第27話:崩壊

 中学生になって、僕は携帯電話を持つことを許された。姉さんやみんなとのメールも、パソコンではなく携帯電話でするようになった。電話もできるようになり、姉さんと話す回数が増えた。


 ある日、学校が終わってすぐにあるメールが届いた。


 件名に「助けて」と書かれているメール。本文は、なにもない。差出人は、鈴ちゃんだった。ドクンと心臓が跳ねた。まさか、と思った。僕は部活があることなんて全て忘れて、一目散に駆け出した。きっと、あの場所だ。


 学校から出て坂道を下って左へ曲がり、また坂道を下ると、すぐに塔の広場につながる階段が見える。長い長い階段を駆け上り、塔の広場に向かった。


 声が、聞こえてきた。様子が、変だった。隠れて様子を伺うと、例の男が鈴ちゃんの体を弄んでいた。何をしているんだ。何が起こっているんだ。助けなきゃ。そう思ったが、体が動かなかった。異様な光景に、恐怖を覚えた。嫌がり叫ぼうとする声を手で押さえつける男に、手から漏れ出る苦悶の声。そこに、少しだけ湿った吐息が混ざっていた。


 頭がおかしくなりそうだった。


 後から調べたが、防御反応でそうなってしまうそうだ。


 しかし、当時の僕はそんなことはわからなかった。なぜあの男がこんなことをするのかも。なぜ、鈴ちゃんがそんな吐息と声を漏らすのかも。


 一瞬、鈴ちゃんと目があった気がしたが、体が金縛りにあったようだった。


 結局、体が動いたのは全てが終わった後だった。僕はわけもわからず男に飛びかかり、押し倒して首を締めた。


「ま……って、しんじゃう、死んじゃう!」


 鈴ちゃんの声で我に返らなければ、僕はこのとき、その男を殺してしまっていただろう。男の首から手を離すと、苦しそうに息をしていた。僕は服が乱れている鈴ちゃんに自分のブレザーを貸した。


 何を言ったかはよく覚えていないが、僕が男に何かを言うと、男は逃げて行った。多分、次鈴ちゃんに近づいたら今度こそ殺すとかなんとか、そういうようなニュアンスのことを言ったんだろうと思う。


 鈴ちゃんに駆け寄ると、彼女は虚ろな目で僕を見ていた。


「どうして、助けてくれなかったの……」


 やっぱり、目が合っていたらしい。僕は頭の中が真っ白になった。何も考えられなかった。それでも、目の前で傷ついている大事な人をどうにかしたかった。


 ただ、何も言えなかった。


 何も出来なかった。


「どうして、どうして!」

「ごめん……」

「……謝らないでよ」

「ごめん」

「謝らないでよ!」


 そう怒鳴って、鈴ちゃんは気を失った。僕は姉さんに電話した。この状況を隠せそうもなかったから、素直に全て説明した。姉さんは車の免許を持っていたから、姉さんに迎えに来てもらうことにした。


「ヒロくん! 鈴ちゃんは!?」


 姉さんが何を言ったかは日記に書いてあるが、僕がどう答えたかは書かれていない。きっと、自分の言葉にまで意識を向けている余裕はなかったんだろう。


「運ぶから、ついてきて」


 姉さんが鈴ちゃんをおぶって、フラットにした車の後部座席に寝かせた。それから体に付着した男の体液をウェットティッシュで拭き取って、車を走らせる。


「今家にお母さんがいる」


 だけど、一刻も早く、鈴ちゃんを安心できる場所で休ませたかった。僕が悪いんだ。僕が、説明すればいい。鈴ちゃんは嫌がるかもしれない。


 ただ、僕らだけじゃ無理だ。


「僕が説明する」

「……わかった。無理はしないで。私がいるから」

「ありがとう」


 家に帰って鈴ちゃんを運び込むと、養母さんがぎょっとした顔をしていた。とりあえず鈴ちゃんを自室のベッドで寝かせ、僕たちはリビングに集まった。説明してほしそうにしている養母さんに、全て僕の口から説明した。今まで何があったのかを、遡って、全て。


 話している間中、何度も言葉が詰まった。何度も吐きそうになった。実際、二回ほど吐いた。その度に姉さんが背中を擦ってくれて、説明するときは姉さんが手を握ってくれた。代わろうとしてくれている姉さんの申し出を断って、時間がかかっても僕が全部養母さんに話した。


 自分のせいでこんなことになった、と。


「色々言いたかばってん、まず、ヒロくんのせいやなか」


 全部話した後、養母さんが静かに言った。


「学校と警察には私から話をします」

「うん」

「ただ、ヒロくんには見たこと、させられたことを証言してもらわないけんごとなると思う」

「うん」

「ごめんね、また辛い想いをさせることんなるばい」


 僕は、「大丈夫」とだけ答えた。僕が辛い想いをして、アイツに何か罰が下って、二度と鈴ちゃんに近づけなくなる保証が生まれるのなら、それでいい。心配なのは、むしろ鈴ちゃんのことだった。ひどく虚ろな目で焦点も合わず、金切り声で叫んでいたあの子の顔がまぶたの裏に焼き付いていたから。


 鈴ちゃんが目を覚ましたとき、姉さんがそばにいてくれた。僕は、いないほうがいいと思ったから遠慮した。僕がいたらきっと、フラッシュバックしてしまうだろうから。


 そんな僕の頭を、養母さんが優しく撫でてくれた。


 この日から、鈴ちゃんは口数が減った。学校にも行かなくなった。会いたいと言われて会ってみたら、ひどく憔悴していて、謝ったかと思ったら急に暴れ出して大変だった。実家では普通に過ごし、学校では明るく振舞い、それ以外のときは鈴ちゃんが少しでも元気になるように努めた。


 来る日も来る日も。キツく当たられても、暴れられて怪我をしても、暴言を吐かれても、全部僕が悪いんだからと飲み込んで、鈴ちゃんがまた歩き出せるように。姉さんにはすごく心配された。養父母さんにも、しばらく休んだほうがいいと言われた。藍ちゃんは、僕の頭を撫でて「辛いって言っていいんだよ」と言ってくれた。


 それでも、僕は逃げたくなかった。


 僕は、鈴ちゃんがまた虐められてることに気がつけなかったから。見ていたのに、助けに入ることができなかったから。


 あのとき、解放感のほうが大きかったから。

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