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 数日後の昼下がり、エルヴィスは〈天〉の宮廷魔術師の私室に招かれていた。同じ宮廷魔術師として情報交換をすることもあれば、仕事の話は抜きにしてただ話をすることもあった。今回招かれた目的は後者だ。

 現国王の正室である彼女の部屋は色合いこそ質素であるが、調度品は一流の職人が仕上げた最高級品ばかりである。質素な部屋の中で一際目立つのが、部屋の中央に置かれたテーブルの上の香炉だ。金でメッキされた香炉は彼女が未来を視るときに使うものであり、いつもきれいに保たれている。だが、しばらく香炉の蓋が開けられていないこと――要するに使われた形跡がないことが気になった。

「少しおやすみをいただいただけよ。心配しないで」

 エルヴィスの視線が香炉に向けられていたことに気づいたエレノアが言う。エルヴィスは肩をすくめた。

「そういうつもりで見たのではなかったが……すまない」

「いいのよ。正直な人の方が私も楽だから」

 さ、どうぞ、と言って彼女はエルヴィスに茶と菓子を勧めた。エルヴィスがグノー(穀物とドライフルーツを混ぜ込んだ棒状の焼き菓子)をつまむと「相変わらず好きね、それ」とエレノアは笑った。

「ところでこれは? 変わった香りのする茶だな」

 通常この国で好んで飲用されるのは果実等で甘い香りがつけられた茶、もしくはハーブを煮出したさっぱりとした香りがする茶の二種類である。しかし、今日エレノアが振る舞った茶は穀物を焦がしたような香りがする茶だった。

「隣国からの商人が持ってきたわ。隣国で流行っているんですって」

「そういうことか」

 そして残念ながら彼女の舌には合わず、早く消費したいのだという意図が透けて、苦笑しつつも茶を飲む。

「そういえば、その時の商人が不思議なものを持っていたわ」

「不思議なもの?」

 エルヴィスが首を傾げるとエレノアは小さな瓶を取り出した。見た目はただの香水瓶だ。

「王の配偶者という立場だから、たまに下世話なものを勧められることがあるのよ。使うつもりはなかったけど、あなたに本物か確認してもらってから考えてもいいかと思って。中身の分析をお願いしてもいいかしら」

「……確認しておくが、いわゆる催淫剤のようなもの、ということだな?」

「ええ。肌につけると相手が一番好む香りに変化する、という触れ込みだったの。本来は意中の人を射止めたい人が使うようだけど、すでに番った仲でもスパイスとして使えると言われたわ」

「胡散臭いな」

 エルヴィスは眉をひそめて瓶を受け取り、灯りに透かした。わずかに黄色味を帯びた液体はちゃぷちゃぷと揺れる。

「分析さえしてくれたらあとは好きに使ってくれていいわ。……ねえ、オーエンとは仲良くやっているの? 相変わらず普段は別居のままだと聞いたけど」

「ブッ!」

 明け透けな問いかけにエルヴィスは思わず噴き出した。茶も菓子も口に含んでいなかったのは僥倖である。

「もう、いやね! 番って何年も経つのにたったこれだけのことで動揺しないでよ」

「……最低限の関係はある」

 他人に自分の生活のことを言うのは抵抗があった。しかし、王の伴侶である彼女は警護の人間がいる中で夜の営みをすることに慣れきっており、エルヴィスの些細な抵抗の気持ちは通用しない。

「どうせあなたが制限をかけているんでしょ。オーエンは別で相手を作るような人じゃないけど、あんまりつれなくするのはよくないわ」

「……」

 エレノアが言うことは一々もっともで、エルヴィスは黙りこんだ。

「今度のお茶会でわかったことを教えてね。もし効果があったら、私も今度、陛下のお渡りがあるときに使ってみるわ」

「……わかった」

 たくましい彼女の発言に押されてエルヴィスは承諾していた。成分分析の方はともかく、使用感まで本当に伝えられるだろうか、と考えつつ。


 意外にも使用感を試す機会はその晩すぐにやってきた。

 わかったことがあるから話をしておきたい、と事前に打診があり、エルヴィスは自室でオーエンを待っていた。夜に部屋を訪ねるときは、アルファがオメガの部屋を訪ねるのが一般的だ。

 近衛兵、という立場上オーエンが酒精を口にすることは少ないが、少量であれば問題ないだろう、と判断してエラに軽い果実酒を用意させた。エレノアから託された香水瓶をどうするか最後まで悩んだ末、足首に軽くつけるだけにとどめた。エルヴィス自身はまったく匂いを感じなかったため、やはり売りつけるための単なる宣伝文句ではないかと疑わざるを得ない。

 ノックの音に合わせてエラが部屋のドアを開けた。近衛兵としての訓練日にエルヴィスのもとを訪れるときは必ず風呂に入ってからという気遣いがあった。部屋に入ったオーエンはわずかに鼻を動かした。

