私はラブソングが嫌いだ

凛々サイ

第1話

 私はラブソングが嫌いだ。もしオブラートに包まなくてもよければ、そう断言したい。


「ねぇ美咲さん、この曲めっちゃいいですよねー」

 今日も職場のラジオから、生クリームをたんまりと塗りたくられたパンケーキのような甘い曲が流れてくる。その中で私のすぐ隣で仕事をする後輩は、先程までタイピングの音を響かせていたのに、そのパンケーキを頬張るようにうっとりとした表情を浮かべていた。

「そうね、いい曲だね」

「ですよねー! この甘くて掠れた声に、優しいメロディ! てか、確かこのバンドって美咲さんが好きなバンドじゃなかったですっけ? インディーズ時代から。ほら、SNSでバズってデビューが決まったっていう」

「うん、そうだけど」

 私はパソコン画面を見つめながらそっけなく答えた。明るく無邪気な後輩は「ですよねー」とまた言いながら、ラジオの曲に合わせ、鼻歌を口ずさんでいる。未だにその味を楽しんでいるようだ。私は別にこの子を毛嫌いしているわけではない。ただ納得がいかないのだ。この歌に。それは濃厚過ぎるほどの甘い曲、それは愛の歌。愛しい人を想い、切ないメロディーの中で、吐息が混ざるように妖艶と歌うボーカル。その甘美なラブソングを奏でるのは男性四人組のバンドだ。今ではメディアでも多く取り上げられるようになったが、まだ彼らが名をほとんど知られていなかった五年程前から、私は応援していた。

 

 この工務店の事務所で、朝九時から十七時まで請求書や見積書を作成している私は、BGMとして毎日流されているこのラジオから、その曲を一日に三度も耳にする。福岡出身のこのバンドは、ローカル局の十二月のパワープレイソングとなっており、どの番組でも必ず一度はかかっているからだ。

『FM福岡の十二月のパワープレイ、ノーシミュレーションの四枚目の配信シングル、『来たる君に』でした』

 ラジオのパーソナリティーがいつものように語る。人恋しくなるようなこの寒い時期に、ラブソングは大勢に好まれるのだろう。

「略してノーシミュ! ですよね! 私、この歌かなり好きだなー。淡い青春の甘い恋って感じ! デビュー前もこんな歌ばっかだったんですかぁ?」

「インディーズの頃はもっと激しい感じの曲が多かったかな。ロックが効いた誰かへの応援歌みたいな感じとか、自分達の想いを打ち出してた曲とか」

「へー、いがーい!」

 後輩はその高い声とは裏腹な様子で、またパソコンへ向かってタイピングを始めた。それ以上何も尋ねる気はないらしい。その時、ラジオから十七時を知らせる音が届いた。

「あ、息子、迎えにいかなくちゃ。愛華ちゃん、お疲れ様。ごめんけど、先上がるね」

 彼女の「はーい」と言う気の抜けた返事を聴きながら、自身の鞄を机下から持ち上げ、近くのハンガーラックからコートとマフラーを手に取ると、素早く着用し、マフラーもぐるぐると首元に巻き着けた。今日は珍しく専務がいない。いつも彼女には残業を遠回しにお願いされ、断りきれない私は、週のほとんどを残業していた。後輩には申し訳ないけれど、残らず済んだことに心底ほっとしている。私はすぐに職場を出ると、冷え切った軽ワゴンへ乗り込み、真っ先に息子のかなでが待つ保育所へ向かった。出張ばかりな夫はほとんど家におらず、毎日息子の送迎をするのは私だ。カーステレオのデジタル時計を視界に入れる。今日は遅れていない。閉所の十八時までには余裕で到着するはずだ。お腹が減ったと泣き喚く息子に対面することもなく、延長保育料を払わずにも済む。


