濁渦
北丘淳士
ステラトリス
フーリエ・ワスナはステラトリスという小国に生まれた。
ワスナという名前は政府から与えられた。
彼女が生まれる以前のステラトリスは思想の過渡期だった。平和な世の中が続き、SNSを通じて様々な意見が生まれ、具体的に形になっていく。政治的正しさ、差別のない社会を形成していく時代だった。媒体を通じ色々な『正しさ』や『差別』、『平等』について議論がなされ、公金拠出を正当化する団体がいくつも出来上がった。やがてそれは少しずつ肥大化していき、権力を持ち法改正へと進んでいく。そのような時代の後に彼女は生まれた。
フーリエは貧しいながらも家族の愛情を持って育てられた。
青い屋根の白い小さな一軒家に住み、両親と祖父がいる。
社会は子供を守る制度が整っており、保育園児でもいじめや差別の芽を根こそぎ刈る管理社会が出来上がっていた。遊具でも危険だと判断されれば、すぐに法改正がされ撤去される。フーリエが一番楽しみにしていたブランコも怪我した児童が出たというだけで、この保育園から撤去が始まった。
お気に入りだった赤い小さなブランコが撤去される工事を、フーリエはベンチで見ている。
何か寂しいなぁ……。
今は工事中で運動場も狭くなっている。住宅地の中にあったので夜に工事することも出来ない。
隣で何か話しかけてくる友達の言葉など入らず、フーリエは園の中から、その工事を見ていた。
数年後、フーリエは小学生へと進学した。その小学校でも面白そうな遊具が置いてない。ただ退屈な授業を受けながら、彼女は退屈な運動場を眺めていた。各教室には監視カメラが作動していて、いじめなどがないか管理されていた。だが教室全体を監視カメラが視ているわけでもなく、賢しい子供の何人かはそれを把握していた。
いくら「いじめは駄目だ」と躾けられても、まだ道徳の整っていない子供たちの何人かは、そのハードルが低く、カメラが回っていないと所でいじめが発生している。
クラスの中で少し体格の良いリールという男子児童が特に幅を利かせていた。少し気の弱そうな男児を相手を隅に追い込み肩を掴んで何か言っている。
それに巻き込まれないよう、フーリエたちは見て見ぬふりをしていた。
ある日、いつも覇気のないフーリエを心配した祖父のバング・ルートが自室に彼女を呼んだ。優しい祖父に懐いていた彼女は喜々とスキップをしながら日頃入ることを許されていない祖父の部屋に入っていった。バングは壁の蛍光灯のスイッチを押した。その部屋は色々な本に囲まれており、彼の書斎は彼女の瞳を輝かせた。
「わぁ、すごーい」
その部屋はオーク材を使った本棚で二面を囲み、窓際に机と安楽椅子が置かれてあるだけの部屋だった。コーヒーの匂いが部屋全体から滲み出ていて、中央にはグリーンを基調としたラグカーペット。窓には遮光カーテンがかかっていて閉められている。
「ここの事は父さん母さんには内緒だぞ」
実年齢より若く見られるバングは、口の前で人差し指を立てる。そして本棚を見渡し、一冊の本を取ってフーリエに渡した。
「これだと読めるだろう」
そう渡された表紙には魅力的な女性の絵が描かれてあった。長い黒髪が風に流され、整った顔立ち、スタイルも良い。凛と立ち、手には長めの剣を持っている。そんな魅力的な絵は、フーリエは今まで見たことが無かった。
憧憬、というものを感じた。
こうなりたい。美の基準。自分の生き方。そういう事まで考えるには、まだ幼いが羨望の気持ちは膨らみつつあった。
「本を開いてみなさい」
優しく声をかけるバングに頷いたフーリエは、ゆっくりと一ページ目を開いた。そこにも同じ女性が違う構図で描かれてあった。まじまじと見た後、次のページをめくる。そしてコマ割りしてあるページが飛び込んできた。
「これは漫画というんだ」
「マンガ?」
「トーアという国の人たちが書いている本で、私が子供の頃は色々なものがあった」
トーアの言葉はステラトリスの言語に置き換えられていたが、まだすべてを理解できるだけの語彙力はなく、拾える単語だけ読んでいくフーリエだった。話の内容は漠然と分かる。今まで見てきた本の主人公は魅力が無く、何ページか読んでそれっきり、というものが多かったせいか彼女の手は止まらない。
口角が上がる彼女を見て、バングはそっと彼女の頭を撫でる。
