今日 お兄ちゃんも辞めます

菊池昭仁

第1話

 秋晴れの東京競馬場は開催日でもなく、比較的のんびりとしていた。

 三上悟は馬券を手に、屋外でターフビジョンを食い入るように見詰めていた。


 「5-9、5-9だぞゆたか、お前を軸に馬単うまたんの一本勝負にしたんだからな!」

 「悟、お前一体いくら買ったんだ?」

 「50万」

 「お前バカか? しかも馬単に50万円だなんて! ここはせめて馬連うまれんだろう?」

 「昨日、闇カジノで儲けたカネを全部このメインレースに賭けたんだ!

 大丈夫、武豊たけゆたかは間違いなくぶっちぎりの1着でゴールするよ! 何しろオッズは豊が1.2倍、そしてアンカツが3.5倍だ。後はみんな8倍以上だからな? 競馬はギャンブルじゃない、投資だ。

 確率論ではなく統計学なんだよ。

 心配すんな、豊は鉄板だ。

 何しろ「天才ジョッキー武豊」だぞ、馬単で勝負しなくてどうする?

 馬単だと4.8倍だから、240万円にはなるはずだ」

 「悟、お前、「競馬に絶対はない」という名言を忘れたのか?

 馬券で生活しているヤツなんて、俺は出会ったことがない。

 せいぜい賭けても1万円だ。それを50万だなんて。

 競馬はお遊び、レジャーなんだ。わかるよな? 悟。

 あの浪速なにわの巨匠、藤本義一ぎいちですら言っていたぞ、「僕はね、競馬の年間収支は20万円のプラスですわ、これは凄いことですよ、ホンマに」とな?

 それなのにお前は馬単に50万を平気で賭けてしまう。バカなのか大物なのか? 明日、俺と一緒に心療内科に行こう。悟、お前はギャンブル依存症だ」

 「雨宮、お前も一緒に祈ってくれ。50万円が240万円になるように!

 頼んだぞ豊! そしてアンカツ!」



 ファンファーレが鳴った。

 スターターがスタート台に上がり、大きく旗を振った。


 ゲートが開き、16頭が一斉にスタートした。

 中京競馬場、1,200m三歳未勝利戦、ダートコース。三上は祈った。


 「5-9、5-9、神様、豊様」



 第4コーナーまでは混迷を極めていたが、直線になると5番の武豊が馬群を抜けて悠然と独走態勢になった。


 「いいぞ豊! そのままそのまま!」

 「いけるな悟! このまま行けー! 豊ーっつ!」


 アンカツも馬群を抜けてやって来た。

 だが、そこでアクシデントは起こった。

 断然の一番人気の武豊がゴール直前、200mから馬脚が衰え始めたのだ。

 そこへ迫り来る9番のアンカツ。


 そしてゴール直前、頭の上げ下げでアンカツが1着、豊は2着に沈んだ。

 馬単は「9-5」になってしまった。



 「悟・・・」

 「武豊のバカ野郎・・・。何でゴール直前でアンカツに刺されんだよ!」


 親友の雨宮と三上はがっくりと肩を落とし、項垂うなだれ、芝生に倒れ込んでしまった。



 「あー、50万が消えた・・・」

 「悟、お前はもう競馬は止めろ。競馬だけじゃない、パチンコも闇カジノからも足を洗え。

 そして明日、一緒に病院へ行こう。俺がついていってやるから。なっ、悟」

 「なあ雨宮。ロクデナシって、なんでロクデナシって言うか知ってるか?」

 「ラッキーセブンになれないからか?「6じゃなし」が訛ったからか?」

 「そうじゃねえよ、「ろく」とは「りく」なんだ。陸には真面目、誠実という意味がある。

 つまりロクデナシとは「陸でなし」のことなんだ。

 真面目でも誠実でもない人間のことをロクデナシというんだよ。俺みたいな人間のことをな?

 雨宮、俺はどうしようもないロクデナシだ」

 「悟・・・」


 三上はたった1枚の50万円のハズレ馬券をビリビリに千切り、それを競馬場の空に向かって投げつけた。

 秋風がそれを空高く舞い上げて行った。



 三上は定職に就いていなかった。

 一応、大学は青山を出たが、就職はしなかった。


 「くだらんよ! 会社に就職するなんて実にくだらん! あんな腐りきった金の亡者の資本家どもの手先になるなんて、堕落した人間のやることだ!」


 そう言って三上は土日は競馬、平日はパチンコ、夜は闇カジノで生計を立てていた。

 だが「生計を立てていた」というのは誤りである。

 実際は都内の大学病院で看護士をしている、妹の京香に寄生して生きていた。


 京香は27才。真面目で成績も良かったが、親に迷惑を掛けたくないと医大受験を諦め、有名進学校を卒業すると看護士の専門学校に進んだ。


 それに引き換え兄の三上は最低の人間だった。

 35歳になった今でも、悟は頽廃たいはい的な生活を送っていた。


 

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