第2話 秘密

笹森ささもり先生がギターをお好きだったなんて、驚きました。普段全然そんなお話されませんから」


「いえ、昔、ちょっと齧ってただけで」


 場所はモール内にある喫茶店。奥の窓際の席に向かいあって黒曜こくよう先生と座っている。 


 私は努めて何でもないようにアイスコーヒーを啜る。


 上手いこと見知った教え子たちに遭遇することはなかったのに、同じ星花せいか女子学園で働く同僚の黒曜先生に会うとは思わなかった。


 逃げ出したい気持ちを抑えて、私はなるべく落ち着いて、言葉を紡ぐ。


 学園で私は音楽の話などしない。そもそも音楽教師でもないし、音楽にも携わっていないただの理科教師だ。私が人前でギターを弾いていたのも遠い昔。職場で話題にすることでもない。だから、職員室の席も受け持ちクラスも隣り同士の黒曜先生にも、そんな話はしたことがないわけで。


「私、楽器とか音楽には詳しくないですけど、笹森先生の演奏とても素敵でした」


 どこか感心したように、黒曜先生は真っ直ぐな瞳で私を見ている。


「⋯⋯ありがとうございます」 


「ちゃんとお世辞じゃなくて本音ですよ。楽器店の前を通りがかったら、すごく綺麗な澄んだ音色がして。人だかりから覗いてみたら、笹森先生がいるとは思わなかったですけど」


「そうですよね」


 誰でもあんな状況に知り合いがいたら驚くだろう。私だってそこまで目立つつもりはなかったのだが、タイミングが悪かったとしか言いようがない。


「笹森先生はあの弾いていたギター、いつか買われるんですか?」


「さぁ、どうでしょうね。そこまで考えていません」


 人に囲まれて、その中に黒曜先生もいたことで、ギターのことは有耶無耶になってしまった。だが、それは別にどうでもいい。ギターなんていつでも買えるのだから。あの状況をいかに誤魔化して、目の前の人に忘れてもらえるか。今はそれしか頭にない。


「学校で弾いたら生徒たちも喜ぶかもしれませんよ」


 ふふふっと笑って黒曜先生は何だか楽しそうだ。本気で言っているわけではないだろうが、私にとって恐ろしい提案はしないでほしい。


「うちの学校は軽音部もありますし、指導しているのも経験のある先生ですから、私なんてお呼びじゃないですよ」


「そうですか? せっかくの才能がもったいないですね」


「本当に昔、少し弾いていただけですから」


 何とか私がギターを弾いていたことを闇に葬り去りたい。でも何と言って黒曜先生を口止めすればいいのだろう。さっきからそればかり考えている。


 きっと黒曜先生は私がギターを弾いていたからと言って、それを面白がったりはしないだろう。悪い感情も持っていないだろうし。だからこそ却って口止めしづらい。


 しばらく沈黙が横たわり、私はアイスコーヒーを、黒曜先生はアイスココアを静かに味わっていた。


 どうやって切り出すか、どう頼むのか。さっきからそればかり考えている。


「⋯⋯星花はいい所ですよね」


 先に口を開いたのは黒曜先生だった。随分と気持ちのこもったしみじみとした口調に顔を上げる。そこには穏やかな顔があって。


「先生も生徒もみなさん、好きなことを自由に謳歌しているじゃないですか。私、星花に来る前は公立の学校にいたんですけど、趣味や好きなことに熱中しているような人を暗に否定するような動きがあって⋯⋯。それがとても窮屈だったんです」


 寂しげに目を伏せる。


 言われてみれば、黒曜先生はゲームが好きらしく、他の趣味が合う同僚と楽しそうに喋っていた。赴任してまだ数ヶ月にもかかわらず、教師や生徒とも仲良くやっている。他にもカードを使った占いが得意で、生徒に囲まれたりしてたっけ。


 前の学校しょくばでは出来なかったことを楽しんでいるのかもしれない。


 それならば、尚更私が趣味を隠したいなんて知ったら、困惑させてしまうだろうか。


「黒曜先生がおっしゃるように星花は自由で、おおらかな学校だと思います。みんな好きなことを、好きなまま素直に楽しめる空気がありますから⋯⋯。でも、私はその⋯⋯、趣味と仕事は分けておきたいと言いますか⋯⋯。仕事に趣味は持ち込みたくなくて。だから、私が今日ギターを弾いていたことは秘密にしておいてほしいんです。誰にも」


 そこまで話して私は残り少なくなっていたコーヒーを飲み干した。カランと残された氷が涼し気な音を立てる。


「分かりました。このことは私たちの秘密、ということにしておきましょう。笹森先生には笹森先生の事情がありますものね」


 黒曜先生は「大丈夫」とでも言うように、私を安心させるためか、テーブルに置いた私の手に手を重ね優しく微笑む。少し冷たい指先が手の甲に触れた。


「すみません、おかしなことをお願いしてしまって」


「いいんですよ。私は気にしていませんから」


 私は安堵するとともに、何とも言えない罪悪感が胸に沈んでいくのを感じた。それは好きなことを隠すことについてなのか、黒曜先生の口を封じたからなのか、自分でも分からない。


 それ以降、話題は他愛もない世間話に移った。いつも職員室でするような無難な話だけがするすると流れ、気づけば窓から差し込む日差しも少し形を変えていた。


「そろそろ出ましょうか。黒曜先生は電車で来られたんですか?」


 黒曜先生は通勤も確か電車だったはずだ。


「ええ。笹森先生はお車ですか?」


「そうです。黒曜先生の用事がお済みでしたら送っていきますよ」


「あら、いいんですか?」


「どうせ行き先は同じですから」


「せっかくですから、お言葉に甘えようかしら」


 私たちは喫茶店を出て、そのままモールの出口まで向かう。駐車場に出ると、北の空から雨雲が迫っていた。 

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