}融和する世界たち{

@LostAngel

}第一話{

}第一話{


 眠りから目覚め、見慣れた白い天井に焦点を合わせる。


 なんてことのない、いつもの一日の始まりだ。 


 俺は相田桃理(あいだとうり)。しがない十七歳の高校二年生。


「時間は…まだ大丈夫か」


 ベッドから起き上がり、壁にかかった時計を見て時刻を確認する。


 よかった、遅刻の心配はない。


 安心した俺は、いつものTシャツに短パンの寝間着姿から制服へと着替える。


 寝る時間を最大限に確保したいので、起きてすぐに学校の準備をしてから、一階に降りて朝食を摂るのが習慣になっている。


「ふぁ~あ、よく寝た」


 俺はあくびをして眠気を払いながら、ブレザーのボタンをしっかり止め、厚めのカバンを持って部屋から出る。


 そしてガチャリとドアを開け、廊下に出る。


 左を向くと、隣の部屋のドアが閉まっていた。隣の部屋は、一つ年下の妹である美紀(みき)の部屋だ。


 いつもドアを開けっ放しにして部屋を出るので、美紀はまだ寝ているのだろう。


「大丈夫かよ、まったく」


 妹はいつもだらしない。毎日遅刻ギリギリの時間に起きて、ろくに朝ご飯を食べずに家を飛び出してしまう。


 ひいき目に見ても可愛い顔で、学校ではちやほやされていて人気のようだが、皆は本性を知らないだけだ。


「おはよう、母さん」


 俺は階段を降りながら、リビングにいるであろう母さんに挨拶をする。


 ……。


 変だな、返事が返ってこない。いつも朝早くに起きる母は、今頃の時間であればとっくのとうにリビングにいて、朝食の準備をしているはずだ。


 体調が悪いのだろうか。


 俺は不思議に思いながら、階段を下りきる。


 一気に視界が開け、いつもと変わらないリビングの風景が飛び込んでくる、はずだった。


 階段を下る足音が止み、聴覚が冴える。


 最初に聞こえたのは、荒い息と何かを咀嚼する音。


 なんだ?テレビの音ではなさそうだ。


「母さん、大丈夫?」


 俺は未だ寝ぼけながら、リビングを見渡して音の発生源を探す。


 そして、見つけた。


 テーブルを隔てた向こう側。見たことのない大きさの黒い獣が、赤い水たまりの上に佇んでいた。


 え?なんだ、あれ?


 俺は一歩踏み出そうとした体勢のまま、硬直してしまう。


 視線を逸らせない。非現実な光景に、情報の処理が追い付かない。


 母さんはどこだ?まだ寝てる?もしくは、お腹が痛くてトイレに行っているのか?


 あの赤い水はなんだ?鉄臭いし、誰かの血か?だとしたら、誰かが襲われているのか?


 あの化け物はどこから来た?動物園から逃げ出した?あんな生き物、動物園でも水族館でも見たことないぞ。


 俺は色々なことを考えながら、数十メートル先の獣をぼんやりと見つめる。

 

 すると、あることに気がついた。


 獣は頭を上下させ、必死に顎を開いたり閉じたりしている。 


 もしかして、なにかを食べている?


 そのことに気づいた瞬間、体中から血の気が引く。


 次は、赤黒く床を染め上げている血溜まりに目を移す。


 血溜まりから伸びる真っ白な腕。そして、横たわる真っ赤な肉の膨らみ。


 こんなことは考えたくない。


 考えたくないが、あれは……。


 あれは、母さん?

 

「ひいいっ!」


 ようやく事態が飲み込めた俺は、目の前のむごい光景に思わず声を漏らす。


「ウ?」


 耳が良いのか、獣が俺の声に反応して咀嚼を止める。


 そして、顔をゆっくりと上げ、こちらを向く。


 口元を真っ赤に染めた、犬のような不細工な顔が俺を睨みつける。


「うわああああああ!」


 情けないことに絶叫してしまう。カバンを落とし、その場に尻餅をつく。


 正体不明の化け物に、母さんが食われた!?


「ウウゥゥゥッ……!」


 俺の動揺をよそに、野犬のように獣が低く唸る。


 ビシャビシャと血の上を進んでこちらにやってくる。


「どーしたのー、兄貴ー!?」


 まずい!上から美紀の声が聞こえてきた。


 このままでは俺だけでなく、美紀も獣の餌食になってしまう。


 逃げないと!美紀と二人で!


