最終話:天気雨のような僕らの記録
県大会は普通に負けて、部活も学校も落ち着いてきた。秋は県大会で終わり、冬が来る。冬になると僕は、姉さんに会いに行く回数を少し増やしていた。単純に一緒にいたかったのと、姉さんがまた不安定になっていたからだ。
だけど、二人で過ごすクリスマスを楽しみにしてくれていた。僕も、楽しみだった。この頃になると、姉さんから言われた嫌な言葉がフラッシュバックすることもなくなっていた。
そして、クリスマス当日。12月25日に二人だけのパーティをすることになっていた。僕は養母さんから預かったお酒と、予約しておいたケーキと、それから食材、プレゼントを持って昼に姉さんの家に向かった。
鍵を開けようとして、鍵が開いていることに気がついた。不用心だなあ、と思いながら、心の何処かで嫌な予感がしていた。姉さんが鍵を開けっ放しにしていたことなど、一度もないからだ。だって、僕は合鍵を持っているから。田舎ではあるけど、鍵を閉めないほどの田舎ではない。
それに、姉さんは警戒心が人の何倍も強い。鍵を開けっ放しにするなんて、ありえないことだった。
ドアを開けると、室内は異様な空気に満ちていた。何か変だ、姉さんの声がしない。パソコンから動画の音声も流れていない。まるで時が止まっているように感じた。ダイニングにはおらず、禁煙部屋にも彼女の姿はない。
まさか、と思った。
以前に、風呂場で自殺をはかったことがあったからだ。
脱衣所に入った瞬間、気が遠くなった。一瞬理解ができなかった。姉さんが、水道の蛇口にくくりつけられたタオルで、自分の首を締め、ぐったりとしていた。姉さんの体に触れると、冷たかった。呼吸をしていなかった。
死んでいる。
そう理解した瞬間、僕は吐いた。
それから僕は、養母さんに連絡した。養母さんはすぐに来てくれた。警察にも連絡したのか、警察も来た。僕は何がなんだかわからないまま、警察の事情聴取に応じた。養父さんも警察まで飛んできて、事情聴取を終えた僕は二人に抱きしめられた。
遺書があったということと、死んだ状況から、姉さんは自殺だと断定された。死亡したのは、24日の夜と推定された。
僕があと1日早く来ていれば、姉さんは死ななかったかもしれない。そう思った。もっとも、24日には内緒で準備したいことがあるから来ないでねと言われていたし、姉さんは身辺整理を徹底的に行ってから死んだから、計画的な自殺だということは明らかだ。
姉さんは、僕と幸せで楽しいクリスマスを過ごすことを語りながら、その一方で、自殺の準備を進めていたのだ。
頭がどうにかなりそうだった。悲しくて、辛くて、悔しくて悔しくて仕方がなかった。
事情聴取の後、僕は実家に戻った。何も知らない親兄弟を前に、僕は普段通りに振る舞っていた。姉さんが死んだというのに、普段通りに。気が狂ってしまいそうだった。話している自分が、歩いている自分が、全て自分自身じゃないように感じた。
それから少しして、遺書を読んだ。
燃やしてしまったから、原本はない。
色々なことが書かれていた。大半は、謝罪と僕への愛、家族への言葉だった。前半には家族への想いが書かれていた。二人に引き取られて幸せだった、みんなと家族でいたことが私の誇りだと。
後半は、全て僕に対するものだった。
僕のことをどれだけ愛してくれていたのかということ、一方で鈴ちゃんのことで責める自分もいたこと。ひどいことを言って傷つけてしまってごめんなさい、あの日から少し避けられてたのはわかっている、と。それでも好きでいてくれて、愛してくれてありがとうと。
記憶にある限り、遺書の内容を一部再現してみようと思う。補完もしているから、一言一句正確ではないと思うが、雰囲気は伝わるだろう。
――――。
ヒロくんへ。
ごめんなさい。
私は、君のことが本当に大好きだった。愛してる。気づいてたよね。私も、君が本気で愛してくれているの、知ってたよ。ありがとうね、たくさん愛してくれて。
傷つけちゃった。大好きなのに、守りたかったのに、幸せにしたかったのに、傷つけたいわけじゃなかったのに。そんなことのために生きてたんじゃないのに。
それでも、私を愛してくれてありがとう。ダメなお姉ちゃんだったね。今も、君をたくさん傷つけてるんだろうね。一緒に生きてあげられなくて、幸せにしてあげられなくて、ごめんね。
私のことは忘れて幸せになってください。
ごめん、やっぱり、一生引きずっててほしいな。
ごめんなさい。自分勝手なお姉ちゃんでごめんなさい。
――――。
だいたい、こんな感じだったと思う。本当はもっとたくさん、長く書いていた記憶があるけど、言葉や言い回しを少しでも思い出せるのは、このへんだ。
あと、遺書の最後に、こんなことが書かれていた。原本はなくても、この一節は一言一句、忘れられないでいる。
