絶対敗者のピアニスト

神田(kanda)

絶対敗者のピアニスト


「北野さん......今回も来てくれてありがとう。」

「そのようなお言葉いただけて、嬉しい限りです。ですが、すいません。私は......」

「ええ、いいんですよ。それが貴女のピアノなのですから。」



今日のピアノコンクールで決まる優勝者には、実質、世界一のピアニストの称号が与えられる。そんな場に私はファイナリストとして、いる。


服を着替える。真っ黒なドレスに。

前回の真っ白なドレスとは対照に。

着替えを終えて、鏡に写った自分の顔を見る。ああ、酷い顔だ。緊張やプレッシャー、あらゆるものから呪いをかけられた顔だ。ピシャリと頬を叩く。無意味だと知っていても。


一歩一歩と、歩を進める度に、舞台に近づいている。その一歩はとても重かった。今までの私には感じることのなかった重みだ。そして、私の愛するあの人たちが、ずっと経験してきた重みを感じることが出来て、少し、嬉しかった。


「音楽は、人を幸せにするためにあるものよ。」


私を救ってくれたあの子の言葉が反響する。

私の大好きな言葉。

私を罪から逃れさせないための言葉。



ピアノを目で捉える。舞台の上を歩いていく。ライトが眩しい。何度も何度も歩いたはずのこの道は、今日、初めて意味を持つ。

お辞儀をし、観客の皆さんを見る。私はこの顔を知っている。期待の顔だ、憧れの顔だ、とても眩しい、希望の顔だ。

心が痛む。それを目の当たりにして。

だが、私にはやらなければならないことがある。


椅子に座り、ピアノを前にして、少し落ち着いた気持ちになった。私の愛するピアノには意思がない。感情も何もない。そんな無機質なピアノは、私の心強い味方であった。

いつ、どんな時も、あなただけは、

味方であってください。

そう、弱々しく願いながら、鍵盤に指を触れる。

ああ、ピアノさん、ありがとう。

やっぱり私にはもう、あなたしかいない。


さあ、始めよう。

ここからは、私の時間だ。


いつものようにピアノを弾いていく。

私のピアノは、人々のこころに安らぎと癒しを与える。明るく、上品で、美しいピアノ。

今までの私が積み上げてきたもの。

それを今、演奏が始まり、少し経ったこの瞬間に、破壊する。私の弾くべき演奏は、希望の演奏ではない。絶望の演奏なのだ。

その絶望の始まりの一音を奏でるのに、抵抗は何もなかった。私にとって、この一音は、運命で定められた一音であるからだ。


私は今まで、数えきれぬほど多くのピアニストの、夢と希望を奪ってきた。それと同時に、未来と過去それまでもまた、奪ってきた。

音楽が、人を幸せにするためのものであるならば、それは、音楽を奏でるピアニストたちにも与えられなければならない。才能などというくだらないプログラムなどによって、音楽が不幸を与えるものに成り下がるなど、あってはいけない。

私は決して許さない、過去の私を許さない。

多くの人々の心を覚悟もなく踏みにじった私を許さない。


しかし、私が私を許さなくとも、必ず敗者は存在してしまう。人は、本当に愛しているものについて、穏やかな心を持てない。自身の演奏に敗者の烙印を押されることは、ピアノを愛していればいるほど、より強い絶望を与える。


私が今までに殺してきたピアニストたちは、誰もがピアノを愛していた。音楽を愛していた。とても美しかった。心から尊敬していた。

そんなあの人たちから音楽を奪った私の才能を、決して許さない。こんなにも不完全で、不平等な身体でこの世にその存在を許した超人的な存在、神という存在を私は決して許さない。

私の音楽は、観客の皆様を幸せにするための演奏ではない。

私のピアノは事実の列挙だ。

私の才能の残虐性の明示だ。

私のような人間から、愛するものを奪われた人々の嘆きと苦しみの現実を、その存在を、公のもとに明らかにする。

その残酷な現実を、私は生涯、暴き続ける。

この演奏は、その誓いである。




演奏を終える。私の演奏を聞き、幸せそうな人もいれば、不満げそうな人もいる。

私はもう、観客の皆さんを幸せにするためのピアノは弾けない。私のピアノは、ピアニストのためのピアノである。その点で、わたしはもう、ピアニストとは呼べないだろう。私はピアニストとして、この場にいないのだから、元から敗者なのである。ああ、そうだ、敗者なのだ。所詮、こんなことをしたところで、競争の論理から抜け出すことはできない。

だからこそ、詭弁を吐き続ける。

この世において、敗者として、存在し続ける。


敗北の音楽家であり、絶対敗者のピアニスト。

それが私である。

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