第二章 波浪と動向
波浪と動向 1
「え? マジっすか? 四宮先輩行っちゃったんすか?」
悠馬は止まらない汗を手のひらに伸ばしている。
今後の課題を簡潔に伝えたけれど、それよりも美波が行ってしまったことに落胆していた。
「そこで……美波が言うように、部員よりも顧問を探すことを最優先にしたいと思う」
「でも、ほとんどの教師がなんらかの部活に所属しているんじゃないっすか? 副顧問もいるっすもんね」
汗を吸ったシャツで何度顔を拭ったところで、乾くことのない彼の額は輝いている。
水分で収束した髪は、光の隙間をみせていた。
少しばかり彼の将来が心配になる。
それは、人生というよりも別の意味で。
「暑いなー。おい、島崎。俺たちにジュース買ってこい」
「え……うん……」と、悠馬に少しの視線を与えることなく立ち上がる凛花に声をかける。
「いいよ、行かなくて。悠馬も飲みたいなら、自分で買いにいけよ」
「えー、俺暑いんすもん。ここで、しっかりと上下関係は作っとかないとっす!」
「俺たちって、バンドメンバーだろう? 縦社会の枠組みなんて必要か?」
悠馬のあまりに身勝手な発言に、中学生時代の眼光をみせてしまった。
その当時の姿を悠馬も思い出したのか、漬け込まれる前の沢庵のように水分をさらに奪われる。
「すんませんっす……ちょっと……調子に乗ったっす……」
「……下剋上っていう言葉もあるから」
「げ、下剋上ってなんすか?」
「下位だと思っていた者に上位の者が負けること。ある日突然、凛花ちゃんに足をすくわれることもあるかもな」
「え? いやーそれはないっすよ! ないっす! ないっす!」
右手を往復させている悠馬と座り直した凛花に提案する。
「それで……顧問の件だけど、確か……室岡は顧問をやっていなかったと思う」
「室岡……あー、生物の教師っすよね? いつもニヤニヤしていて、気持ち悪いって女子から言われているやつ」
ニヤニヤしていて女子から嫌われているのは……悠馬も同じだと哀しくなった。
「室岡に頼んでみるか……」
教室を後にすると、外からは部活動をする生徒たちの声が聞こえてくるが、こちら側の校舎、特に普段使用している教室には誰もいないようだ。
文化系の部活は別棟にて活動しているから、静まり返る廊下に不思議な思いを巡らせてしまう。
遠くまで続いているはずのない廊下。
そこに生まれた切なさが、自身にとって高校生活最後の夏休みなのだと教えてくれる。
三人で歩いていると、曲がり角を越える前に人の気配に気付く。
先頭を歩いていた俺は、二人の歩みを手で静止した。
振り返って、自身の口元に人差し指を当てる。
何やら不審な動きをする人物に対して、壁に顔を当てて様子を伺う。
話に出ていた室岡だ。
薄汚れた白衣に、背の低い、ややふくよかな体型だ。
トイレの前で何をしているのだろう。
そう考えた瞬間に、彼は女子トイレの扉を迷いなく開けた。
「先輩……なんすか……なにが……あるんすか……」
蚊よりも小さな声にしようと、普段の甲高い声からハスキーボイスに声を落とした悠馬に答える。
「ああ、室岡が女子トイレに入っていった」
「え? マジっすか?」
「これは使えるかも……な」
「え? なんすか……なんすか……?」
「ここで待っていたらバレるから、反対側の棟に行こう」
三人でトイレの前を通過して反対側の廊下まで向かう。
音を立てずに、足音が廊下と壁を侵さないように。
この後の動向として、室岡は学年の職員室に戻ると考えた。
普段の教室と職員室は同じ棟にあるから、反対側から見ていれば、彼に見つかることはないだろう。
気配を殺して、壁から顔を出す三人。
上から、悠馬、俺、凛花の団子が並んでいる。
「あっ! 出てきたっす。出てきたっす」
「わかっているから……静かにしろよ」
「…………」
「あれ? なんか……なんか手に持ってるっす」
「悠馬……視力良かっただろ? なにを持ってる?」
「袋っすね。白い袋……なんか入っているぽいっす」
そのような会話を繰り広げる中で、室岡は俺の予想に反して身体をこちらに向けた。
俺たちは猫のように俊敏な動きをみせる。
「こっちに来るっす。どうするっすか?」
「どうするって……動きを確認したいな」
「なんだか……ドラマ……サスペンス……みたいで……楽しい……です」
この状況を楽しんでいる凛花に、意外な一面があるのだと知った。
「ここは、俺が突っ込んだほうがいいよな?」
「どうするっすか? 女子の島崎に行かせて様子を探るのも……おもしろくないっすか?」
「いや……それは、よくないだろう。凛花ちゃんに、なにかあったらマズいし……」
「……私、行けます……やって……みます」
三人が語らなくても、何となく室岡の奇行を予想しているようだ。
女子トイレに入った時点で、疑わしいことは満載なのだけれど。
そこから袋を持って出てきたとなれば、彼の怪しい風貌は怪しい行動に拍車をかける。
凛花が飛び出していったのは、室岡が俺たちに到達する目前であったから、二人の会話がはっきりと聞こえた。
「うおっ、なんだよ。驚かすなよ」
「あ……ごめんな……さい。こんにち……は」
「おー、二年の島崎か。どうした夏休みに?」
「あ……えっと……」
「なにか悩み事か? 先生、相談に乗るぞ? 準備室には冷えた飲み物もあるし……誰も来ないから、二人きりで……ゆーっくりと話せる。なんでも……話していいぞ」
「えっと……それ……なんですか?」
おそらく凛花は、室岡の持つ袋を指差しているはずだ。
「こ、これか? これは……授業で使うやつだよ」
「授業……見せてもらって……いいですか?」
「ひ、秘密の授業で使うやつだからな」
「見せて……ほしいです」
「な……なんだよ? なにが気になるんだよ?」
「それ……見たい……です」
「な……なんで見たいんだよ!」
室岡が声を荒らげたところで、俺も曲がり角から姿を現す。
丸まった目は、何度も何度も高速に開閉を繰り返す。
弱気な犬のような顔に、無造作なパーマが空中を泳いでいる。
年齢は五十代目前らしいが、その風貌には威厳がなくて、中年の風貌に幼さが足されている。
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