春雷

T.KARIN

春雷

 春。

 忌々しいこの季節がまたやってきた。

 春は全ての諸悪の根源だと思う。

 新生活に心躍らせた新社会人も、新たな環境に胸躍らせる高校生達も、数か月後には現実を見ることになる。まるで蜃気楼だ。

 そして俺も飽きずに水を追い続ける。そうして俺はまた雷に打たれた。

 桜に汚された煉瓦道も、花粉舞う不快な風も、眩むような快晴も、全ては彼女を引き立てるためにあるのだろう。

「蒼い......」

 澄んだ瞳は、蒼く見えた。儚いその背は、煌めいていた。どう言い表せば良い。どう表現すれば良い。足りない語彙を恨むのに時間はかからなかった。

 ただ、足りない語彙で彼女を言い表すのだとすれば、蒼い落雷という言葉が似合うと感じた。

 何の変哲もない煉瓦道。あれ以来、俺はそこに通う様になった。道すがらだ。否、ここを通る必要は全くない。それ所か、こんな所を通れば、遠回りになる。それでも此処に通った。

 数十程、目にした頃だっただろうか。いつしか彼女の瞳に見慣れ、今度は宙を舞う髪に惹かれる様になっていた。花粉を運ぶ強風に抗うこともなく、ただ遊ぶ様に宙を踊る髪。彼女は春に何を思うのだろうか。

 黒髪。その筈なのに、彼女のそれはとても鮮やかに見えた。そしてそんな髪の隙間から覗く白い肌は、まるで死人の様だった。

 白と黒。

 貴女にはこの世界の彩りがどの様に見えているのだろうか。


 あれから二週間が経った。

 分かっていた。全ては彼女の思い通りだったのかもしれない。彼女はいつだってそこにいた。梅雨が近づいているのか、湿った風に吹かれて、痛みにも似た憂い。憂いにも似た、それ。

 彼女がくれたプレゼント。

 言葉にできない。形にできない。行動できない。

 情けない。

 そうして自分に呆れてゆっくりと瞬いた。そして下を見つめる。そしてまた彼女を見た。

 蒼い瞳がこちらを向いていた。

 優しい目だ。儚いのに強い、蒼い瞳だ。

 何も聞こえない。

 電車が横を通っている。確かに通っている筈なのに。何も聞こえない。

 何が起きてる。

 何が。

「....ふ」

 笑った?

 笑ったのか?

 俺を?

 余りにも滑稽で笑われたのか。

 違う。そんな訳無い。分かっている筈だ。

 嘲る人間が、あんな優しく笑いかける訳が無いだろう。

 蒼の落雷。

 忘れていたこの感覚。

 嗄れた心も、さざめく秘密も。

 粉々に。吹っ飛んでしまった。

 刹那の間に、痛みも憂いも、全部吹っ飛んでしまった。

 ただ、甘く、酸い感覚だけが体に残った。


 あれから数日、未だ俺は何も出来ていない。

「春も終わりますね。」

「春が過ぎたらもうここには来ませんか?」

「それならば僕と踊りませんか。」

 言える訳も無い言葉は、ただ心に憂いと痛みを残すだけ。

「宙を舞う花が綺麗ですね。」

「綺麗な花ですね。」

「散る花びらは貴女の様だ。」

 雷に打たれて以来、俺はまた嵐を待った。だがいくら待っても、彼女の蒼い瞳は上の空。何をも捉えないその瞳に、俺が映る隙は無かった。

 足りない。

 嵐が足りない。

 雷を待ち侘びている。

 帰れない。立ち去れない。行けない。行きたくない。

 あの笑い声から浮かべる話し声。その細い声で、拒絶してくれても良い。騙してくれたって良い。

 貴女になら、尽くしましょう。

 貴女になら、騙されましょう。

 貴女になら、殺されましょう。

 だから全てが枯れ果てるまでは、此処に来て下さい。

 どうか。

 どうか。

 そして彼女は消えた。

 いつもの事だ。

 彼女は気付くと消えている。

 甘い香りと、陰り。確かにあったそれが、幻の様にそこに残っている。

 春も終わりが近づいてきた。

 聞きたい言葉も、言いたい想いも、笑うくらい山程あるのに。

 何も。

 何もだ。

 彼女を前にすると何も出ない。出てこない。

 情けない。

 そう思うたびに、焦げ付く様に痛み、そう思うたびに、刺し込む様な痺れが走る。何も言えない。

 ただ、酸いと甘いが、不快と共に残る。

 ただ、それで良い。

 たまに視界の端に入れれば良い。

 たまに思い出して貰えれば良い。

 たまに煩わしく思ってもらえてれば良い。

 満たされない想いも、やるせない気持ちも。

 貴女の平穏を守るための大事な雷雨なんだろうと、そう思えば、雷雨すら心地良く思える様になっていた。

 ただ、満たされたい。

 そんな欲求は、尽きない。

 どうか騙しておくれ。

 愛、と笑っておくれ。

 いつか消える日まで、そのままでいておくれ。

 どうか騙しておくれ。

 愛、と笑っておくれ。

 いつか消える日まで。

 春が終わる。

 朦朧としている。

 雨に濡れた暖かい風が、頬を伝う。

 赤い煉瓦の上に立っている。その筈なのに。

 足の感覚はなくなっていた。

 手先から肩までの感覚もなくなっていた。

 ただ見える。彼女がいる。

 口も動く。その筈なのに。

 言いたいことは形にならない。覚束ない。

 そうして俺はまた彼女を見つめた。ただ真っ直ぐ見つめた。

 もう下は見ない。

 すると彼女はこちらを向いた。

 ただ様子がおかしい。

 とても驚いている。

 だが何故だろう。

「いるの?.....」

 何故だろう。

「聞こえるの?.....」

 この驚き顔は。

「まだいるんだ...............」

 驚き顔には。

「良かった.........................................」

 凄く見覚えがあった。

 そして、彼女はいつもみたいに笑った。

 ふっと優しく、少し悲しそうに。

 俺の憂いはまたもや粉々に砕け散った。

 春の終わり。嵐の到来。

 春の大地の上で、その蒼い雷はころころと笑った。

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