された。

 少年は疑念の視線に気づいたのか、中価格帯のレストランで頼んだ料理の味が普通過ぎた時のような顔で「ちょっと暑かったんで」と、少し言った。



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