「香でもたいたか?」

「何か気になるか?」

 一瞬どきりとしたが、すぐに取り繕って問い返す。

「いや、いつもと違う香りがすると思って」

「昼間エレノアのところに行っていた」

 他人の部屋の香りというのは意外と気になるものだと暗に伝えると、オーエンは納得のいっていない顔をしていたが「それかもな」と言った。

 エルヴィスはオーエンに果実酒を勧め、向かい合って座った。

「簡単に言うが、最近隣国の経済状況が芳しくなく、行方をくらませた若いやつらがいるらしい」

「行方をくらませた、というは……人身売買か?」

「いや、出稼ぎに行く、と言って国を出たが、それ以降ぱったり連絡が取れないって話だ。一応本人の意思があった上で国を出ているから、隣国内での人身売買じゃない」

 いやな話だ、とエルヴィスは顔をしかめた。隣国内の話でなければ、本国も疑いの対象になり、外交問題にも発展しかねない。

「ただそれ以外は情報がない。経済状態の話もうわさの域を出なくて、失踪した人間が本当にいるかもわからない。雲をつかむような話だ」

「いや、それでも助かる」

 エルヴィスはオーエンの話を手元に書き留めた。その手元をのぞきこんだオーエンは「なんだこりゃ」とつぶやいた。およそ文字とは呼べないものが並んでいる。

「母の故郷の文字だ。わたし以外にはわからない。万が一誰かにこの部屋を見られても困らないようにしたい」

「そうだな」

「それと、わたしもエレノアから気になる話を聞いた」

 エルヴィスは昼間のやり取りを簡単に説明し、預かった小瓶を見せた。

「へえ、変なもんを売るやつもいるもんだな」

 小瓶を手に取ってしげしげと眺めるオーエンにエルヴィスは声を潜めて言う。

「……これはわたしの推測だが、わたしはあの側室がこれと発情促進剤を使ったと考えている。陛下は今までに嗅いだことがないくらい芳醇な香りがした、と周囲に伝えていたらしい」

 ヒートにも個人差があり、基本的には番を持たないアルファに作用するフェロモンが分泌されるが、稀にベータや番を持っているアルファにも感じられるフェロモンを分泌するオメガがいる。エルヴィスはオメガの側室がこの体質ではないかと疑っていた。しかし疑いを確信に変える根拠はない。これから辛抱強く、〈人〉の宮廷魔術師として彼の健康管理をすることでしかつかめないだろう。

「なるほど。推測の域は出ないが、完全に否定もできないってことか」

「そうだ。ただこれをつまびらかにするのは得策ではないから、こうしておまえにだけ話をしている。他言は無用だぞ」

 シーッとくちびるに人差し指を当てるエルヴィスにオーエンは苦笑しながらうなずいた。子どもじみた仕草がエルヴィスの真剣な顔に反して可愛らしく見えるのだ。

「もちろん口外はしない」

 エルヴィスに向けてうなずくと、彼はホッとした顔でグラスに入っていた果実酒を飲み干した。どうやらエルヴィスでもこの推測を口にするのは緊張したらしい。

「ところで、部屋に入ったときからしてる香りはやっぱりこれだな?」

 オーエンは二人の間に置いてある小瓶をつまみ上げた。ドッとエルヴィスの心臓が音を立てた。

「おかしいと思ってたんだ。お前のフェロモンとは違うし、香の匂いとも違う。香水なんかもろくに使わないだろ」

 オーエン曰く、ヒートのときのエルヴィスからは麝香じゃこうのような濃厚な匂いが漂うらしいが、今は花の香りの甘い部分だけを煮詰めたような匂いがするらしい。

「やはり効くのか、これ」

「効くな。ヒートのお前の前にいるときとは比べ物にならないが、それなりの欲がかきたてられる、という感覚だ」

「わたし自身はわからないが、単純な粗悪品ではないのか」

 ふうん、と言いながら小瓶をオーエンから奪おうとして、逆に手を取られた。

「放してくれ」

「どういう意図でお前がそれ使ったか話してくれたらな」

 オーエンの問いかけにエルヴィスは迷った挙句、

「エレノアに本物か確認してほしいと頼まれたからだ」

 と嘘にならないぎりぎりの理由を口にしていた。エルヴィスの言葉を聞いたオーエンは深いため息を吐いた。

「俺で実験するな。勘弁してくれ」

「おまえ以外に実験相手がいないんだから仕方ないだろう」

「いてもらっても困るけどな」

 オーエンはそう言うとエルヴィスの手を放し、手に持った小瓶の蓋を外した。エルヴィスが止める間もなく、中身を自らの手首に塗布する。

「お前も身をもって実感しとけ」

 ほら、とオーエンが差し出す手首をエルヴィスは手で扇ぐようにして確認する。無臭だと思っていた小瓶の中身だったが、オーエンの肌の上でスパイスのよく効いた奥深い香りに変わっていた。それなりの欲がかきたてられる、というオーエンの言葉の意味もよくわかった。

「……確かによく効く」

 エレノアには使うならごく少量と伝えておかなければ、と思いながらエルヴィスは言う。

「だろ? 言われたらお前の実験くらい付き合ってやるから、黙って実験台にするのはやめろ」

「……悪かった。次からは事前に確認を取る」

「頼むぞ」

 オーエンは念を押すと、自室に帰ると言った。特に引き止める理由もないので、エルヴィスは部屋の出口まで付き添って、オーエンを見送った。泊まっていけばいいと言ってやればよかったかもしれない、と思いながら、自分の寝室に向かっているときにふと気がついた。

「あ、」

 ――香水を落としてから帰せばよかった。

 自室までの道中、オーエンがほとんど誰にも会わずに帰れるようエルヴィスは心の底から祈った。

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