 そのためにまず、獣と距離を取らないと!


「くそっ!」


 俺は尻餅をついたまま動けない。恐怖で体が硬直している。


 動け!俺の体!


 動け、動け!


 動け!


「うおおおおお!!」


 俺はすくんだ体に言い聞かせて奮い上げ、弾かれたように振り返る。


 そして、決して後ろを振り向かないようにして、勢いよく階段を駆け上がる。


 ドタドタと階段を昇り、二階に戻ってくる。


 スピードを緩めぬまま、全速力で美紀の部屋に向かう。


「兄貴ー!?」


 よかった、美紀はまだ部屋の中にいるようだ。


 獣のうなり声が近づいてくる。


 後ろから追いかけてきている!


「そこにいろ、美紀!」


「え、なんでよ!?また変なこと言って、なにか隠してるんでしょ!」


 俺は大声で叫ぶが、妹は今にも部屋を飛び出しそうだ。


 獣の姿を見たら、美紀は俺と同じように動けなくなってしまうだろう。


 そうなれば、絶対に殺される。


 だから、獣に出会う前にここから逃げなければならない。


「いいからそこにいろ!今そっちに向かう!」


 美紀の部屋の前に着いた俺は、慌ててドアノブを押さえる。 


 同時に、ドアを開けようとする力が込められる。


「兄貴!?なんの真似?」


 階段の端から、黒い頭が浮かび上がってくる。


 やつも階段を昇っている。


「入るぞ、美紀!」


 事情を話している時間はない!


 そう判断した俺は、ドアをぐいと引き、隙間に体を滑り込ませるようにして美紀の部屋に入る。


「きゃっ!ちょっ、ちょっと兄貴!なに勝手に入って……」


 急にドアを開けたので、美紀がつんのめってこちらに倒れ込んできた。


 俺は美紀を抱きとめつつ、後ろ手でドアを閉める。そして人差し指を唇に当て、「静かに」というポーズを示す。


「る、の……」


 俺のただ事ではない様子を見て、美紀が押し黙る。


 ひとまず身を隠すことに成功した俺は、ドアに耳を当てつつ鍵を閉める。


 獣の呼吸する、ハッハッハッという音がだんだんと近づいてくる。


「なに?なんなの?」


「いいか、冗談じゃないからよく聞け。廊下に化け物がいる」


「え?」


「窓から逃げろ」


「それ本当に言ってるの?私をからかって……」


「窓から逃げろ!」


 思わず怒鳴ってしまう。


 だが、こうでもしないと信じてくれないだろう。


「……分かった。兄貴がそこまで言うなら、本当なんだね」


 俺の言葉を信じてくれた美紀は、窓辺へと歩く。


 そしてパチンと錠を外した後、窓を開け放つ。


「うわっ」


 二階といえども高い。俺も美紀も高所恐怖症ではないが、飛び降りろと言われれば躊躇するのが普通だ。


 木の板一枚を隔てたドアの向こうから聞こえる呼吸音が大きく、鮮明なものになっている。同時に鼻をひくつかせるような、フゴフゴという音もする。


 間違いない。獣はドアの前にいる。


「行け!」


「うん!」


 俺の真剣さが伝わったのか、美紀は決心がついたようだ。窓の縁に両足を乗せ、ひらりと跳躍して外に飛び出た。 


 瞬間、ものすごい力がドアに加わる。


「うわああっ!」


 とても耐えられるような衝撃ではなかった。窓側に吹き飛ばされてしまい、俺は部屋の中央で尻餅をつく。


 と同時にドアをぶち破り、獣が部屋の中に侵入してくる。


「……っ!、っ!」


 なんてことだ。今度は腰が抜けてしまった。立ち上がろうにも、体に力が入らない。


 俺はなんとか両腕を交互に動かして後ずさりながら、精一杯獣と距離を取る。


 獣は鼻を上下させながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。


 このままじゃ殺される。なにか、なにか行動に移さなければ、食われる。


 母さんのように。


 先ほど見た血溜まりを思い出し、気分が悪くなる。


 考えるな。生き残るため、美紀を守るために行動しろ。


 俺はむごい記憶を頭の中から消し去り、なにをすればよいかを考える。


 獣は俺を獲物として認識したようだ。濁った二つの眼が睨みつけてくる。


 しかし、未だ腰が砕けており、とても獣を撃退できそうにない。


 どうすれば……。


 後ろ向きでハイハイをしながら窓に向かっていると、ふと、右手に何かが当たった。


「わっ!」


 過敏になっていて、思わず驚いてしまった。


 これは、鉄アレイか。美紀が筋トレで使っていたものだ。

 