「あ、奏君のお母さん! ちょうどよかった!」

 保育所の正門に着くなり、奏の担任である若い女性が白い息を吐きながら、慌てた様子で私の元までわざわざ駆けてきた。

「どうかされました?」

 なんとなく嫌な予感がした。

「奏君が今日のお昼、他のお友達に擦り傷を負わせてしまって……、その、本人はお友達と遊びたかっただけで、ちょっと背中の服を引っ張ったら勝手に転んだだけだって言うんですが……、その、お友達はずっと泣いていて……」

 彼女は保護者と保護者の間に入り、担任として粗相がないよう、立ち振る舞おうと必死だ。そんな不安が顔に貼りついている彼女の背後の先には、私の息子と一人の男の子、そしてその子のすぐ横には女性が立ち、こちらを見ていた。同じクラスのまこと君とその母親だ。

「そうですか……。色々と申し訳ありません。今から謝りに行ってきます。先生にもご迷惑おかけしました」

 先生に頭を下げた私はその後、誠君の母親にも丁重に謝罪した。誠君は傍に母親がいるからか、甘えたように泣きじゃくっていたが、その母親は「怪我も大したことないので気にしないでください」と気遣うように言ってくれた。だけど、その一部始終を見ていた自身の息子は、ふくれっ面で納得のいかない顔だった。「謝りなさい」と言っても全く聞かなかった。


 結局、頑なに口を開かなかった息子と手を繋ぎ、仕方なしに駐車場へ向かった。そのまますっかりと暖房が冷めきった車内のチャイルドシートに奏を乗せ、車を発進させた。

「僕、明日、保育所行かない」

 後部座席から、ふてくされた声が届いた。

「ママ、明日も仕事だから、それはダメ。分かってるよね? いつもママ、同じこと言ってるよね?」

「だって、僕、悪くないもん! 背中引っ張っただけだよ! それでね、誠君が勝手に転んで……」

「それでも、謝らないといけないんだよ。泣いてたでしょ? 誠君」

「なんで泣いたら謝らなきゃいけないの? 僕、もう誠君と会いたくない! 明日保育所行かない!」

「泣かせたら謝らなきゃいけないの。それにまだ一人でお留守番なんて出来ないでしょ」

 奏はわんわんと泣き始めてしまった。「行きたくない」と何度も何度も叫び、チャイルドシートの中で、手足を激しくバタつかせながら、泣き喚いている。こうなった奏はもう手が付けられない。何を言っても泣き止まず、どんな言葉を言っても受け入れず、一時落ち着くことがない。きっと明日の朝も泣き叫び、保育所の駐車場から頑なに動こうとしないだろう。そんな息子を力技で抱きかかえ、無理やり連れて行く日もあれば、見かねた担任がわざわざ駐車場まで迎えに来てくれる日もある。わんわん泣いている我が子を無理やり保育所へ行かせるのも、そんな息子を先生に預けるのも本当に申し訳ないといつも思う。だけど駄々を捏ねる子供がいるからと言って、仕事を休むわけにはいかない、いかないのだ。


 私は大きなため息をついた。なぜたまに仕事を早く上がれた日でさえも、こんなことばかり起こるのだろう。これならまだ延長保育料を払ったほうが遥かにマシな気がした。私は赤信号でブレーキをかけると、ハンドルへ項垂うなだれるようにもたれかかった。私の方が泣きたい、そう思った。家に帰れば晩御飯の準備に、お風呂の準備、洗濯や後片付け、色んな家事が待っている。だけど、頼れる人なんて誰もいない。すると突然、大きな音が車外から響いた。クラクションだ。私は慌ててアクセルを踏み、青信号を突き進んだ。傍では未だに奏の鳴き声が耳を劈くように響いてくる。この世から聴きたくない音だけ全て消すことが出来ればいいのに、そう思った。なのに、そんな私を嘲笑うかのように、カーステレオから馴染みの音が流れてきた。ああ、あのくどくて胸焼けするパンケーキの音色だ。職場とは他局を繋げているはずなのに、彼らの新曲はどこでも押されているらしい。私はボリュームボタンを下げ、その甘さから抜け出した。今の私には一切必要のない音なのだから。誰かへの愛の歌なんて、私にはいらない。

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