「私が家にいる時は、言えばここに入っていいよ。だけど誰にも言ってはいけないよ」
僅かに目をバングに向けたフーリエは大きく頷き、その目は再び本へと落とした。
その日以降、フーリエはバングがいるうちは漫画や小説に浸るようになった。
バングもフーリエ用の椅子を用意し、彼も安楽椅子に揺られながら小説を読んでいる。彼女にとって彼にとっても至福の時間だった。
色々な本を読んだ。
綺麗な女性が変身して悪を倒す。非力だった少年が仲間と共に強大な悪に立ち向かう。頭脳戦を繰り広げて悪を追い詰める。恋愛物やアクション、ミステリ、日常系、スペースオペラ、サイバーパンク……。ただ所謂、悪は純粋な悪ではなかった。悪にも悲しい過去があり、正義と自負している悪もあり、必要な悪でもあった。
ただただフーリエは純粋に多感な時期に色々な情報を、その身や心に沁み込ませていた。彼女自身、語彙力や表現力も増え、複雑なストーリーテリングに溺れていた。
ある時、ふとフーリエはバングに聞いた。
「なんで、こんな面白いものが外には無いの?」
「うーん……」
小説から目を少し上に向けたバングは、相当悩んだ末に答えを出した。
「多様性に配慮せよ。って事かな」
「多様性?」
「フーリエがもうちょっと大人になったら分かるはずだ。まあ、どっちが多様性に富んでいるかは火を見るよりも明らかだけど」
「うーん……」
フーリエは少し考えたものの、すぐに視線は途中の本へ戻っていった。
そんな彼女をバングはコーヒーを啜りながら、温かい目で見ていた。
ある日、学校の廊下の隅。リールがまた他の子を威圧していた。
色々な本を読んで、リールを純粋な悪だと感じたフーリエは、昂った気持ちを抑えきれず、彼に声をかけた。
「ちょっと、止めなさいよ! 嫌がってるじゃない!」
ゆっくりとフーリエを向くリールの表情に気圧されたが、彼女は気丈に睨み返した。
「なんだぁ? お前」
教室がざわつく。皆の視線を背中に受けながらフーリエは再度、声に出した。
「皆も嫌がっているんだから、そういうの止めなさいよ!」
それを見たリールの口の片端が上がる。
「ははーん、お前、こいつの事が好きなんだろ?」
「そんなんじゃない、そんないじめは止めてって言ってるの! 皆が迷惑しているんだから!」
「煩いなぁ」
リールは片手でフーリエの肩を押す。彼女はバランスを崩して倒れそうになったが踏みこたえて、逆に体重を乗せリールを両手で押し返した。
「うわっ!」
まさか反撃がくるとは思ってなかったリールは、バランスを崩して転倒し、背後の白い壁に後頭部を打ち付けた。そしてかなりの衝撃だったようで、頭を切って出血をした彼は泣き出した。頭を少し切っただけだったのだが、頭部からの出血は勢いが強く、摩ったリールの手にはべっとりと血がついていた。
それを見たフーリエは自分のしたことが怖くなり、顔は青ざめ、その場に腰を抜かした。
ど、どうしよう……。
教室からクラスメイトが飛び出し教員のもとに走っていく。教室内は騒然となった。その騒然がフーリエの心をより掻き乱していく。恐怖にかられた彼女の目には涙が浮かんでいた。
リールは保健室で治療、検査を受け、いじめを受けていた生徒とフーリエは職員室で事情を聴かれた。
「本当に申し訳ございませんでした」
母、カミル・アメリと共に、フーリエはリールの家まで謝罪に訪れていた。
「脳に異常が無かったから良いものの、ホントどういう躾をしているんですか、お宅の子供に」
「はい、重々言って聞かせますので」
カミルは何度も平身低頭して、リールの母親の気持ちが治まるのに耐えていた。
フーリエも泣いて謝っていたが、泣いていたのには別の理由もあった。
リールも悪いことをしたのに、なぜ私や母さんだけが謝らないといけないのだろう。
それが悔しくて悔しくてしょうがなかった。
リールの母親の怒りも治まった帰り道、すでに日は落ちていた。カミルが運転する赤いシビックの中で母は諭すように言う。
「フーリエ、先生からちゃんと理由は聞いたから怒らないけど、暴力は駄目よ。わかった?」
「……うん」
フーリエはまだ泣き止んではいなかった。
正しいことをしたのに……。
彼女は、その気持ちが拭えないでいた。
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