旋律の邂逅 3
「歌えるかな……」
大きく空気を体内に取り込んで、吐き出す息で唇を震わせている。
腹に手を当てて膨張と収縮を確認していた。
原曲の前奏は、ピアノとギターの素朴さと優しさが溢れて、惜しむ間もなく歌が始まる。
彼女はギターのジャック付近を見ていて、左足でリズムをとっていた。
俺は四、五弦の単音弾きで歌の入りを示す。
肺に酸素を満たして、歌おうとした彼女は目を閉じた。
「スリッ…………」
彼女の声は掠れて止まる。
誰にも聞こえないほど小さいものだった。
微かに出された音を掬い上げることがない世界。
俺は演奏を止めずに、手首に意思を預ける。
彼女の目は地面の小石を見つめていた。
やむなく俺が代わりに歌うと、彼女は沈んだ表情のまま顔を上げる。
目が合って……左手の押弦が甘く、音が多少濁っていても……彼女が歌えるように頷きながら続けた。
Bメロの途中から、俺の気持ちを汲んでくれた。
小さい声でギターの伴奏を無視して追従してくる。
誰も頼らなくて、誰も寄りかかることがない、そのような声。
しかし、だんだんと旋律に気持ちを乗せて、声は艶やかさを増していく。
俺と詩織さんの掛け合いのように進んだ。
日本では一般的にサビ、米国などではコーラスという箇所の直前で俺は歌うのを止めた。
彼女は、高い夏の空へ声を張り上げる。
「――――――――」
天使の歌声。
いや……天使の涙声。
時の流れが止まるほどに美しい。
泣き出しそうな切なさ、人々を優しく撫でるだろう歌声。
澄み渡る青空、風に揺れる風鈴、夕暮れのひぐらし、夜空に浮かぶ花火、川のほとりに佇む蛍。
美しさは、それらに似ていて、演奏の手を止めてしまいそうだった。
短い間奏に入ると詩織さんが顎を上げて、青空を眺めている。
二番のAメロからは、俺の歌声が入る余地などなかった。
俺の適当だった英語とは違って、彼女は歌詞を流暢に歌い上げていく。
チョーキングで音程を変えるたびに、彼女の口角も上がる。
砂場にいた小さい女の子が小さな歩幅で駆け寄ってきた。
母親も身を案じて追いかけてくる。
俺たちの前に女の子が辿り着くと、夏の湖面に反射する太陽のような目を向けてくれた。
母親が女の子の隣に屈むと、首元から垂れる花を模したネックレスが光る。
伴奏とは少しばかりズレている手拍子を女の子が始めた。
母親も慈しみを子供に与えて同様の動きをする。
詩織さんの表情は、さらに深くなって高らかに声を出す。
看病されていたサラリーマンが息を吹き返して、こちらに鋭い視線を向けていることに気が付いた。
申し訳無さはある。
しかし、手拍子をくれる親子と詩織さんのために演奏を止めるわけにはいかない。
間奏部分はコードで弾くことを止めた。
ギターソロでハンマリングやスライドを交えて雰囲気だけを似せる。
ギタリストに、よくある感覚だ。
完璧主義者や完全コピーに拘るギタリストからは非難されるだろう。
心に雨を降らすようなユニゾンチョーキングは、異なる弦が同音で鳴って気分を高揚させる。
ラストのサビに入る前だ。
原曲ではドラムのフィルインが入るところ、俺と詩織さんは目、呼吸、心を合わせる。
「――――――――」
感情を込めて歌う詩織さんは、とても美しい。
彼女の目の端に小さい粒を見つけると、胸にざわめきが襲ってくる。
最後にギターの伴奏はいらないと判断して、単音を少し鳴らして彼女の歌声に委ねた。
「――――――」
周囲の熱をすべて奪い取って、爽やかさと切なさが残る。
女の子も母親も笑顔だ。
小さい手を何度も合わせる姿に心が温かくなった。
女の子はピンク色のカバンから飴玉を取り出す。
その一つが俺の目の前に迫った。
「おにいちゃん……これ、あげる」
演奏に対しての物か、子供の無邪気さからくるものなのか判断できなかった。
「ほらー、貰いなよ!」
「ああ……ありがとう」
「おねえちゃんにもー」
「ありがとー!」
詩織さんは女の子にも負けない無邪気な笑顔を向けた。
ベンチから飛び出して、女の子の頭を麦わら帽子越しに撫でる。
彼女と子供の横顔は、どこか似ていた。
その笑顔が幼さからくるものだと言ったら、きっと彼女は怒るだろう。
「そろそろ、帰ろっか。素敵な演奏をありがとうございました」と、母親は頭を下げて子供の手を引いた。
「またねー。おにいちゃん、おねえちゃん」
母親に手を引かれた女の子が手を振り続けて、詩織さんも手を休めることはなかった。
髪の間から覗く彼女の額には、丸い光が浮かんでいる。
先刻の直射日光に刺されていた時でも、涼し気な表情を浮かべていた。
つまり、歌うことに汗が出るほど体力と気力を使える人なのだ。
親子が公園から離れた後で、疲弊した革靴と紺色のトラウザーズが近付いてくる。
迷惑だ、怒りの手土産を持ってくると感じた。
臨戦態勢をとろうとしたが、こちらが悪いからな、とも考える。
短く刈り上げられた短髪に細目の鋭さが際立つ、風貌からして四十代くらいだろう。
体型はラガーマンやプロレスラーにも見えて、白いワイシャツが悲鳴を上げている。
一般人であれば、睨まれただけで道を譲るほかないと判断するだろう。
押しても引いても倒れない、業務用冷蔵庫が目の前にあると変わらないのだから。
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