――――。
君は、子供の頃からずっと心のどこかで死にたがってたよね。きっと、このまま生きていてもそれは消えないんだと思う。私もそうだからわかるよ。私が君とずっと一緒にいると今度こそ取り返しがつかないくらい君を傷つけてしまうと思う。
だから、私は死ぬんだよ。
私がいないほうが君は生き続けられると思うから。
そのほうが、ひろくんは幸せになれると思うから。
――――。
この遺書を読んだ日から、僕はずっと自分を責め続けた。自分が弱いせいで、姉さんは死んだんだと。幸せになってはいけないとも思った。いや、今でもちょっとは思ってる。だからか、人からの好意に気づくと逃げて、自分の相手への好意が膨れ上がると怖くなる。
だって、僕が幸せになると、姉さんの馬鹿な考えを証明してしまうような気がしたから。
高校は楽しかったが、精神状況は歪だったように思う。高校では楽しく過ごし、家では平静を取り繕いながらも暗く過ごし、内心ではずっと死にたかった。寂しかった。今だって、寂しい。どうしようもなく。
後悔もした。
もっと好きだと、大好きだと、愛しているとたくさん言えばよかった。もっとたくさん会いに行けばよかった。親にバレることなど気にせずに、もっと深く長く一緒にいればよかった。もっともっと、姉さんに優しくすればよかった。もっと甘えればよかった。甘えてもらえばよかった。
最初は、泣けなかった。世界で一番大切な人が死んだというのに、ただ吐き気がこみ上げるだけで、涙が出なかった。心には、何にもなかった。空っぽだった。常に別人格を演じているような感じがして、ずっと気持ちが悪かった。
僕が姉さんが死んだことではじめて泣いたのは、葬儀の後、一人で公園の広場のベンチに座っていたときだ。空がとても青くて、空気が白くて、周囲には遊ぶ子供の声があって、たまらなくなって泣いた。
ああ、もういないんだな、ということを思い知らされたからだと思う。
人というのは、思っているよりもずっと弱い生き物だ。一見元気に思える人も、何かひとつのきっかけがあれば、壊れ、死んでしまうということを僕は高校一年にして理解させられた。
たとえば、朝起きる理由が見当たらないとか、なんとなく人生が空虚に思えるとか、そういう漠然としたことこそが、人の心を蝕むんだと。
姉さんの死後、僕は毎日のように夢を見る。姉さんが首をくくっていたときの夢を。道を歩けば、どこかに彼女がいるような気がする。公園の広場のベンチに座っていれば、姉さんが後ろから脅かしてくるような気がして、だけどそんなことはあり得なくて、寂しい気持ちになる。
毎朝、起きると虚しくなる。起きる理由が見当たらなくて、ちゃんと起きられなくなった。地に足が付いていないような感覚が、ずっとある。メガネのフレームが、モニターのベゼルのように見える。世界の色が、ほんの少しだけ黄ばんで見える。
だから、僕は色を表現するのが苦手だ。
唐突に味がわからなくなることがある。刺激だけは感じる。
だから、僕は何にでも一味唐辛子を大量にかけるし、炭酸が強い飲料が好きだ。
しかし、僕は生きている。
後ろ歩きかもしれないけど。
きっとこれからも、寂しさが拭えることはないのだろう。色々な人と付き合ってきたし、色々な人に依存して生きてきたけれど、姉さんがいない寂しさを埋められるものも人も、ことも存在しないのだ。存在するとしたら、もうこの世界にいない姉さんだけなのだから。
そんな僕は今、こうして文章を書いている。
正直、こんなクソ暗い葛藤や悩みや後悔を言葉にすることは迷ったが、それでも自分の感情まで含めての記録だと思い、書いている。
全くうまくいっていないのに、貧乏ライターを続けている。
趣味では、こうしてエッセイを書いたり小説を書いたりしている。
彼女が、そう望んだから。僕が、そう願ったから。
これは全て、本当にあった出来事だ。
登場人物は、全員、本当に生きていた人だ。僕にとっては、この世界よりも大事な人たちだ。
もちろん、信じてくれとは言わない。まるで映画か小説のような話だと、よく言われるから。信じられないのは理解できる。
しかし、これは物語じゃない。
何の変哲もない天気雨のような僕らの、生きた証。それ以外の何でもない。
無理やりエモい感じで終わらせるなよ、とちょっと思った。
これからも、きっと、僕はエッセイや小説を書きながら生きていくんだろう。そうだといいな、と今は思う。姉さんがどうというより、自分が好きだから。
自分の書いたもので、姉さんみたいに喜んでくれる人がいるかもしれない。そう思うと、たまらなく楽しい。まあ、このエッセイは……。
あの人は嫌がるだろう。ざまあないね。
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