 俺は必死に手を這わせ、グリップ部分を握る。 


 これをぶつければ、時間稼ぎになるかもしれない。上手くいくかどうか分からないが、やるしかない。


 俺が決心をして前を見据えると、獣の歩みは止まっていた。


 ゆっくりと、大きな顎が開かれる。


「!!」


 途端、信じられないスピードで飛び込んでくる。


 殺される!


 とっさの事態に、俺は身を守るために両腕を出す。


 獣の顎が閉じられる。思わず目をつぶってしまう。


 ガチン、と歯がぶつかり合う大きな音が鳴る。


 同時に、喪失感。体が軽くなったような感覚が到来した。


 恐る恐る目を開ける。醜悪な獣の顔。それに、自分の右腕が見える。


 あれ、両腕を前に伸ばしたはずなのに、右腕しか視界に移らない。


 どういうことだ?


 俺は疑問に思いながら、ゆっくりと自分の体を見る。


 本来、左腕が生えているであろう左肩からは、血が噴き出していた。


 左腕がなかった。肩から先がなくなっていた。


「うああああああっ!!」

  

 遅れて、激痛が襲ってくる。


 降って湧いた痛みに錯乱し、俺は暴れながら残った右腕を振り回す。


 ゴンッと、くぐもった音が聞こえた。獣が小さくうめき声をあげる。


 どうやら、鉄アレイが獣に当たったようだ。予想外の衝撃に獣は後ずさり、顔を左右に振って痛みに悶えている。


 その様子を見て、頭の中に冷静さが戻ってくる。


 今だ!今しかない!

 

 動け、動け、動け!


 俺は腑抜けていた腰に渇を入れる。


 痛みで体の感覚を取り戻した俺は、脇に鉄アレイを投げ捨て、よろめきながら立ち上がって窓辺に向かう。


 そしてなんとか窓の前に到着し、縁に足をかける。


 獣が痛みから回復し、唸って俺の方を睨む。


 俺は右手でバランスを取り、体勢を整える。


 獣が再び口を大きく開け、床を蹴って突っ込んでくる。


 俺は窓の縁を思い切り蹴って、空へ舞う。


 すぐ後ろで、ガチンッと顎が閉じられる音が響く。


「うわああっ!」


 俺は情けない声を上げながら、黒いアスファルトの道路に飛び降りた。


 ドシャッ!ゴロゴロゴロ……。


 衝撃を殺しきれずに地面を転がり、体のそこかしこが痛みを訴える。


「ぐっ、いたたた……」  


 俺はすぐに立ち上がり、急いで二階の窓を見上げる。


 窓から顔を突き出した獣が、こちらを見ていた。


 まさか、まだ諦めていないのか!?


「早く逃げないと……」


 獣の正体は謎のままだが、そんなことを気にしてはいられない。


 俺は窓から視線を切り、美紀の姿を探す。


 どこだ?


 そのとき、ガラリと音を立てて、向かいの向井さん家の引き戸が開いた。


「しかし、本当かい?化け物が出たって……」


「そうです!それに兄貴が……」


 美紀と中年の男性、向井さんが話しながら外に出てきた。


 向井さんと俺の目が合う。


「おおおいっ!大丈夫かい!?」


「兄貴!」


 美紀と向井さんが、俺の左肩を見て心配する。


「大丈夫じゃ、ないです……」


「きれいなタオルを今……」


 パリーンと、窓ガラスが砕ける鋭い音が鳴る。


 しまった。美紀を見つけて気が緩んでいた。 


 俺は急いで後ろを振り返る。


 宙を駆けた獣の化け物は、俺の数メートル横に降り立つ。


「兄貴、向井さん!逃げて!」


 初めて見る化け物が怖いはずなのに、それをおくびにも出さずに叫ぶ美紀。


 全員で走っても追いつかれる。それを見越して、美紀が自分だけ残ると言っている。


 いや、違うだろ。

 

 ここで犠牲になるべきなのは……、手負いの俺だ。


「いや、逃げろ、美紀。俺がやつを引きつける」


「でも……、兄貴!」


「いいから逃げろ!」


 俺たちがまごまごしている間に、獣が大きく口を開き、突進してくる。


 狙いは、一番近くにいる俺だ。


「危ないっ!」


 すんでのところで飛びかかった美紀。


 俺は美紀と共に倒れ込むことで、獣の噛み付きを食らわずに済んだ。


「俺にかまわず早く逃げろ!」


「でも兄貴、震えてるよ」


 今は、俺の上に美紀が覆い被さるような状態になった。


 震えが伝わってしまったか。


「兄貴は昔からそうだった。自分も怖いのに、私を守ってくれた」


 獣が美紀の背後に忍び寄る。


 口を大きく開け、涎を滴らせる。


「今度は……、いやこれからは、私が兄貴を守る!」


 絶体絶命のこの状況で、高らかに宣言する美紀。

 

 いつの間にか、その右手には剣が握られていた。ゲームの中で主人公が振り回すような、銀色の抜き身の剣。


 獣が大きく足を踏み込み、突っ込んでくる。


「美紀っ!」


 俺は思わず叫ぶ。美紀は獣に背を向けており、接近に気がついていない。


 だが、美紀は落ち着いている。


 死の間際なのに、余裕の表情を浮かべていた。


「任せて、兄貴」


 美紀は素早く立ち上がる。


 そして、獣の方へ振り向きながら、勢いよく剣を一薙ぎする。


 それだけ。


 たったそれだけで、獣が真っ二つになった。


 母さんを食い殺した、憎き獣の化け物が死んだ。


「……さ、兄貴」


 美紀は何事もなかったかのように、空いている左手を差し出す。


「あ、ああ」


 俺は呆気に取られていたが、美紀の手を借りて立ち上がる。


「向井さん、タオルと氷をお願いできますか」


「分かった。少し待ってろよ」


 俺の無事が確認できると、美紀は近くにいた向井さんの方を向き、お願いする。申し出に快く頷いた向井さんは、家の中に消えていく。


 目の前の脅威が消え、安堵した俺は再び自分の左肩を見る。


 左肩からは噴水のように血があふれている。感覚が麻痺していて、もはや痛みを感じない。


 今すぐぶっ倒れてしまいそうだが、ここは安全ではない。


 他にも化け物がいるかもしれない。ひょっとしたら、安全な場所なんてないかもしれない。


 だが、せめて、多くの人がいる場所に行ければ……。


「兄貴、私……」


 そう思いつつ向井さんを待っていると、美紀がか細い声で呟く。


 獣を倒したときは力強く、自信に満ちた様子だったが、今は一変して不安そうだ。


 原因は、美紀が握っている剣か?


「その剣のことか?さっきまで持っていなかったよな」


「私、勇者に……」


「待たせたな、きれいなタオルと氷だ!今治療するぞ」


 話の途中で向井さんが戻ってくる。


 美紀の言葉がさえぎられてしまったが、落ち着いたときに聞けばいいだろう。


「ほれ、まずはタオルをあてがうぞ!」


 向井さんはそういうと、いきなり俺の肩にタオルを押し当てる。


「ぐわああっっ!」


「頑張って、兄貴!」


 俺はあまりの痛みに、大きな声を出してしまう。美紀の前でだらしない。


「大丈夫か!」


「今行くよ!」


 突然、聞き覚えのない声が聞こえた。


 同時に、近くの茂みから男女が飛び出してくる。


 二人とも端正な顔立ちだ。ヨーロッパの人だろうか。鼻が高く、目と髪の色も派手だ。


 男性は銀色の鎧を着ており、女性は不思議な模様のベージュがかった服に身を包んでいる。


「だれ!?」


 美紀が鋭く尋ねる。


 確か、彼らがやってきた茂みのある場所には家が建っていたはずだ。向井さんのお隣だから、花田さんの家。


 だが今は、木と草の生え茂る森になっている。


 一体どういうことだ?花田さんの家はなぜ消えたんだ?


 それに、この二人は誰だ?


 そこまで考えるが、どうやら血を流しすぎたようだ。


 俺は電池が切れるように、ばたりと倒れ込み意識を手放した。

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